13.黒い獣の八割の一割
女性陣の名残惜しそうな声をどうにかはねのけて、アローはハインツ、ギルベルトと共に用意された別室にやってきた。さきほどアローが通された部屋は、ベッドや鏡台などが置かれた、宿屋とそう変わらない家具だったが、ここはどちらかというと応接間のようだ。向かい合わせにビロードばりの長椅子と、猫足の丸いテーブルが置かれている。一人がけの椅子もあって、そこには仕立ての良いドレスをまとった中年の女性が座っていた。
ノーラたちはだいたい二十歳前後の年頃だった。一人だけ歳の離れているこの女性は、この娼館の店主なのかもしれない。
「で、このショーカンは結局何をする場所なんだ?」
率直に尋ねると、ハインツはわざとらしく肩をすくめた。
「おや、お嬢さんたちに聞かなかったのかい?」
「聞いたがよくわからなかった。それに、僕が言いたいことはそういうことじゃない。あんたはただのナマグサ司祭じゃないし、ギルベルトはただの傭兵じゃないだろう」
「おや、ナマグサ司祭とは心外だな。偉大なるフライアは命の営みを否定しないというのに」
「……あ」
そこで初めて、アローは娼館の意味を理解した。『男女の営み』と、『女の子と遊び歩く』と『娼館』がようやく頭の中できちんと繋がったのだ。
「……娼館とは、男女の営みを売る店だったのか……?」
「ここに至るまで全く気付かなかったって、ある意味すげーな」
ギルベルトは心底呆れていたが、アローは娼館の実態を知った衝撃の方が大きかった。商売でそれをやるということは、つまり子を産み家族をなすためなどであるはずもなく。ミステルが怒るのも当然である。
何をしている店なのかわかってしまうと、先ほどまで話していた彼女らの『身請け』に憧れる恋愛話を、なぜもっと真剣に聞いてやらなかったのかとため息が出た。
しかし、落ち込んでいる場合でもない。現時点で、アローが彼女らにしてやれることはない。そして優先しなければならないのは、今、自分がここに連れてこられた事情の方だ。
「で、結局君たちはどういう関係だ。そして僕に何をさせようとしている」
「うん。アロー君はぼけっとしているけれど、そういうところには結構頭が回るようだね。感心感心」
「言っとくけど、俺はただの傭兵だぞ。ハインツのせいで何か面倒事にまきこまれるだけだ」
ギルベルトがそう言い放って、長椅子に身を投げ出す。もちろん、こんなところに出入りしている時点でただの傭兵なわけがない。恐らく、傭兵と兼業で教会の仕事を請け負っているのだろう。ハインツはというと、ギルベルトの様子にやはり芝居がかった仕草で肩をすくめると、自分も長椅子に座った。空いた部分を指差す。アローにも座れと言いたいらしい。
「そう言わないでくれるかな、昔馴染みじゃないか。私と馴染みじゃなければ、ここは君のような一介の傭兵には一生ご縁のなかった店だよ? ねぇ、女将さん」
やはり、この年配の女性は店主で間違いないようだ。今まで黙って成り行きを見守っていた彼女は、冷めた目でハインツを睨みつけた。
「ちゃんと金を払ってあたしの娘たちに無体を働かなければ、どんな男もこの店では同列。勘違いをしないことね。でも、坊やは神職なのに羽目を外しすぎじゃないかね」
「おっと、これは耳に痛いね」
飄々としていたハインツは一転、苦笑いになったが、すぐに木を取り直したようだった。
「この店はね、娼館としてだけじゃなく、密談のための場所を提供している。女将さんは立会人として同席してるけど、いくら金を積まれたところで彼女はこの部屋での話を口外することはない。彼女の主以外には、ね」
ようするに、女将の上にさらに支配人がいて、その支配人に関わる者だけが使える密約の場として機能しているようだ。恐らく、それ以外にも色々隠された役割があるのだろう。いくらフライアが男女の営みを否定しないといっても、さすがにこういう店と教会が密約場所の確保のためだけに繋がっているのは不自然だ。
ひとまず、今重要なのは、何故ギルベルトを使ってまでアローをここに呼び寄せたのか。ミステルやヒルダがいるとまずいことがあるのだろうか。
「……率直に聞こう。一体何の用事だ?」
「いくつか聞きたい事があってね。アロー君の魔術のお師匠様は、クロイツァと名乗られてはいなかったかな」
「よく調べたな」
「調べた、というよりは知っていた、が正しいね。君のお師匠はその筋では有名人だ。変わり者で気まぐれに各地を渡り歩いていたが、十数年前に突然弟子をとって黒き森に隠居した。君はその黒き森でずっと育って、魔術の師匠の元にいたという。となると、当然弟子とは君のことだろうと推測する」
