68.古代竜の意外な弱点
咆哮が洞窟内を揺らしたように思えた。
両目を潰された龍の雄叫びが、空気を振動させる。
「うえええええ」
半泣きになりながら、それでもテオは弓を引き絞り、大きな龍の瞳に龍鋼の矢を突き立てる。
「テオ、矢の残りは?」
竜の眼から剣を引き抜き、ヒルダは鼻先の角にしがみつきつつ叫んだ。
「あ、あと二本です」
さすがに両目はそれなりの痛手だったのか、常闇竜はヒルダを振り落とそうと頭を岩肌に叩きつけている。
「いい加減におとなしくなってよね!」
ヒルダは角に捕まったままでも届く範囲で刺せる場所を探し、見つけた。
「あんまり気が進まないけど許してよね!」
力の限りを尽くして、鼻の穴に剣をねじ込む。
咆哮、咆哮、咆哮。
血のよだれをまき散らしながら、竜はもがき、頭の上の異物であるヒルダを振るい落とそうとする。
ヒルダは菌糸の一部を鼻先の角に巻きつけながら、その揺れに耐えた。そして、テオに向かってもう一度叫ぶ。
「残りの矢、全部撃って」
「は、はいっ!?」
テオは弓を構える。しかし、竜が激しく頭を振っているので目に狙いが定まらない。撃てないことはないが、目に当たっても傷が浅くなる。それでは意味がない。
竜は苦しげに口を開け、咆哮を続ける。傷つき、喘ぎ、スヴァルトの歌に縛られて暴れることも叶わずに。
その竜が、突然ビクリと動きを止めた。
(い、今だ……)
テオは弓を手に走る。
当然のことだが、狩りは得物が動きを止めている時の方が狙いやすい。確実に仕留められる場所を狙えるからだ。目を潰しただけでは竜は死なない。それならば。
竜が吠える。
横からでは大した威力にがならないかもしれないが、正面からなら。口を開けている、今なら。
少年は走った。騎士としては、正直落ちこぼれだった彼が。家に居場所もなく記事段に放り込まれ、唯一の自慢だった弓の腕前も馬鹿にされて、すっかりやる気もなくなっていたちっぽけな見習い騎士が、自分の意思で唯一の誇りを手に走った。
竜のいる間際は一歩間違えば転落死は免れない絶壁。そのギリギリの位置にたって竜を睨みつけた。
狙うのは喉の奥。二本の矢を同時に番え、少年は狙いを定める。
「いけぇっ!!」
黒の鋼のやじりが、銀の閃光を放って飛んだ。
口を開けた竜の喉に、至近距離からの竜鋼の矢が突き刺さる。
再び、洞窟全体が揺れるかのような振動。咆哮。振動。
「や、やった……うへぁぁあっ!?」
若干気の抜ける悲鳴を上げて、テオは足を踏み外す。何せ断崖の淵に立っていたのだ。その上竜の咆哮で洞窟全体が大きな揺れに見舞われている。
視界がひっくり返る。血を吐きながらのたうつ竜の顎が見えて、テオは自分が落ちたことを理解した。そしてこれから死ぬのだということを。
(役に……立てた、けど)
こんなところで終わってしまう。少年騎士はここに来てからのことを走馬灯のようにぐるぐると思いだしていた。ミステルにだって、やっと見直してもらえたのに。ヒルダにも、褒めてもらえて、やっと、やっと――。
「テオ! 弓を離さないでね!」
「ふぇっ!?」
がくん、という衝撃と共に、彼の落下は停止した。ヒルダが彼を助けるために飛び降りたからだ。まだ竜の身体に菌糸を繋いだままだったので、二人の墜落は免れた。
「本当にアローには感謝だわ。キノコ活躍しすぎ」
「き、キノコ!?」
「これ、キノコの菌糸だから」
「え、ええぇ?」
困惑するテオをよそに、ヒルダは器用に竜の身体と洞窟の壁とを蹴り飛ばして勢いを殺し、何とか地面に降り立った。
「お、お前ら無事だったんだな」
「ギルさん!」
ギルベルトの声にほっとして、ヒルダは振り向く。テオも同様に振り向いたのだが、二人はほぼ同時に顔を引きつらせた。
ギルベルトが頭からつま先まで竜の血を被って、赤黒くてらてらと光っている様相だったからだ。
「気持ち悪っ!」
「ギルベルトさん、何かアローさんの呼び出した死霊よりも禍々しい存在になってますけど大丈夫ですか!?」
「てめえらな…………」
それでも自分が酷い様相である自覚はあったようだ。彼は汚れが酷い上に欠けて壊れてしまった鎧と、血濡れの上着を脱いで放り捨てた。どうせ使いものにならないからだ。
「この竜の尻尾にふっとばされて転がった先が、丁度尻の辺りでよぉ」
彼の言動に、ヒルダはほのかにいやな予感を感じ取った。
「ま、まさか……」
「大発見だな。古代竜でも肛門は柔かったぞ?」
「汚い!」「汚いです!」
