63.紅の世界の孤軍奮闘
目を閉じる。そして開く。
世界が燃えている。
冥府から這いあがろうとするものたちの影を振り払い、アローはミステルの声に耳を傾けた。
(二つ目の結びは怨嗟の神ヴァリに捧ぐ)
アローの視界はもはやほとんどが冥府の炎と亡者の影で埋められている。
「ヒルダ、ギルベルト。悪いが僕は自分のことで精一杯だ。冥府を探っている間僕は無防備になるから、全力で護衛してくれ」
「わわわ、わかっ、た。だ、大丈夫、剣で斬れる剣で斬れる……」
「おうよ、こっちは任せな」
若干不安の残るヒルダの返事と、平時とまるで変わらぬギルベルトの返事を聞き、アローはひとりうなずいた。
もう始まってしまったのだから、二人には頑張ってもらうしかない。残りの不安要素といえば、テオがどこまで精神的に持つかどうか、だろうか。弓の卓越した腕前は信頼するが、彼は基本的に少しばかりユルいたった十二歳の見習い騎士だ。
信じるしかない。それ以外にどうにもしようがない。
(僕の勝手に、みんなを巻き込んでいる)
オステンワルドの未来がそこまで大切なのかといえば、そういうわけではない。もちろん、誰も死ぬことがなく生き延びられるのなら良いのだが、親しい人を巻き込んでまでなすべきことだったのかと問われたら、疑問が残る。
(……迷うな)
アローは強制したわけではない。強制する権利もなければ、それだけの力があったわけではない。それでも皆がついてきてくれたのは、心配をしてくれたり、信頼をしてくれたり、あるいは打算してくれたりしたからだ。ならば今更迷ってはいけない。それは成功率を下げる愚作でしかない。アローはスヴァルトの故郷へと向かい走り出した。
走った、といっても概念としてそう認識しているだけだ。アローの肉体はまだあの地底にある。魂だけを冥府の奥深くへと走らせる。当然、奥に行けば行くほど戻れる可能性は低くなるし、死霊の妨害にある可能性があるし、死霊に肉体を乗っ取られる可能性もあがる。
外に溢れ出した死霊はヒルダとギルベルトに任せられるが、冥府の内側にいる死霊は自分でどうにかするしかない。
「……『剣』」
手に剣が現れる。アローの持っている杖は可変式の魔道具だ。それも魔術の大家、クロイツァ特製の。短時間ならば魂を通してこちらでも武器として具現化できる。魂の存在にすることを具現化、と表現するのはおかしいのかもしれないが。
死霊をよけて歩くよりも切って正面突破する方が魔力の消費が少ない。冥府をうろつく時間も短くて済む。
(三つ目の結びは目を閉ざす神ヘイズに捧ぐ)
ミステルの声が響く。視界の紅が色濃くなった気がした。結界で死霊が行き場を失い、戻ってきているからだろう。
結界は魔女の紐による「結び」で強化される。ただし、その魔力の源はあくまでアローだ。護符でこの地に満ちている魔力を多少集約しているとはいえ、「結び」を創っているミステルはアローの使い魔である。彼女自身の魔力ももちろんあるが、彼女を存続させるための魔力はアローから供給されている。
つまり、結界が完成する前にアローの魔力が尽きたら詰む。それは避けたい。
アローは死霊術に突出しているだけで、魔力がずば抜けて強いわけではない。もちろんそこそこには強いが、あくまで人間の常識の範囲内だ。
そしてアローが命令、使役できるのはあくまで死霊だけだ。テオには竜が暴れたら防げないかもしれない、と楽観的な見解を伝えたが、実際には竜に暴れられたらほぼ確実にここにいる全員が死ぬ。
アローには竜を操る力はない。死霊で古代竜とどうにかできるのなら、とっくにそうしている。
(だから、急げ!)
