116.凡庸な狂人、曖昧な兵器
ミステルの魔力を練って作られた矢は、ベルのドルイド魔術の力で、アローの身体を射出器にして放たれた。
鈍色の雲の下を疾風の如く駆け、そして。
「……アロー?」
村の中では、ヒルダがいち早くそれに気づいた。
それを、アローは墓場から『視て』いる。リューゲとの契約に使った片目の視界を、魔力の矢と共に飛ばしたのだ。
アローの魔力消費を最低限に、そしてアローの持ちうる契約魔の力を全て用いた合体技だ。
その矢はフルーフが操る黒の異形の上に光の矢となって降り注ぐ。
ヒルダはそれをうまく立ち回って自力で避け、異形の一部を無残に破壊されたフルーフが怒り心頭の様子でなにやら叫んでいる。何を言っているのかは大方の予測がつくので、魔力を割いてまでは聞き取らないが。
「アロー、当たった?」
ベルの声に、アローはかぶりを振る。
「なかなか一気に殲滅とはいかないな。ベル、もう少し右後方だ」
「わかった」
ギシ、とアローの身体に絡みついた枝が動き、わずかに位置を変える。
「ミステル、もう一回いくぞ」
「はい、主様。何なりと」
ミステルとベルの詠唱により、再びアローの弓矢に魔力の光が集まる。
「ーー死を記憶せよ!」
光の矢が、再び雲を裂く勢いで放たれる。アローの視界の半分はその矢の行方を追い、そして黒の異形の大半を降り注ぐヤドリギの魔術が駆逐していく様を見た。
◆
光の雨だ。
ヒルダは空を見上げ、身震いする。
厚く垂れこめた雲の下を緩く弧を描いた光の軌跡は、ヒルダたちの上空に至ると同時に軌道を変えて降り注いだ。
彼女は異変を察知した時点で、オドの家すぐちかくまで退避している。アローならば、オドの家は狙わないであろうと判断したからだ。
退避したヒルダに追いすがろうとしていた黒い異形が、光の矢に穿たれて次々と霧散していく。
「なんなの!? 今度は空から僕を邪魔しようっていうの?」
フルーフは空に向かって怒声をあげている。やはり、彼女は戦い慣れていない。敵が無事なのに、また矢が飛んでくるかもしれないのに、のん気に怒り狂っているのだから。
窓から顔を少し出したテオと、目があった。片手を上げて、目線でフルーフを示す。まだ油断してはいけない。彼女の黒い異形は、まだドレスの裾からゴボゴボと煮立った泡のように湧き出ている。彼女が制御していないので、攻撃してくるでもなく蠢いているが。
この状態でならテオは間違いなく必中で狙える。心配があるとしたら、彼女の後ろにまだ誰かが控えていないかどうか、そして彼女が死ぬ時に周りを巻き込むような魔術をもっていないかどうか。
(それにしても、あの黒い気持ち悪いやつ、何でできてるのかしら?)
ヒルダは、パウラが治癒術で黒い異形を破壊できていることを知らない。テオも伝える猶予はなかった。
フルーフが怒り狂っている間に仕留めるか。テオが窓から片手を振る。攻撃をしてみるつもりなのだろう。
その時、再び空を光の軌跡が幾重にも重なって疾走した。
「え? ま、また来るのぉ!?」
若干間抜けな悲鳴をあげながら、フルーフはそれでも退避しようとあたりに視線を彷徨わせた。しかし、魔力を持った光の矢は、彼女の周囲に蔓延る黒の異形を、片っ端から殲滅していく。しかし、彼女自身には当たらない。
ただ、これがアローによってもたらされた『援軍』であることは理解できた。
(なるほど……それで、テオに弓矢の使い方を聞いたのね)
明らかに一回目よりも威力と精度が上がっていた。フルーフが出した黒の異形は九割が破壊されたといっていいだろう。
その瞬間、青白い燐光を纏った矢が、彼女の足を穿つ。テオの矢だ。
「あうっ……!」
白いドレスに、二つ目の赤い染みが広がる。フルーフは膝をついてその場に崩れ落ちた。矢を受けたのは二か所。足を撃って逃げる術を失った――と言いたいところだが、彼女は空間転移が使えるから決定打にはならない。
急所を外したのは、さすがにテオも、少なくとも人間の少女を相手に殺すのをためらってしまったからだろうか。無理もない。この国は基本、平和なのだ。人を殺す機会などそうそうない。
ヒルダが剣を構え、距離を測る。今なら黒の異形に邪魔されることはない。今すぐ殺すべきか。本当に黒の異形はもう出ないのか。少なくともフルーフが相手なら、ヒルダの剣はテオの矢よりも弱い。慢心は危険だ。他に敵がいないとも限らない。
その時――。
「ああああ、うるさい、うるさいよぉ! わかったよ! 撤退するってば!」
急にフルーフが『どこか』に向かって叫び始めた。
(新手? それとも、魔術を使って会話をしているだけ?)
