115.友のために矢を放て
ヒルダはフルーフに向かって剣を向ける。
「私はアローほど優しくない。貴方の境遇にも同情しない。貴方が救いを求めているなら話は別だけど、貴方が私の大切な友人を傷つけたことは許さない」
「ふーん。君、やっぱり邪魔だねぇ」
フルーフはにこにこと笑って、白いドレスの裾を持ち上げる。再びボトボトとこぼれ落ちる黒の異形。
ヒルダは生理的嫌悪感に眉をひそめながら、どうすれば彼女に己の刃が届くのかを考える。そして――。
「テオ、パウラさんと一緒に家の中に『避難』して!」
「は、はい!」
テオがパウラを伴って家に入る。家の窓はこちら側についている。はめ殺しではない。それは事前に確認してある。ヒルダとて、何の対策もしていなかったわけじゃないのだ。
「ふぅん? ただでさえお仲間が少ないのに、減らしちゃって大丈夫なのかなぁ?」
「貴方の相手をするのに、無意味な戦力を割く必要はないわ」
ここにテオとパウラを残らせるのは、かえって悪手となる。パウラの治癒術は切り札だ。凄惨な戦闘を見せてまた倒れられても困る。
それにテオは狙撃手だ。彼が優先的に狙われてしまっては意味がない。ヒルダ一人で庇い切れると限らないし、庇えても彼が矢を放つ猶予がなければ意味がない。
彼の弓はこの距離なら恐らく必中。
何よりも、フルーフはテオの神がかり的な弓の腕前を知らない。彼女だけを狙うなら、わずかな隙間を狙って射抜く能力を持つテオの方が適している。たとえヒルダが刃を届かせることができなくても、最悪テオが家の中から狙撃を行える。この人数でフルーフと対峙するのに、これ以上の手は思いつかなかった。
「まぁ、どうでもいいよ。ボクは君たちには興味がないんだ。さっさと皆殺しにされてくれるか……ひゃっ」
フルーフの口上が途中で途切れる。ヒルダが切り掛かったからだ。すんでのところで、黒い異形が彼女の刃を防ぐ。
フルーフは戦闘慣れしていない。恐らく、戦闘に関する訓練も受けていない。自分の能力に自信を持ち、頼りきっているので、敵の前で長口上を述べられる。
そして、ヒルダにはそれを待ってやる義理はない。今は情報を引き出すよりも、生き延びることを優先すべきだからだ。
「ちょっと! 人の話は最後まで聞くものだよ?」
「貴方の話が長すぎたのよ」
ヒルダの剣技は速さで決まる。女の身では、どうしても男よりも膂力では及ばない部分が出るが、その分は速さで補う。
フルーフの出す黒い異形は、数が多く動きの予測がしづらいが、ひとつひとつの速さはそうでもない。一撃も、適切に受け流せば案外軽い。ヒルダが剣で受け流せないこともない。もしこれがギルベルト並みの膂力で振るわれるのだったら、ヒルダにも対処のしようがなかった。
フルーフは戦闘に慣れていないから、そして黒い異形は彼女の意思によって操作されているから、ヒルダが誘導することはたやすい。フルーフまでこの刃が届かなくても、彼女に至る隙が少しでもできるのなら。
(テオの矢は外さない!)
刹那、風を切る音。
「きゃぁっ!」
まるで普通の少女のような悲鳴をあげて、フルーフが後ずさる。彼女の肩には、一本の矢。白いドレスがじわりと赤く染まる。
「なんなの!? 君たち、絶対に許さないよ!」
フルーフのドレスから、濁流のように黒の異形が溢れ出す。大嵐の後に唸りを上げる川のように、その黒の異形は辺り一面に広がり、支離滅裂な動きで暴れ狂う。
「くっ……」
これにはヒルダもいったん退くしかない。その一方で。
オドの家の中で窓から狙いを定めていたテオは、猛烈な速度をもって黒い塊が迫り来るのを見た。
「ちょっ、えっ、ヤバい!? すみませんでしたっ!?」
誰にともなく謝罪して、すんでのところでその場に屈み込んだ。次の瞬間に、窓を突き破って進入する黒の異形。
「ギャァァァァァ!!」
「うきゃぁぁぁ!?」
オドとパウラ、非戦闘要員の絶叫が響くが、こんな相手にテオに対処ができるわけがない。弓矢は効かないし、そもそも狙っている余裕がないからだ。だからこそ、ヒルダはテオを遮蔽物である家の中からフルーフを狙わせた。
「ああああ、すみませんでした! すみませんでしたーーー!」
こうなってしまうと、弓矢はぜい弱だ。ひたすらこの狭い部屋の中で逃げ回る意外にない。木でこしらえた素朴な食卓や丸椅子、寝台が、無残に木っ端微塵にされていく。
(パ、パウラさんは守らないと……!)