冥府を、あふれ出す死霊を切り捨て、散らして、駆ける。
(四つ目の結び目を争いの戦乙女ディシルに捧ぐ)
結界はこれで四つ目。あと半分を切った。死霊を切り払い、奥へ進む。
「……っ!」
身体を衝撃襲う。いや、今は魂だけを飛ばしているのだから、衝撃が伝わってきたというべきだろうか。肉体の方で何かあったらしい。しかし、戻るわけにもいかない。いくら達人級といってもヒルダとギルベルトの二人きりで、大量に湧いて出ているであろう死霊からアローを完全に守りきるというのも無理な話だ。多少の痛い目をみる覚悟はできている。
(動け、動け)
ただ、考えていた以上に衝撃は大きかった。それでも、もがくようにして前へ、前へと。
「もう少しね」
気が付くとすぐ隣にリューゲが立っていた。
「……いるなら、手伝ってくれると……、あり、がたかったが」
「いくら私の力が弱まっているといっても、黒妖精族なのよ。力を使えば貴方の魂も一緒に吹き飛ばすわよ。それに、私の契約は仲間の力を借りることだけ。私はスヴァルトの置き土産を処分したいだけだもの、貴方に尽くす義理はないわねぇ」
そう言いながらも、リューゲの魔力ゆえだろうか、死霊があまり近づいてこなくなった。アローは無事なのに、だ。彼女なりに、契約を果たす最低限の手助けはしてくれるということだろうか。
(五つ目の結び目を禍の神獣フェンリスに捧ぐ)
ミステルの声が微かに届く。結界の濃度が高まっているのがわかる。
「貴方が門をあけてちょうだい。私の魂を繋ぎとめるのは貴方との契約になるから」
「無茶を言う……が、了解した」
冥府の入り口からかなり奥まで来た。恐らく、肉体は無事とは言えない状態だろう。肉体の影響に加えて魂も消耗して、すでに満身創痍もいいところだ。冥府の門を開いている上に、更に結界を維持するミステルにも魔力の繋がりを保っている。契約によってリューゲの魔力を多少借りることができるだろう。しかし、彼女にはスヴァルトの説得を行ってもらう必要があるのだ。そこまで頼るわけにはいかないだろう。
(六つ目の結び目を世界の毒蛇ミドガルズオルムに捧ぐ)
結界の完成まで、結び目はひとつ。
(師匠は、僕がその気になれば妖精族の魂さえ呼べると言ったんだ)
師匠クロイツァは破天荒でたまに横暴で、大した優しくもなく、しかしないがしろにするわけでもなく、人の気も知らずに勝手に弟子を放り出していなくなるようなわけのわからない人物だ。
ただし、絶対に自信のあることしか言わない。それは確かだ。
師匠ができるというのなら、できないことなどきっとない。不思議とそう思わせる。かの大魔法使いは、少なくともアローにとってはそういう人物だった。
「少し遠いが……これ以上進むのは危険だ。七つ目の結びが完成次第、僕は門を開ける。後のことは割と責任もてないので頼んだ」
「いい加減ねぇ。まぁ、いいわ。貴方に求めているのは門を開けて仲間の魂を呼ぶことだけ」
「そうしてもらえると助かる」
何せアローは、自分を保つだけでもかなり消耗している。肉体から離れて冥府に留まり続けるのは、生命力を少しずつ削られているのと同義だ。しかも置き去りにしている肉体が損傷した影響はしっかりとこちらにも来る。
(…………七つ目の結界はまだか?)
そろそろ来てくれないとだいぶまずいのだが、なかなかミステルの声が届かない。
そう考えている間にも、何度か身体に衝撃が走る。これは肉体の方も相当危機に陥っている。
「……間に合うの?」
リューゲのその言葉は、結界のことについてだったのか、アローの魔力についてだったのか、それともアロー自身の命の話なのか。
「……テオには無茶をさせた」
ミステルはアローと一蓮托生の存在だ。とっくに覚悟はきまっているだろう。ヒルダは騎士だ。いざとなったら命をかけてでも人民を守る。ギルベルトは傭兵だ。金を惜しまなければ命をかける。
だが、テオはたった十二歳の見習い騎士なのだ。十二歳の頃なんて、アローだって大した覚悟はもっていなかった。むしろ六回命中させてくれただけでも、彼の腕前はじゅうぶんに評価されるべきだ。
「不完全な結界のまま、門を開ける」
「できるの?」
「どの道、竜が暴れ出したら結界なんて粉みじんだ。死霊暴走を食い止めることと、あとは多少スヴァルトがやんちゃをしても最低限の被害で抑えるという効果しかない」
「つまり、私に説得を頑張って、と言いたいわけね」
「その通りだ」
これ以上待っていては、それこそアローが肉体も魂も持たない。ミステルの存在を繋ぐほどの魔力も尽きれば、結界は完成しないのだ。それなら賭けに出た方がいい。
一度視界を閉ざす。煉獄の炎に満ちた紅い世界が、闇に塗り替えられる。
視界を開く。そこにはもう紅はない。ただひたすらに暗い、漆黒の闇。故郷を追われた黒妖精スヴァルト族の生み出した、嘆きの闇。
その先の見えない常闇に、剣の切っ先を向ける。
「我が名はアーロイス・シュヴァルツ。人の子、死霊をすべる者。我が名と契約者リューゲの求めにより、聞き届けよ」
剣の切っ先で円陣を描く。死の国の女王、ヘイルの紋章。
「さぁ、僕に応えろ、スヴァルト。――『死を記憶せよ』」