69.宴の後の受難
リリエはゆっくりと立ち上がる。まだふらつきはするが、全線で戦っていたわけではない。ほぼ無傷だ。
何よりステルベンが――自分の父が、大切なことを伝えようとしているのに力なく座ったままではいけないと感じたからだった。
「何でしょうか、お父様」
「お前は人間とともにありたいのか? あの……お前を僻地に閉じ込めた男と」
父の言葉に、見た目だけは少女にしか見えない半妖精は、ゆっくりとかぶりをふった。
「……ファルクは私を閉じ込めたりしていないわ」
孤独に暮らしてきたのは確かだ。しかし彼女は誰に強制されてもいない。監視はつけられていなかった。逃げようと思えばいつでも逃げられた。それでもリリエはファルクのために、地下に捕らわれ続けたリューゲのために、逃げなかった。
それに、僻地で暮らしていた日々でも、そう悪い扱いは受けていない。リリエは基本的に一人では何の力もないのだ。初めは更けない彼女に薄気味悪そうにしていた使用人や護衛も、次第になれて空気のように日々を過ごすようになっていた。
平和だった。不幸は何も起きなかった。その足一つで逃げられる、鳥籠ですらない場所だった、
彼女は選ぶことができたのだ。人を捨ててスヴァルトの父と共に行くことも、いつでも許されていた。選択肢として頭の端にありながらも、ついに実行することはなかった。
そこに手紙だけでひっそりと親交を続けていた、ファルクへの想いがあったことは否定しない。
「お前はあの手紙を読んだか?」
「え? あの……母上の手紙ですか?」
「そうだ。あれにはお前のことも書いてあった。お前に、どちらの側で生きるか選ばせろと。私が聞くまでもなく、お前は人間を選んだ。違うか?」
「確かに……私は人間を選びました、けれど……」
それで、リリエが人の中で生きられるわけではない。寿命が違うのだ。ファルクともいつか死に別れることになる。ステルベンが母と死に別れたように。命の長さが違うのだ。
「あれはお前の身を案じ、人間としても早すぎる旅立ちだったことを詫び、そして永遠でも冥府で待つと、そう手紙に書きつけていた」
「そう……母様が」
リリエがまだ自分が長すぎる寿命を自覚しない幼少の頃に、母は死んだ。誰のせいでもなく、病気で。その頃から、彼女はリリエが人とは時間がズレていくことを予期していたのかもしてない。
「――だから、私はお前を呪う」
「……え?」
予期せぬ言葉に、リリエは目を瞠った。
ステルベンは微笑んでいる。あの、無愛想で娘にも笑顔のひとつすら見せたことのない父親が、何故かこんな酷い言葉を吐きながら、優しく笑っている。
「お前があの男を想うのでも、別の男を選ぶのでも構わない。お前を、お前に連なる全ての子孫を、俺は生涯をかけて呪いつづけよう」
■
――お前は必ず孤独になるだろう。
アローは暗い世界に独りでいた。周りには誰もいない。慣れ親しんだ煉獄の炎も、ここにはない。
(ここはどこだろう?)
ぼんやりと考える。自分が何をしていたのかよく思い出せない。
竜を封印するために戦って、ヒルダが走っていく背中を見送って、それから。
どうして自分がこんな暗闇の中に置き去りにされているのか、思い出せない。全てが終わって、あの暗い洞穴のそこで皆眠ってしまったのだろうか。
(僕は本当に、最善を選べただろうか)
あんな風に皆を危険な目に合わせなくても済む方法があったのではないだろうか。
だから、今自分はこの闇の底に独りでいるのではないだろうか。
「大丈夫」
声が聞こえる。
「任せて、大丈夫だよ」
手を引かれる。暖かな手。太陽のような金色の髪。その微笑み。
彼女は――。
「……ヒルダ?」
「あ、アロー。気づいたの? よかったぁ、また三日半眠りっぱなしだったらどうしようかって思っちゃった」
目を開く。ヒルダが心配そうな顔で覗きこんでいる。
「…………竜は?」
「倒した!」
「………………本当に?」
「何とびっくり、本当です。あんまり報告書かきたくない倒し方だったけど」
「……………………どんな?」
「体中の穴と言う穴に剣とか矢とか突き刺す感じ? ギルさんが何をやったのかは言わないでおくね?」
「察した。そうか……古代竜にも、あるのか」
「あるらしいわ」