かなり錯乱していたが、テオも騎士の端くれだ。治癒術師を守るという使命は果たさなければならない。というか、これで大怪我をしてしまったら、パウラが生き残ってくれなければ普通に死ぬ。ここには医者などいないのだ。
至極打算的な思考を一瞬で巡らせて、テオは護身用の小剣を抜く。剣技には爪の垢ほどの自信はないが、やるしかない。
「てやぁぁぁぁおぁぁ!?」
気合の声が途中で疑問系に変わったのは、渾身の力で黒の異形に振り下ろした剣が、ボッキリと折れてしまったからだった。
「こんなのどうやって倒せと!?」
半泣きで逆ギレをしたその時、今まさにテオに狙いを定めようとしていた黒の異形の動きがぴたりと止まる。
「へっ?」
「女神フライアよ、我が祈りの元に癒しの力をお与えください!」
ガタガタと震えながら、それでも立ち上がったパウラが、治癒術を行使する。淡く白い光が黒の異形を包み込み、異形諸共霧散した。
「き、効いた!」
パウラの治癒術が、この異形には通用する。アローの予測は正しかったのだ。
「わ、私だって、使命を帯びた、女神の使徒です、ので……!」
パウラの足は今にも崩折れそうなほど震えていて、瞳からは涙が溢れていて、今にも逃げ出してしまいそうで。
それはテオにとって、少し前の自分を見ているかのようで。
テオも、別に特別強くなったわけではない。本当は今も逃げ出したいし、安全な場所でのうのうと過ごしていたい。それでも。
「パウラさん、その、矢に治癒術を付与すること、できますか?」
「物質付与も、できないことはないです。武器にやったことはありませんが」
「じゃあ、この矢に片っ端からお願いします!」
崇高な意思などない。英雄になりたくても、内面がすぐに伴うわけではない。
それでもテオは矢をつがえる。
「ヒルダさんを援護します!」
とはいえ、無数に暴れ狂う黒の異形に、テオ一人の弓では手数が足りない。さすがのテオも、この中でフルーフだけを狙って射抜くのは難しい。黒の異形に対抗する手段はないヒルダなら尚更だろう。
(アローさんとミステルさんが戻るまで、三人で抑えないと)
怖くて、逃げた出したくて、それでも手は震えていない。
テオのその矢は、治癒術の白い閃光を纏って、異形を撃ち抜いた。
■
その頃、墓場ではアローが死霊召喚を行っていた。
ギルベルトにかついで運ばれている間に、上半身くらいは起こせるようになったので、アローは行儀悪く墓石の上に座っている。ちなみに、墓に眠る死霊本人に許可を取った。つまり、ヨルクにである。
墓石に座っているので、杖を通して念じなくても直接声は耳に届いた。
「国境? 国境線でおかしな動きがあったというのは、やっぱり関連することか」
ヨルクはこの村の中でも最も長生きした老人であった。そして、若い頃からずっとこの地で農地を耕して過ごしてきた。だからこのヴァルトエンデ界隈のことは、下手をすると領主よりも詳しいのだという。
彼はずいぶんと意思のはっきりした死霊だ。エルマーの談によれば、死ぬ寸前までもうろくもせずに闊達としていたようだ。そして年甲斐もなく巨大な毒ネズミと戦って傷を負って亡くなった、と。農民というよりは老兵である。
(まぁ、動物も長生きすると意思が強くなるし、人間だってもうろくせずに長生きすれば、少しくらい濃い死霊になるか……)
ヨルクは死んで数年経っている。魔術師霊でもないのに、ここまではっきりとした霊はなかなかいない。
「じいさん、国境のことで何かいってました?」
エルマーの問いに、アローはどう答えたものかと少し考える。彼は基本的にただの農民、部外者だ。首を突っ込んでこられても、足手まといにしかならない。しかし、祖父の言葉を彼には聞かせないというのもどうかとは思う。
「昔、よくこの村の付近で子や娘がさらわれることがあったと……」
「ああ、それは知ってます。国境の近くには人をさらう魔物が住んでいるから、女子供は近づいてはいけないって」
エルマーが国境の付近を指差す。地平線には険しくそびえたつ山々の峰。あの辺りに国境の砦もあるはずだ。
「そんな寝物語の問題じゃないな。多分、ノルドネーベがらみだろう。師匠から聞いたことがある。北の国には僕らが知っているのとは全く別の魔術体系がある。ベルのドルイド魔術もその一つだな。その中でも師匠ですら僕には教えてくれなかった魔術がひとつだけある」
「そんなものがあったのですか?」
