70.黒妖精の本音
「えっ? ちょっとまって、アロー、どういうこと?」
「死霊術が…………使えなくなった」
魔力が消えたわけではない。擦り切れるほど使い尽くしてまだ一日もたっていないし、体調も万全ではないから微々たる回復ではあるが、ミステルを呼ぶくらいなら問題はないはずだった。
しかも、媒介となる灰は今手元にあって、遠隔に魔力を飛ばす必要すらない。
「待って、落ち着いて、アロー。今はゆっくり休んだ方がいいってことじゃないかな。ほら、熱も下がりきってないんだし、絶対安静だって治癒術師さんも……」
「違う!」
声を荒げてから、アローはハッとして口をつぐんだ。ここでヒルダに八つ当たりをしても仕方がない。
「……ごめん、ヒルダ。でも、本当に違うんだ。……僕が前に眠り込んだ時のこと、覚えてる?」
「あ、うん。カタリナさんの事件の後のことだよね」
「あの時、三日半も悠長に眠っていられたのは、僕が無意識にでも死霊を操る癖があったからだ。あの時だって、僕の魔力は枯渇していた」
つまり、魔力の枯渇があっても死霊術に関しては、アローはほぼ魔力を使わずに発動できるのだ。赤子の頃から無意識に死霊を使っていたのを、魔力によって制御している。
だからミステルを呼び出せなかったのが魔力の枯渇のせいだったとしても、それでは煉獄の炎が見えなくなったことの証明にはならない。
「つまり、死霊術が使えないのは魔力を使い尽くしたとか、体調不良とかのせいじゃないってこと?」
「むしろ魔力が途絶えたことでこの体質を制御できなくなって、治癒術師を混沌とさせていた可能性の方が高かったな……」
だが、実際そうはならなかった。死霊術を使っていなくても、アローは何となく死霊の気配くらいは察することができる。今はそれも全くない。いくら竜が死んだとはいえ、この城はスヴァルトの故郷の入り口にほど近い場所だ。煉獄の近くにいながら、死霊術が全く使えないなんて、今までのアローだったらありえない。
原因が考えられるとしたら、スヴァルトの魂召喚か、冥府に長くとどまり過ぎたか。どちらにしても、対処法などわかるはずもない。アローだってどんな危険が待っているかきちんと理解していなかった。
(スヴァルトなら何かわかる……か?)
そっと契約の対価である左目を抑える。それが合図であったかのように、リューゲが中空に姿を現した。
「呼んだかしら? 私は契約の時に求められた役割を果たしたのだし、あまり軽率に呼びつけないで欲しいものなのだけど」
そうはいいつつも、律儀に来てくれているのだから、彼女もなかなか人が好い。竜の封印を手伝ってくれたことへの礼のつもりなのかもしれないが。
「……魔力が使えなくても、君は呼べるんだな」
「貴方の小うるさい妹と一緒にしないでくれる? 妖精族は人間とはちがって繋ぐ場所さえあれば器がなくても存在できるの。かつてはあの竜。今は貴方の左目ね」
肉体が滅びても本質的には死んでいないリューゲは、死霊とは全く別格の存在だ。彼女自身が魔力をもっているから、アローが魔力を使うまでもないのだろう。
「恥を忍んで聞くが、死霊術が使えなくなった。原因に心当たりはないか? このままではミステルが呼びだせない」
「いいんじゃない? そのまま生きれば、貴方は死霊の隣人ではなくなり、真人間になれるんじゃないかしら?」
「リューゲさん、そんな言い方……」
諌めようとするヒルダに、彼女は白けた顔でそっけなくかぶりを振った。
「人間ごときが黒妖精に意見しないでほしいものね」
アローが彼女とかわした契約は、常闇竜を封印、または滅ぼすために必要な、スヴァルトの魂の説得と封印の実行。そしてそれはもう完遂されている。彼女はいつアローから左目を抜き取って姿を消してしまっても一向に構わないのだ。
彼女が「アローが死んでから左目を取る」という条件を加えてくれていたから、今でもアローは契約者のままだ。しかし、これから先彼女に助力を求めるとなると、新しい契約が必要になる。
逆に言えば、スヴァルトである彼女に協力を取り付けられたら、現状が打開できるかもしれない。
(だって、ミステルがいなかったら僕はなんのために……)
ミステルはアローにとって生きる意味だ。若くして命を落とした彼女を、死しても共にありたいと、魂の消える時までそばにいたいと願った彼女を、蘇らせたかった。不完全でもいい。人間として生き返らせることは不可能だ。それでも、もう一度たった一人の家族である彼女を、死という断絶の向こう側から取り戻したかった。
そのためだけに、自分の世界の全てであった森を捨てて来たのに。
「リューゲ、もう片方の目でも、腕でも足でも何でも持って行っていい。何とかできないのか?」
ただ必死で、アローは黒妖精に懇願の眼差しを向ける。ヒルダが何か言いたげに手をあげたが、答えはリューゲの方が早かった。
「そんな契約に、私が乗ると思ったのかしら?」
それは、彼女にとっては当然の結論。左目だけを対価にしてスヴァルトと契約したのが、奇跡。そう評したのはほかならぬ自分自身だ。そして契約は果たされた。竜は滅んでリューゲもリリエも、もう封印としての役割はない。
