97.大魔術師クロイツァの愛的な何か
師匠クロイツァがパチリと指を鳴らす。それだけで周囲の風景はガラリと変わる。
アローは気づくとまたあの黒き森の中にいた。今度はミステルも一緒だ。一日に何度連れてこられるのだろうと思うが、ここよりも人目がない場所というのもそうそうないだろう。
今までと違うのは、そこが森の真っ只中ではなく、かつてアローとミステルがクロイツァと共に暮らしていた、森の山小屋だったことだ。
「いやぁ、久々の我が家だなぁ」
クロイツァは何事もなかったかのようにそう言って、背伸びをする。ここで暮らしていた時のように、三脚しかない素朴な木の椅子に腰かけ、足を組む。
「この森の家は私がお前を育てるために作ったんだ。黒き森の奥では、さすがに奴らも探しようがなかったらしい。実に平和だったな。平和すぎて眠かったぞ。まぁ、ぶっちゃけ向こうもお前が墓場で無事にすくすく育ってるとも思っていなかっただろうしなぁ」
クロイツァが語っているのは、アローを『作った』者たちのことだ。
王都には人が多い。潜ませようと思ったらどこにでも、何にでも潜ませられる。もちろん、クロイツァはそれを見逃すほど愚かではないが、街暮らしに慣れてきたばかりのアローにはそこまでの注意力はない。ましてや今は魔力が使えないから尚更だ。一応、警戒してここまできたのかもしれない。
「ベルも同じ連中の仕業か?」
「知らん。でも他にいくつもこんなつまらんことをする奴らがわらわらいたら、さすがの私もひと暴れするぞ」
「それはやめてくれ」
「クロイツァ様が暴れるのは洒落になってませんので」
アローとミステルが口々に言う。クロイツァが暴れたら、それこそ国が一つ消えそうだ。
「……私は見たいわねぇ、貴女、妖精族並みの魔力を持ってるけれど、何者かしら?」
ふわりとリューゲが姿を現す。ハインツがいなくなったからだろう。王都グリューネはフライア教会の力も強い。黒き森の方が居心地がいいのか、彼女は口ぶりの割に機嫌がよさそうだ。
「さあ? 私にも私の存在の定義はしかねるよ。何せ人間からはだいぶ外れてしまったのでね。だからこそそいつを弟子にした。はみ出し者同士というわけだ。あはははははははは!」
「師匠と同じ枠に入れられることを喜んでいいのかわからない……」
愉快そうに笑うクロイツァの隣で、アローは微妙な顔を決めている。
「だが、あまりこいつに手を貸しすぎるなよ黒妖精様よ。これ以上甘えたになったら困るのでな」
「貸さないわよぉ。契約にないし? ま、簡単に死なれたらがっかりだから、そういう意味では多少甘やかしてるのは認めるわ。でも、基本的に私が全力で魔術を使ったら、この子消し飛ぶもの。使いたくても使えないわ」
「そりゃぁそうだな!はははは!」
全く笑いごとではないが、クロイツァはさもおかしそうに笑った。確かに、リューゲが魔術を惜しみなく使ったら基本的に人の身であるアローにはどうしようもない。冥府の門経由でスヴァルト召喚をして魔術回路の故障で済んだのは、ある意味幸運だ。
《貴方は色々わけのわからないものに囲まれていますね》
恐らくわけのわからないもののひとつに含まれているはずのベルがぽつりと呟いた。ウィッカーマンの呪縛が弱まって正気に戻ってから、周りに真面目な人間がヒルダくらいしかいなかったのだからこの反応も仕方がないのかもしれないが。
(しかし、喋る呪いの杖に義妹の使い魔に黒妖精に正体不明の大魔術師か……まともな人間が一人もいないな)
無論、アロー自身もまともとは言いがたい。
ため息をつきながら、アローもベルの杖を食卓に立てかけて椅子に座る。
窓の外、夜の森は漆黒に染まっていた。クロイツァが呼び出したのであろう光聖霊が舞っているので、家の中はほの明るい。
もう、空けて随分と経つのに埃一つなかった。微弱な聖霊たちが常に掃除して回っているからだ。目的を果たしたら戻ってくるつもりだから、アローも停止を命令しなかった。