ミステルが驚きの声を上げる。無理もない。師匠クロイツァは、それこそ世間では禁術とされるような魔術も、ホイホイとアローに教えてきた。おかげでアローには、行使することができない魔術の知識も、無駄に植えつけられている。そこまでしているのに、クロイツァが教えなかったことがあるというのだ。すぐそばで見ていて、師匠の性格をよく知っているミステルだからこそ、当然抱くべき疑問だ。
「純粋に、気に入らないから教えるのも嫌だ、と」
「実にクロイツァ様らしい理由である意味安心しましたが、今は大問題ですね」
「まぁ、僕の知識も紙の上のものが多いからな。知っていても知らなくても、ささいなことだ。ただ、いわゆる禁呪の類の中でも、最悪の類の呪術体系だとは聞き及んでいる。それ以上のことは教えてくれなかったが、今にして思えばあれは僕の出生に絡むところがあったからかもしれない」
ヨルクが語ったのは、国境近くの森に入った者が、度々行方不明になったり、無残に殺されていたということ。集団失踪は初めてでも、行方不明事件自体は、定期的に起こっていた。村人の間に口伝されるほどに。
「もし、仮に魔術結社といったものが古くから存在するとして、定期的に実験に使う人間を国境近くで仕入れていた可能性はあるかもしれないな」
辺境のこととはいえ、ずっとそれが明るみに出なかったことにはかなり疑問が残る。しかし、実際のところ村人を全員失踪させるほどの魔術が使える未知の存在がいるということだけは確かなのだ。
ヨルクがわざわざ自分からアローにこの情報を伝えてきたということは、少なくとも彼は彼なりに「国境のこと」と繋げられるだけの根拠があるのかもしれない。
しかし、いくらヨルクが意思の強い死霊でも、昼間にそこまで精度が高い意思疎通はできなかった。これは力の限界だから仕方がない。ここで魔力を浪費すれば、いざという時に本気が出せないのだ。
「お兄様のお母様は、ノルトベーネから禁呪を使う魔術組織に追われて逃げおおせてきた、ということでしょうか?」
「その可能性は高いな。まぁ、これから母さんの墓で死霊召喚ができれば、直接聞ける。エルマー、頼む」
「あっ、はい……場所は……」
その時だった。
ざわりと、おぞましい魔力が背筋をかすめていくような感覚が走る。
「おい、村の方やべえぞ」
ギルベルトが剣を手にする。村の中心部から、黒い異形が噴水のように吹き上がるのか小さく見えた。
「……あちらにいったか。全くこれからという時に」
「お兄様、私が先行しますか?」
ミステルの魔術なら対抗しようはあるだろう。彼女の魔法はフルーフに対峙するには、恐らく相性がいい。しかし、ヒルダとテオ、そしてパウラだけでミステルがたどり着くまで抑えることは難しい。
「僕だって何も考えていなかったわけじゃないさ。……リューゲ。爪をもう一枚持って行っていいから、少しだけ目を貸してくれ」
リューゲに関して言えば、ダメ元のお願いだったのだが、空中から彼女の気のない声が返ってきた。
「黒妖精使いの荒い子ねぇ。いいわ、その目は元から私のものだし、今回は特別」
「恩に着る」
ミステルは若干むっとしながらも、さすがにそれどころではないと理解はしているからだろう。今回ばかりは、口出しをしてこない。
「ミステル。お前の魔法も借りるぞ。……っと」
杖にすがって、どうにか立ち上がる。まだあまり力ははいらないが、問題ない範囲だ。
「ベル、頼む」
「わかった」
ベルの伸ばした細い枝が、アローの手足に巻き付いて、地面へと繋ぎとめる。立てないのならば、立たせればいいのだ。ベルの枝をつかって、自分の身体を支えればいい。
「……『弓』」
杖を弓の形状へと変化させる。テオから聞きだした弓のコツをどこまで活かせるかはわからないが、今からミステルを現場に行かせるよりも、こっちの方がずっと早い。
「ミステル、さぁ、頼んだぞ。ベルの枝に載せてお前の魔法をあちらまで飛ばす」
「お兄様…………ヒルダとテオには当てないでくださいね。特にヒルダには。私にちとっても大切な友人ですので」
「心配するな、ミステル。テオの矢ならともかく、ヒルダならこんな矢くらい避けられる」
はぁ、と呆れ混じりのため息をついて、ミステルは手を掲げる。
「さぁ、死と共に踊りましょう!」
ベルの声がそれに続く。
「祈りましょう。応えましょう。私の盟主、アーロイスに」
二人分の魔術を宿し、ヤドリギの矢が光を放つ。
「僕から魔術の力を奪っておかなかったことを後悔しろ、自称妹。――『死を記憶せよ!』」