いずれにしても、フルーフが空間転移をできることは実証されているのだ。下手をうって敵を増やされたら、今度こそ打つ手がなくなる。ヒルダは踏み出せず、歯噛みする。
「もう絶対に許さない! 必ず君たちを皆殺しにして、お兄ちゃんを連れて行くんだから!」
「待ちなさい。貴方、アローを連れて行ってどうする気なの?」
せめて何かしら敵の手がかりを得たい。ヒルダの問いに――しかし、フルーフは不思議そうな顔で見返してきた。質問の意味が測りかねる、と言いたげだ。
「どうするって、それはボクが決めることじゃないよ。道具が自分で使い道を考えるわけがないよねぇ?」
「アローは道具じゃないでしょう。貴方だって、自分の意思があるのだからものとは違う」
「変なことを言うねぇ。別にモノに意思があったって構わないでしょう。お兄ちゃんはちょっと人間に存なりすぎているみたいだけど…………ふふふ、あはははははっ」
フルーフは急に笑い始めた。黒いぬかるみと、白いドレスと、じわじわと白を侵食していく人と同じ紅い色の血。
「お兄ちゃんはズルいんだ。人間として生まれなかったのに人間みたいに生きてる。人間みたいに優しい。だからボクを生かしてしまったんでしょう? だからボクはお礼に、いつか絶対に、お兄ちゃんをこの手で迎えにいってあげるんだ。そして、お兄ちゃんの大切なものを全部ただの肉の欠片になるまで潰してあげる。そして言ってあげるんだ。これでお兄ちゃんの大切な人もみんなただの『モノ』でしかないよ、ってね。あはははははは」
まるで狂気を絵にかいたようなフルーフの笑い声を聞きながら、ヒルダは剣を収めた。
(この子、思っていたよりもずっと『狂っていない』のね)
フルーフは、狂っているように振る舞っているが、実はそうでもない。狂っている者は、アローが自分に罪悪感を抱くように仕向けたり、大切なものを殺して退路を断とうなどという発想はしない。それは極めて現実的な、誰にでも考え付く程度の戦略でしかない。
グリューネの呪殺事件における首犯だったカタリナの方が、そういった意味ではずっと正しく『狂って』いた。彼女は妹を蘇らせるために、ためらいもなく次々と若い娘に手をかけたし、ミステルに呪殺の幇助もさせたし、最後まで妹を救うことに準じて呪いに喰われた。
フルーフのしていることは、思い通りにならない世界と、自分のものにならない憧憬を前にした八つ当たりでしかないのだ。
「残念ね、フルーフさん」
「………………はぁ? 何がぁ?」
思った通りの反応がなくて不満だったのだろう。フルーフはあからさまに不機嫌な顔になった。
「私を殺しても、誰を殺しても、貴方が思った通りにアローは動かないわ。アローは死霊術師よ。それも大魔術師クロイツァの弟子。もし私が貴方に殺されるようなことがあったら、死霊になってでも私はアローを守る。アローにはそれが、できるから」
「………………ボク、君が嫌いだよ」
「奇遇ね。私もここまで相手を嫌いになること、珍しいわ」
「君は魂も残らないくらいめちゃくちゃにしてやるんだから!」
それを捨て台詞にして、黒い異形に包まれたフルーフの姿はその場から溶けるように消え失せる。
しばらくして、家の中から恐る恐るといった様子でテオと、そしてどうやら気絶せずに耐えきったらしいパウラが顔を出した。
「えと、もう、大丈夫ですかね?」
「今のところはね」
ヒルダにもそう答えるしかない。敵は少なくとも二人はいる。そしてこちらには敵の居場所を把握する術はまだないのだから。
◆
「フルーフが撤退した。ベル、もう大丈夫だ」
「わかった」
手足に絡みついてた木の枝がほどけ、ふらついた所を弓から形を戻した杖で支える。少し歩くくらいならもう大丈夫そうだ。
「これからは弓の練習もしておいた方がよさそうだな。借り物の魔法を制御するのは、なかなか骨が折れる」
森にいた頃も、死霊術の制御練習も兼ねて魔術で狩りをおこなっていたので、弓の腕前に関してはやはりいまいちと言わざるを得ない。修練が必要だ。
「お兄様」
「どうした、ミステル」
