28.七年前の紅い瞳
その頃、花街近くの酒場で女子二人は葡萄酒を囲んで談笑していた。というよりは、ヒルダが一方的にミステルの愚痴を聞いてあげていた。ミステルは葡萄酒を飲むことができないし、他にすることもなかったからだ。
「ああ、お兄様が商売女の餌食になってしまったらどうしましょう」
「アローはこう言ってはなんだけど鈍いから、そういうことにはならないんじゃないかなぁ」
ミステルはアローに待機を命じられてしまってから、一事が万事この調子である。
彼女には実体がないから、姿を見せないようにしていればアローについていくこともできた。それなのにこんな状態になっているのは、ヒルダが呪いの標的として狙われている可能性が高いので、何かあった時に対処できるようにするためだった。
「私のせいでアローについていけなかったみたいで、本当にごめんね」
「別に、貴方が謝ることではありません。お兄様の頼みは何よりも優先すべきところですから」
ぷりぷりとしつつも、ミステルは律儀に付き合ってくれている。
花街の近くということもあって、この酒場は荒ぶる暴れ牛亭よりもだいぶ荒んだ雰囲気だった。飲んだくれている男と、隙あらば自分の店に連れて行こうという、扇情的な衣装の女。そんな客ばかりだ。明らかにヒルダとミステルは浮いている。
それでも絡まれずに済んでいるのは、ヒルダがまがりなりにも騎士の制服なのと(店主がちらちらと様子を見ているので、下手を打つと別の意味で絡まれそうではあるが)ミステルが誰か近づくたびに美少女が台無しになるほどの殺気を放っているからである。
そして彼女は再び嘆く。
「お兄様は純真なですから! 騙されて襲われていたらと思うと……」
「アローが襲う方に回ることは一切想定されてないあたり、信頼があるのかないのか微妙なところね」
「だって、お兄様はあんなにお美しいのですよ!? しっかりと隠しておかなければ、悪い女が虫けらのように次から次へと湧いてきますよ!? 無理やり手籠めにされてしまうやも!」
「とりあえず、前からそうだろうなとは思っていたけど、アローが自分の顔がブサイクだと思っている原因が確信できたわ。私の推測、間違っていなかったわ……」
「ヒルダ様はお兄様のこと、心配じゃないのですか!?」
「そうね、ある意味ではとても心配だけど……でも、ミステルさん。少しくらいはアローのことを信用してあげて。アローはミステルさんのこと信じてるからこそ、離れても大丈夫だって思ったんだろうし。ね?」
「う……」
過保護と言う自覚はあるらしく、彼女は急にしゅんと黙り込んでしまった。
「確かに、お兄様を心配しすぎるのは、裏を返せばお兄様を信用していないということになるのかもしれません。ですが、お兄様は……お兄様は、あんな何もない森の中で何年も……」
そういえば、とヒルダは思った。そもそも、どうしてアローは森から出てこなかったのだろう。彼の様子を見ていると、人と関わることを厭っていたわけではないようだ。そうじゃなければ、あんな怪しい身なりをしながら行く先々でナンパをする、などという発想にはならないだろう。
ミステルのためにどうしても必要だからいやいやナンパしていたのであれば、彼も頭が悪いというわけではないので、成功率をあげるために下調べくらいはしたはずだ。少なくとも彼はきっと、ナンパに関しては「やってみれば上手くいくかもしれない」程度の楽観的な気持ちで臨んでいたのだ。ヒルダに剣をつきつけられても、ハインツにひやかされても、彼は怒りもしなかった。魔術や暴力に訴えることもなく、平和的に話し合いで解決を試みている。
アローはむしろ、人間と関わることを楽しんでいるようにすら見えた。
「あの、ミステルさん……差し出がましいことを言うようだけど、アローってどうして森に引きこもっていたのかしら?」
「それを知ってどうなさるんです? ヒルダ様」
ミステルがじっと見つめてくる。真意を測ろうとするかのように。
「アローは基本的に、人間が好きよね。ミステルさんのために実体を作るっていうのも、もっと物騒な手を使えば早くできるけど、なるべく人を傷つけたくないからナンパなんて斜め上の手段に出たくらいだし」
「そうですね。お兄様はお優しいですから」
「だから、そんなに優しくて、話してみれば普通に友達になれそうで、森に引きこもる理由なんて何もなさそうなアローが、ミステルさんのことがあるまで森を出なかったのって、何か深い理由があるのかなって思ったの。アロー、特異体質だとか言ってたし、その辺関係あるの?」
「もう一度言いますけども、それを知って、ヒルダ様はどうなさりたいんです?」
「その……出会ったきっかけはあんなのだったけど、アローはいい人だって思うし、困ってることがあるなら助けてあげたいの。お節介だとは思うけど」
「えっ?」