旅立ちが随分と遠い出来事に思える。まだ半年も経っていない。
「結局ここに来るなら、店に上がる前に飛ばせばよかったじゃないか」
「お前があんまりにもすっとぼけてたら黙って帰るつもりだったからなぁ」
(つまり、『正解』を引けなかったら、魔術回路の修復もナシだったのか……)
割とこの師匠にしてはわかりやすい方だったとはいえ、情け容赦がない。
しかし、この破天荒な大魔術師は、こうやってある意味まっとうに『師匠』をしてくれるのだ。面白がっているだけのようで、きちんとアローに教えを説いている。そして真面目なことを言っているような時は、大抵ただ純粋にふざけている。そういう人だ。
「おい、アロー。ちょっと頭をよこせ。頑張ったからなでてやろう」
ニヤニヤ笑いを浮かべたまま、クロイツァが手招きをする。
アローとミステルが顔を見合わせた。真面目なことをしようとする時、師匠は大体ふざけているからだ。
「嫌な予感しかしない」
「潰されたりとかしませんよね?」
「お前ら、幼少期の素直さはどこに……そんなに素直でもなかったか?」
芝居がかった仕草で泣きまねをしようとして、クロイツァは自分で「はて?」と首を傾げた。
「師匠が穏便に優しかった覚えもないな」
何せこの師匠である。アローもミステルも、割と奔放に育てられている。弟子が素直に育たないのも致し方なしではないだろうか。
とはいえ、あまりに拒否するとそれこそシャレになるかならないかギリギリの悪戯をされそうだったので、アローは渋々と頭を差し出す。
「はははは、最初から素直に差し出せばいいものを」
「何もしないでくれ、頼むから」
「んん? そんな約束はしたかな?」
クロイツァは少しばかり乱暴に、アローの髪をくしゃくしゃと撫で回し、そして。
「あいだだだだだだだっ!!」
突如襲いかかってきた猛烈な頭痛に、アローはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫ですかお兄様!やはりお師匠様の卑劣な罠に?」
頭をおさえたまま突っ伏すアローに、ミステルが半狂乱の声を上げる。それをクロイツァは若干生温い眼差しで見つめた。
「人聞きの悪いことを言うな、ミステル。というか、お前本当にブレないな」
「お兄様の使い魔として、お兄様のためにこの魂を尽くしますので! たとえお相手が大師匠様でも!」
「魂を尽くすつもりなら、人を疑う前に冷静になれ。約束しただろう。魔術回路を治す、と」
「はい?」
ミステルがきょとんとした顔になって、足元でうめき声を上げている義兄を見やる。
「どうみてもトドメさしてる感じですね」
アローはまだ床でピクピクとしている。
「まぁ、魔術回路が絡まってるのを、無理やり引っ張って伸ばしたみたいなもんだからな。……で、まだ半分しか治してないが、残りの半分を耐える勇気はあるか? バカ弟子よ」
「うぅ…………」
低いうなり声を上げつつ、アローは何とか起き上がった。頭の奥がまだ痛い。ミステルが心配そうに顔を覗き込む。
「お兄様、大丈夫ですか?」
「大丈夫……と言いたいが、身体中の血管を引きちぎられた気分だな……」
「まぁ、似たようなことをしたからなぁ。でも半分だぞ」
「こ、これで半分か……」
あともう一回耐えなければならないということだ。若干遠い目になったアローをよそに、クロイツァは何やら思案している。
「さすがに魔術回路は私の万能薬でも治せなかったなぁ。配合を変えてみるか……」
どうやらあの不味さを極めた魔法薬の改良案を考えているらしい。それを聞いて、もう薬を飲む必要などないミステルまでが遠い目になる。
「クロイツァ様、アレを更に苦くするおつもりで?」
「ん?別に美味しくもできるが?」
「「できるのか!?」ですか!?」