声を合わせて思いっきり後ずさった戦女神と見習い騎士を前に、ギルベルトは不服そうな顔で地面にあぐらをかいて座った。
「ご挨拶だな、血しか浴びてねえよ! ウンコ浴びてたらさすがに俺もちょっとは心折れたぜ?」
「古代竜の排泄の心配なんてしないでよ!? ……まさか、一瞬竜の動きが止まったのって、ギルさんが肛門に剣を刺してたせい?」
「え……俺の起死回生の一撃ってギルベルトさんの肛門攻撃に支えられてたんですか?」
全力の白い目を向ける騎士二人に、傭兵は動じることなく思案顔をする。
「いやでも、肛門があったってことはあいつらウンコするんだよな? すげえ発見じゃねえ?」
「あのー、ギルベルトさん、ウンコウンコいうのやめてください……俺、今までにないくらい命かけてたのに、ウンコの穴の話で色々吹き飛んだので」
テオが悟りを開ききった老神官のような顔になっている。
ヒルダは何だか気が抜けて、呆然と竜の身体を見上げた。竜は動かない。スヴァルトの封印がようやく完成したのか、息絶えたのかはわからないが。
「……終わったわよ。危ない所だったわね」
気づくとリューゲがヒルダの前に立っていた。リリエは消耗をしているのか、ステルベンに抱えられている。それでも命に別状はなさそうだ。
「封印できたんですか?」
「いいえ、死んだわ。貴方たち、古代竜相手にずいぶんとやりあったわねぇ」
リューゲは「ほら」と竜の足元を指差す。爪先から徐々に、黒い石へと変化が始まっていた。ほのかに銀の燐光を纏うその石は、竜鋼に他ならない。
「常闇竜は死ぬと竜鋼を残すの。これだけあれば、オステンワルドは当分竜鋼の産地として安泰でしょうね」
「おー、肛門ぶっさされて石化とはなかなか壮絶な最後だなぁ」
「こ、肛門……?」
とどめをさしたのはテオとヒルダであるが、スヴァルトの盟友にして兵器である常闇竜を、肛門を刺して倒したというのはリューゲにとってもさすがに予想外だったようだ。一瞬ピリピリとする殺気が彼女の周りに漂ったが、しかし彼女はため息をついて首を振った。
「仲間たちも帰ったわ。貴方たちも帰りなさい。……このままじゃ、貴方のお友達の眼を今すぐ持っていくことになるわよ?」
「っ! そうだ、アロー!」
あれだけいた死霊の群れはもういない。スヴァルトの魂が帰還するとともに、全て引きずり戻されてしまったのだろう。そして、冥府の門を維持できていないということは、アローがすでに力尽きているということでもあった。
「アロー、しっかりして!」
岩壁に背を預けたまま、アローはピクリとも動かずに眠っている。まだ息はある。しかし、怪我のせいなのか、無理をして術を使い続けたせいなのか、信じられないほどに熱が高い。
「い、医者。お医者さん呼んできて!?」
「落ち着け、お嬢ちゃん。ここに医者呼ぶより医者のところ連れていく方が早い」
「……黙ってそこにまとまれ」
リリエを抱えたまま、ステルベンがやってくる。
「転移する」
彼は何事か古代語で唱え――そして、一行は気づくと彫刻城のエントランスに投げだされていた。
「リリエに手を貸したり、この子たちまで運んであげたり、随分丸くなったものね、ステル」
一歩遅れて姿を現したリューゲに、ステルベンはため息を突きながらリリエをそっと下におろす。
「礼を忘れるほど愚かではないさ。そこの死霊術師は早く神官の元にでも連れていけ。今ならまだ助かる」
「あ、はいっ」
ヒルダがアローを背負おうとしたところで、ギルベルトが横から抱え上げた。
「こういう力作業は俺がやんだよ」
「え、今のギルさんは衛生的にちょっと」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「あっ、ちょっと待ってくださいよ、俺だってちょっとくらいは怪我したんですからね!?」
騒がしく言い合いながらも、三人の人間は慌ただしく彫刻城へと入っていく。辺境伯に口をきいてもらえば、治癒術の使える司祭もすぐに読んでもらえるだろう。悲鳴が聞こえたのは、血まみれのギルベルトが満身創痍の一団を引きつれてきたので、使用人が驚いたかもしてない。
その様子に、リリエはクスリと微笑んだ。
ずっとこの城の地下に眠っていた負の遺産が、永遠に眠った。もう誰も死ななくてもいい。もう誰も魂を犠牲にすることはない。形式上とはいえ、封印になるために生きることを許されてきた彼女にとって、それは福音であった。
そんな彼女の方に、ステルベンがそっと手を置く。
「お前に話がある。…父として」