地下牢に捕らわれていた時、ハインツはヒルダと共にアローの話す身の上話を聞いていた。そこから気づいたのだとすると、ハインツが教会の宿を用意してくれたのには多少の下心があったのだろう。ギルベルトが酒場にいたのは偶然ではない。声をかける機会を見計らっていたのだ。思えば、傭兵であるトビアスがアローに魔法なしであっさり撃退されるのも(物理で目つぶしをされたのは予想外だったにしろ)妙だった。戦い方を知っている者なら、胸倉をつかむなどという隙の多い行動に出るわけがなかったのだ。
「……今、僕は自分の世間知らずぶりを痛感しているぞ」
「そうかい? で、君のお師匠はクロイツァ様で間違いないんだね?」
「不本意ながら。師匠に用事があるのだったら、あいにく、僕も所在は知らない。数年前に突然旅に出て、それから一度も帰ってない。行先も聞いていない。僕はずっとミステルと二人きりで暮らしてきた」
「それは残念だ。クロイツァ様との面会はまたの機会として――ここからが本題だ」
師匠のことは本題ではなかったようだ。
彼はテーブルの上に地図を広げる。どうやら都の街路図らしい。
「教会は今回の事件を重く見ている。何せ王都の、それもフライア大教会の膝元で呪殺が多発なんて、全く笑えないからね。ヒルダ嬢には申し訳ないが、騎士団だけで犯人を捜すのは難しいだろう。そして、教会も色々面倒な体面がある。ので、素性のしれない君に、面倒な捜査をお願いしたい」
「おい、本音をちょっとは隠せよ、ハインツ」
ギルベルトは呆れた様子でため息をつく。しかし、アローにとっては渡りに船だ。ハインツの思惑がどうであれ、大教会と懇意にするのは利点も大きい。問題は、ハインツが裏で何を考えているか。それくらいだ。
「ただで、というわけにはいかない。僕にも僕の目的がある。君に色々と便宜を図ってもらうことになるかもしれないが、構わないか」
「それはもちろん、善処しよう。私としても、クロイツァの弟子と縁を持つのは悪い話ではない。多少の無理はきくつもりだ。たとえば、君が『大事な妹のために手に入れたいと考えているもの』の用意を、手伝うことも視野に入れられる」
「……そこまで把握されているのなら、本当に話が早くて助かる」
この男は、アローがミステルのために何を成そうとしているのかわかっている。それに必要なもの、魂や若い娘の遺体のことも。教会ならば、確かにやりようによっては手に入れられるものだ。カタリナに頼むよりも手堅いだろう。
ハインツを信用するのは危険な気がする。だが、仮にも教会の人間である以上、彼は教会の思惑を無視できない。そして、アローがクロイツァの弟子であることに、彼はそれなりの価値を見出していることを明言している。おそらくその言葉に嘘はない。
アローはハインツの顔をじっ見つめる。深い碧の瞳は、アローのぶしつけな視線にも動じることなく真っ直ぐに見返してきた。
この世の八割の人間は、心の中に黒い獣を飼っている。その八割のうち三割は、心の中に黒い獣しかいない。だから黒い獣の気配を感じる材料が増えていくだけ、その人間への信頼値を下げる。それが師匠クロイツァの語る世渡りのコツとやらである。曖昧すぎて要点を得ないその教えには続きがあった。
黒い獣を持つ八割の内三割が完璧な悪人。では残りの八割の内の五割はどうなのか。四割は平凡な人間だという。獣の数は人それぞれでも、そこそこに良心の呵責があり、自分の中の獣を押さえようとする人々だ。
では、残りの八割の一割はどうなのか。
それは、黒い獣を完全に支配して飼いならしている人間だ。こういう人間は、敵に回ると恐ろしく、味方にすれば心強い。
「……僕の見立てがただしければ、君は八割の一割、かな」
「何の話かよくわからないけれど、それは私と手を組んでくれると言うことでよいのかな?」
「前向きに検討する」
「よろしい。では、まず君が用意して欲しいものを聞こうか?」
「呪殺で死亡したと思われる女性の墓のありかを」
「おや、妹さんのことは後回しかい?」
「ああ。まずは君に恩を売ろう」
「なるほど、君はお利口さんだな。いいだろう。それくらいお安い御用だ」
ハインツは小ばかにするような調子で笑い、しかしその目は値踏みするようにアローを見ている。
(さて、この判断が良い方向に転べばいいが……)
ひとまず、ハインツに墓の場所を確認させる手筈は整った。
あとはミステルとヒルダが、カタリナから情報を得てくるのを待てばいい。