振り返ると、ミステルはじっと射抜くような眼差しでアローを見つめている。心なしか後ずさった。
「お兄様…………わざと、外しましたね」
「………………それは」
「魔術をお貸ししていたんですから、私にもお兄様がどういう風に操術なさっているのかは伝わります。あの女に当たりそうになったのを、わざと少しだけそらしましたね」
「……………………ああ、そらした」
わかりきった嘘をついても仕方がない。観念して頷くと、ミステルは少し困ったように目をそらした。
「お兄様の優しさは美徳だと思います。でも、今回に限って言えば、その優しさは甘さに繋がります」
「返す言葉もないな」
「それとお兄様……お忘れかもしれませんが、私は人殺しです」
その言葉に、アローの心臓がドクリと跳ね上がった。
グリューネの呪殺事件で、森に引きこもっていたアローの居場所を守るために、ミステルは事件の首謀者カタリナに手を貸した。間接的とはいえ、彼女も呪殺に関わっている。
そもそも、ミステルが死んだのは呪殺における代償をカタリナの代わりに背負い続け、ついに背負いきれなくなった呪いに侵蝕されたせいだった。
ミステルが死に、彼女の魂を使い魔にして、彼女がまた人間と同じように暮らせるようにしたくて、アローは森を出た。ミステルの死が、ミステルの犯した罪が全ての始まりだった。
「その件については、お前が手を下したわけではないし、それにお前自身が代償として死んでいるだろう」
「いいえ。私は死によって償う機会を失っただけです。罪は罪、たとえ償っても、犯した過ちは覆りません。だからこそ――私はあの女を殺さなかったのは、後々にお兄様を苦しめるだけではなく、あの女の罪を増やし続けることだと考えます」
フルーフは明確な殺意と悪意を持っている。
たとえ彼女の境遇に同情することがあっても、彼女独りを救うために百人を犠牲にしてはならない。ミステルが伝えたいのは、つまりそういうことだろう。
――好きでこんな風に生まれたわけじゃないのに。
彼女は確かにそう言った。
(フルーフは、師匠に出会えなかった場合の、僕の姿かもしれない)
だけど、それを理由にためらったことで、ヒルダやテオを犠牲にするところだったのだ。
「わかったよ、ミステル。僕も覚悟を決めよう」
「そうなさってください。私は最終的にはお兄様を……主様を信じます」
ミステルがローブの裾を掴んでお辞儀をすると、杖から「私も」とベルの声が聞こえてきた。
「さて、邪魔が入ってばかりだが、ヒルダたちが心配だ。仕方がないから一旦村に戻ろう。僕の母さんのことは、とりあえず後でもいいから」
アローはまだ重い身体をひきずるようにして歩きはじめる。
「場所だけでも教えますか?」
エルマーの言葉に、アローはかぶりを振った。
「未練になるからやめておく。一件を解決してからおちついて、だな」
「そうですか」
ゆっくりとした足取りで村へと戻っていく一向の、最後尾。
ギルベルトはふらふらと先を行く少年の背中を見つめ、どうしたものかと思案していた。
(使い魔のお譲ちゃん二人の力と、黒妖精の力を借りれば、遠くに離れた場所に魔術の矢を降らせられるって……半端ねえな。戦場でこんなやついたら泣くぞ)
アローは何気なくやってのけたが、使いようによっては恐ろしい技術だ。
遥か前方の部隊を攻撃できるだけではなく、高さが出せるなら攻城兵器にもなりうる。
(この坊ちゃん一人だけで、戦局を覆しかねないだろうが。どうすんだ、こんな危険人物)
アロー本人がきわめて善良な少年であるがゆえに、その凶悪な能力はそれとなくぼかされている。しかし、アローの持っている力は本来『兵器』と呼ぶに等しい。アロー自身が、そして使い魔であるミステルとベルがはっきりとした意思をもっているから、それが歯止めになっている。
そして、アローには大魔術師クロイツァという大きな抑止力が彼の背後にある。危ういバランスの上で、彼は『普通の少年』でいられるのだ。
(さすがにこれはハインツに同情するやつだなぁ……)
のどかな農村の道を歩きながら、ギルベルトは嘆息するのだった。