リューゲがアローのために動いてくれる理由など、一つもないのだ。
「…………ミステル」
ポツリ、と。
手の甲にしずくが落ちた。一瞬遅れて、自分が泣いているのだと気づいた。
――お前は必ず孤独になるだろう。
まさかそれが、こんな形でだとは思わなかった。死は断絶ではあっても別離ではなく、ミステルはずっとそばにいてくれるものだと、信じ込んでいた。
(師匠があれほど忠告していたのに、僕は……)
自分の無知が、無力が悔しい。あんなに大切にしていた妹一人も、結局守ってやることができない。
めそめそと泣いている場合じゃないのはわかっている。それなのに一度せきを切って溢れだした涙は、どうしても止めることができない。
ヒルダはアローに慰めの手を伸ばそうとして、しかしその手を中空で止める。形だけの慰めでは、何の慰めにもならないと気づいたからだろう。
かわりに、リューゲに向かって頭を下げる。
「あの、リューゲさん、人間が妖精族に口出しするなんておこがましいって思われるかもしれないですけど、本当に何とかならないんですか? ミステルは私にとっても友人だし……アローにとってのミステルは、リューゲさんにとってのリリエさんみたいなものだと思うから」
「頭を下げられてもねぇ……」
リューゲは呆れ半分に、残りの半分には困惑を募らせながら、そっとアローの頭に手を乗せた。もちろん、彼女には実体がないから感覚として伝わってはこない。
しかし、リューゲの方は違った。驚いたように目を見開く。
「何これ…………」
彼女の声に、泣いていたアローも顔を上げる。リューゲは信じられないものを見る顔でアローを見つめていた。
「えっ、な、何ですかリューゲさん? 何かまずい感じだったり」
「何というか……絡まっているわ、魔術回路が」
「からまって、る?」
魔術に詳しくないヒルダには全く意味不明だったようで、彼女は首を傾げて悩んでいる。知識がないなりに想像しようと頑張ってみているらしい。
(そうか、魔力の問題じゃなくて、魔術回路か……)
人間も、妖精族も、聖霊も、恐らく女神と呼ばれる存在さえも。
魔力を持つ全ての者が魔術回路を持っている。これはいわば魔力の導線だ。
妖精族や聖霊は魂に、人間は魂だけでは維持できないので肉体全体を巡っている。
「僕の死霊術は、魔力と回路を共有していた、ということか?」
「そのようね。死霊術と黒魔術の同時施行、その上長時間冥府に魂を置いていたから、その間にねじれた魔力が回路を歪ませている。今の貴方は、行ってしまえば水路をせき止められている状態ねぇ」
「じゃあ、せき止められたところを治せば元に戻ると?」
「……溜まっていた水が一気に流れたら、洪水で溺れるわよ? 貴方の場合、魔力だけではなく死霊も一緒に暴発するものねぇ」
「それでもいい、ミステルが救えるなら――」
「アロー、ちょっとだけ痛いけど我慢してね」
バチン、と。
小気味良い音と共に、一瞬視界が白く消し飛んだ。
ヒルダに平手打ちをされたからだと気づくまでに、しばらく時間がかかる。
「アロー、ね。冷静になって。ミステルはアローの使い魔。アローが死んだらミステルも使い魔だから一緒に消えちゃうの。わかってる? 死霊術のこと全然わかってない私でも、それくらい把握してるんだからアローがわかってないわけないよね? ミステルを使い魔にしたのはアローなんだから」
じんじんと痛む頬に手を添える。
アローはぼんやりと、それに手を添えた。熱い。熱のせいなのか、頬を打たれやせいなのかはわからないけれど。
涙にぬれた頬の熱さで、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中が少しだけ落ち着いてきたように思えた。
「……ごめん、ヒルダ」
「わかればよろしい」
ヒルダはアローの肩を押して、ベッドに寝かしつける。
「後のことは私とリューゲさんで何とかするので、アローはまず寝る。そしてちゃんと身体を治す。いい?」
「……うん」
「勝手に貴方の仲間にしないでほしいのだけど」
リューゲはそうぼやいていたが、アローの意識はすぐに泥のような眠りの中に落ちていく。体力も魔力もさほど回復していないのに、泣いてわめけばこうなるのも当然だ。
ものの数秒で寝落ちてしまったアローの頬を、空中に浮かんだリューゲが据わった目でつつく。もちろん起きない。
「はっきりと言うけど、私にはこの子を助ける義理はないわよ、騎士の小娘ちゃん。ついでにいうと、魔術回路を修復する術なんて黒妖精族には伝わってないし」
「そこを何とか!」
「まぁ、手伝いくらいはしてあげてもいい気分にはなってきたわぁ」
「本当ですか!?」
先ほどまであれだけ塩対応だっただけに、ヒルダは驚いて顔を上げる。
「だって、この子、放っておいたら死にそうじゃない。あっさり死なれたら、せっかくの数百年ぶりの外を満喫できないのよ。何のために破格の契約にしてあげたと思ってるの?」
返ってきた答えは案外俗っぽいもので、これにはヒルダも苦笑をするしかなかった。