義兄妹の声がハモる。どちらも少し風邪をこじらせたりすると容赦なくアレを飲まされてきたのだ。ツッコみたくもなるというものだ。
「美味しくすると簡単に私の薬に頼るだろうが。これも愛だぞー?」
「愛のつもりが欠片でもあるなら、あそこまでエグさの暴力みたいな味にしなくてもいいだろうに」
オステンワルドで毎日飲まされたこちらの身にもなって欲しいものだ。
ちなみに、アローはクロイツァの万能薬を再現してみようとしたことがある。ミステルが死ぬ少し前のことだ。ミステルを治療できないだろうかと、色々薬草を煮詰めてみたが、結局上手くはできなかった。
師匠の配合した薬の中には、未だにアローが解読できないものがごろごろ転がっている。この山小屋にある薬品の半数が、そういった師匠以外には扱いようがないものの山だ。
「一体何が入ってるんだ、アレは……」
「知らない方がいいと思うぞ?」
ニヤニヤ笑うクロイツァから、アローはそっと目をそらした。師匠がこう言うのだから、本当に知らない方がいいものに違いない。ミステルも同感のようで、目を合わせて粛々とうなずいた。
「何かおぞましいものが入ってるということはわかりました。本当に子供に何飲ませてたんですか」
「まぁ、毒も極めれば薬になるということだ。私以外が処方したら猛毒になるから勧めないぞ。それと、アロー、ミステル。あとその杖。ちょっと庭にでろ」
クロイツァは唐突に立ち上がると、玄関の扉をあけ放ちアローを手招きする。
やはり嫌な予感しかしない。ひんやりとした夜の森の冷気と共に、不穏な気配が忍び寄ってくる気がする。
「ベルとミステルと一緒に、ということは……」
「ご明察だな、アロー。そうだ。少しばかり手合わせといこうではないか」
「手合せ?」
そんなもの、実際にこの家で師弟として一緒に暮らしていた時だって、ただの一度もしたことはない。純粋に、アローではクロイツァの足元にも及ばないからだ。クロイツァはアローのことなど、よそ見しながら片手で倒せる。それくらいに力量差がある。きっと、今もさほどその差は縮まっていない。
クロイツァは魔術ひとつ使わずにアローを倒せる。何せ、アローに剣や弓、暗殺術などの物理的な鍛錬を教え込んだのも、他ならぬ師匠クロイツァだからである。
「安心しろ。魔術回路半分しか使えないお前のために、全力で手は抜いてやる。麗しい師匠の愛だぞ?」
「愛とかいいつつ堂々の手抜き宣言とは……」
クロイツァが本気を出せば黒き森自体が消えてもおかしくはない。アローが本調子だとしてもまず、勝てる相手ではない。しかし。
「やるしか、ないな」
「いいんですか、お兄様」
「口で言って納得する師匠か?」
「それもそうでした」
ミステルが「はぁ」と、ため息をつく。
《よくわからないけれど……あの人と戦えばいいの?》
「ああ、そういうことらしいぞ、ベル」
いつも使っている杖は店の中だ。ベルを使って戦うのは初めてだが仕方がない。恐らく、その点も含めてクロイツァなりに『師匠』をやっているのだろうから。
「私は見物に回るわよ。楽しませてねぇ」
リューゲは近くの木の枝に移動して、大魔術師とその弟子の対峙を見下ろした。
「リューゲ、君の娯楽のためにやるわけじゃないぞ」
「知ってるわ。でも正直とても面白いわよ、貴方の師匠。弾き飛ばされたのは不愉快だったけれど」
「はははは、黒妖精様はノリがいい。アロー、お前いいのと契約したなぁ。さすがの私も黒妖精とは契約したことはないぞ!」
「そんな子供のおもちゃ自慢みたいなノリで羨ましがらないでくれ」
魔術回路の修復は半分。ベルを手に取る。
目を閉じる。開く。アローの瞳が、薄く紅く輝いた。
「いくぞベル。それと、僕の《ミストルティン》」
「――はい、仰せのままに、主様」
ベルの杖が光を帯びる。ミステルが右手を掲げる。
「さあ、全力でかかってこい。この私が直々に相手をしてやるなんて、今後あるかどうかわからんぞ?」