ヒルダの答えは、ミステルにとっては意外なものだったようだ。剣呑な眼差しが、見開かれる。きょとんとした顔をしていると、彼女は歳相応の可愛らしい少女だった。
「あのね、実は私……その、友達があまりいなくて」
「は?」
「剣のことばっかりだったから、同年代の女の子とは話が合わないし……かっこいいってキャーキャー騒がれるんだけど、遠巻きっていうか……」
「はぁ……」
「男の友達もいないのよね。ほら、やっぱ男の子って基本的には女の子よりも力が強いものだし、私に剣で負けたりすると相当悔しいらしくて、結構敵視されたりもして。だからって手を抜くのは自分にも相手にも失礼だから、手合せは全力でやるんだけど……何かこう、遠巻きに恐れられたり、物陰からじっと観察されてたり……後輩には尊敬してくれる子もいるんだけど、それこそ……」
「ああ、『戦女神』ですものね……」
「それ! その大げさな肩書のせいで全ての同年代に遠巻きにされてるの!」
ヒルダにとって、その称号は名誉なものであると同時に、果てしない重荷でもある。まだ十代の少女なのだ。ヒルダにだって友達とお喋りをしたい時もあるし、美味しい物を一緒に食べたいと思うことがある。先輩騎士にまざって荒ぶる暴れ牛亭で食事をする時だけが、それとなく充実している気持ちになるが、やはり時折寂しいのだ。
「アローとミステルさんは、久々にたくさん話せた同年代で……何と言うかその、友達みたいだなって……思ったりしたら、怒るかしら」
「…………え、友達、ですか?」
「あ、いや、私が勝手に友達になれたらいいなって思っただけであって、拒否権はあるから! というか、今職務中だし! あ、でも、その……アローのことを知りたいと思った理由については、それよ。友達のためなら、力になってあげたいものでしょ?」
ミステルは完全に呆れた表情になっている。ヒルダはいたたまれなくなって、うつむきながらちびちびと葡萄酒を飲んだ。一方的に友達だと思っていたなんて、恥ずかしいことこの上ない。ほぼ毎日顔を合わせてしまっているが、出会ってまだ数日で、しかも初対面で投獄してしまった騎士と友達になるなんて、冷静に考えるとどうかしていると自虐した。
(い……いっそ早く引導を渡して……)
そう、思ったのに。
「……お兄様が森にずっと引きこもっていたのは、ヒルダ様がご推察された通り、体質のせいです」
「えっ?」
ミステルがあっさりと語りはじめたので、今度はヒルダの方がきょとんとする。
「いいですか? 一度しか言わないですので、心して聞いてください。お兄様は生まれつき、死霊が見える、声もきける、あまつさえ話すことすらできる特殊体質です。本当はあの墓場でやったような術式を使わなくても、お兄様は話そうと思うだけで死霊と対話できたはずです」
「えっ、それじゃあ何で……」
「お兄様には、生きている人間と死んだ人間の境目がないのです。貴方は魔術や呪いの類を使わずに、生きている人間を思い通りに操って制御することが可能だと思いますか?」
「思わないわね」
「お兄様にとっては死霊がそれです。死霊にも生きた人間のように接することができるので、逆に制御がききません。お兄様にとっての死霊術は、、暴走しないために制約をかけるためのものです。今でこそ魔術で自分の力を押さえていますが、子供の頃は全く制御できなかったそうです。動物霊なら大丈夫だけど、人間の霊は意志が強すぎてだめだと」
「そうだったんだ……」
人間と同じように死霊が見える。それはどういう世界なのだろう。ミステルのように、生前の姿をきちんと保てるならともかく、きっと多くはそうではないのだろう。自分だったら、見るだけで卒倒するかもしれない。ヒルダは思わず想像して、すぐに首をぶんぶんとふって不吉な場面を振り払った。
「それでも幼い頃は、たまに師匠について都に行っていたそうですが、七年前、都でできた友達と遊んでいる最中に、不慮の事故で大量の死霊を暴走させてしまったらしくて。私はそのすぐ後くらいに引き取られたのですが、その頃にはもう、お兄様は都には行こうとしませんでした。お師匠様に禁じられたから、と」
「七年前?」
七年前。死霊の暴走。都でできた友達。
ヒルダの中で、初めてそれが自分の記憶と繋がった。
どうして気づかなかったのだろう。彼の顔ははっきりと覚えていたのに。誘拐された幼いあの日、ヒルダは恐ろしい夢をみたのではなかった。夢ではなく、現実だったのだ。
銀色の髪の少年。瞳は赤。あまりに紅い瞳が印象的だったせいか、うまく結び付けられなかった。だけど、アローは死霊術を使う時、瞳に紅い光を宿していた。
力を制御できなかった子供の頃、アローは常に紅い瞳をしていたのだ。彼はヒルダを助けようとして、死霊を暴走させてしまったのだろう。
「ミステルさん……何もできないかもしれないけど、私、やっぱりアローを助けたい」