リントヴルムを倒した時の彼の戦法を思い出し、アローは遠い目になった。まさか竜の方も尻の穴から攻撃されるとは思わなかっただろう。
「まだ熱があるみたいだから、アローはそのまま休んでて。最低でも三日くらいは安静にしていてって治癒術師さんが。夕方にまた治療に来てくれるから」
夕方ということは、恐らく眠り込んでいた時間は半日強と言ったところだろう。枯渇するまで魔力を使い尽くしたことを考えればなかなかの回復ぶりだ。治癒術師が診てくれたということは、辺境伯ファルクが教会から治癒術師と医師を呼んでくれたのだろう。おかげでどうにか生きている。
よく見るとヒルダはあちこちに包帯を巻いたままだ。傷を治癒してもらわなかったのだろうか。
「あ、これ? 私とギルさんは後にしてもらったの。明らかにアローが一番瀕死だったし。今は近くの街に治癒術師の応援頼んでるって」
「別に僕は死なない程度に後回しでよかったんだぞ」
「死なない程度に回復させてやっとソレなの。大丈夫、酷い傷は私たちもちゃんと先に治してもらってるから。あ、起きれる? 起きれるなら治癒術師さんの置いてった魔法薬があってね」
自分もまだ傷だらけなのに、ヒルダはくるくるとよく動き回る。寝台近くに据え付けられた棚に薬瓶を取りに行く彼女を眺めつつ、アローは重い身体をどうにか起こした。
「はい、これ」
「………………これ、飲まないとダメかな」
「ダメに決まってるでしょ。珍しいね。アローがあからさまに嫌がるの」
「これ多分、昔、風邪をこじらせた時に師匠が作ったのと同じのだ」
透明な瓶に入っているのは、新緑の色をした、見た目だけは爽やかな液体なのだが。
「どんな味するの、それ」
「この世のあらゆる苦い草を消毒液で煮込んだような味がする」
「そ、そう…………」
ヒルダは飲まずに済んだのだろう。明らかにほっとした顔になっている。
アローもできれば飲みたくなかったが、この薬がよく効くことはわかっていたので鼻をつまんで一気飲みをする。壮絶なえぐみが口の中で暴れているような気持ちを味わったが、どうにか飲み下した。この薬の唯一の美点は、後味があまりしないことだ。
それでもアローとミステルは師匠がこの薬をちらつかせるたびに、好き嫌いなく食べよく眠り健康優良児であることを徹底した。
「…………まさか、治るまでこの薬を飲むはめになるのか」
「お、お疲れ様」
ヒルダの眼差しが同情めいたものになっている。決して「じゃあ君も飲め」とは言わない。こんな想いをするのは自分だけでいい。悲劇は繰り返さない。
壮絶な味はともかく、この薬は即効性だ。四肢に重石をつけられていたかのようだったからだが、少しだけ軽くなった。
「そうだ、僕の荷物は?」
「アローの荷物? ここにあるよ」
寝台脇のかごに入れられていた荷袋の中から、ミステルの遺灰を取り出す。
「ひとまず、ミステルは呼んでおかないと心配をするからな」
「魔力、大丈夫なの?」
「ミステルの維持をするくらいならほとんど魔力は使わない。消耗するほどでもない」
同じく、寝台脇に立てかけられていた杖を手に取って、アローは呪文を唱えた。
『死を記憶せよ』
それで、いつだったか三日半も眠りこけてしまったあの時のように、心配した妹が飛び出してきて、大騒ぎをして、それでいつもの日常に戻る。
そのはずだった。
「……あれ?」
確かに、アローは呪文を唱えたはずだ。これはミステルの遺灰に間違いないはずだ。それなのに。
『死を記憶せよ』
もう一度、呪文を唱える。
しかし、何も起こらない。愛する妹の姿は現れない。
冷や汗が背中を伝った。まだ身体の調子が悪いせいだ。そう思いたい。だけど、それだけではない予感がした。
手ごたえがないのだ。魔力が身体の中に戻ってきているのは感じるのに、呪文を唱えてもそれがピクリとも動かない。杖にも、言葉にも、魔力がこもらない。
一度、目を閉じる。
そしてまた開く。あの煉獄の紅い世界を見るために。
だけど、何度目を閉じ、開いてもアローの瞳が映すのは寝室と困惑した表情のヒルダの姿だけだ。
アローの青い瞳は、ずっと青いまま、紅に染まらない。
「どうして……どうして、ミステル……ミステルは!」
問いかけても、答えは一つしかない。
――自分は今、死霊術を使えなくなっている。