りんご
「春満開!いちごづくし」「夏先取り!トロピカルフェア」「実りの秋!マロン&お芋祭り」「冬到来!真っ白クリームキャンペーン」
私はその全てを知っている。毎月必ず半休を取って早朝から店前の列に並び、季節ごとの限定商品も胃袋に無理を言って残さず食べてきたのだから。
今日は15日。すっかり常連として扱われるようになってしまった街中のタルト専門店で月一のケーキバイキングが行われる日だ。1ピースで平均700円以上するタルトが、時間限定とはいえ1500円で食べ放題とあっては、女性たちが放っておくはずがない。
今日も開店前の閉じたガレージ前には、幅広い年齢層の女性たちが長蛇の列を成している。ちらほらと男もいるようだが、その半分以上は連れ合いに付き合わされての渋々面、もう半分はヒマな男子学生どもの余興的な雰囲気で、私のような40も過ぎた男が一人という姿は他に見当たらなかった。
それも含めていつものことだったし、そもそも列の一番前にいるのだから、後ろに誰が並んでいようと対して気にもならないのだが、最初にこの列に並んだ時はあまりの場違い感に逃げ出したくなったことをよく覚えている。きらめく果実と店内の様々な甘い香りにめまいを覚えながら選んだケーキは思いの外大振りで、3個目は二口も食べられなかった。元を取れたかどうかは怪しかったが、それでも目的は達せられた。いや、あれから何年も経った今でも、その半ばと言う方が正しいかもしれない。
私は特に甘いものが好きなわけではない。だからと言って嫌いなわけではないし、美味いものは美味いと思う。要はその程度の思いしかないのだが、どうあっても15日のこのケーキバイキングだけは、逃すわけにはいかなかった。
食べ物の気持ちを考えなさい。
幼児か児童と呼ばれていた頃、嫌いな食べ物を残そうとして、そんなことを言われたことが誰しも一度くらいはあるのではないかと思う。幼心にも食べ物に気持ちなどあるものかと鼻で笑っていたが、それは間違いだと今では思うようになっている。あの日、彼女が私を置き去りにしたあの日から、私がそれを考えない日はなかった。食べ物は食べられるその瞬間、どんな気持ちなのだろう、どうせ食べられるなら、どんな人間に食べられる方が良いだろうか、と。
彼女は美しい人だった。お世辞のような褒め言葉を必要としない、彫像のような整った姿を持っていた。私にはそれは神のような存在が与えた奇跡のように見えたが、彼女はそう言う私を笑った。努力なしに美しい女などいるものですか、とそんなことを言っていたように思う。私は彼女のそういう物言いがとても好きだった。
開店と同時に迷うことなくショーケースの中からいつも通り商品を選び取りながら、私は彼女の遠い面影を頭の中に描いていた。瞳や指先、その他の細部はもう時間が削り取ってしまった。もはや鮮明に残っているのは薄めながら整った唇と光沢のある白い歯、そして時折唇についたものを舐め取る舌先の赤さだけだ。それが彼女で、私にはもうそれ以外の部分をリアルに思い出すことができなくなっている。
タルトを載せた盆を持って飲食スペースに移動する。収容人数を限界まで高めようとする気概さえ感じられるテーブルと椅子の配置には毎回感嘆を覚えるが、私の他にはまだ客は入っていない。私は迷うことなく、一番奥の二人席に腰を下ろした。
あの日、私は体調を崩して寝込んでいた。風邪に胃腸炎が重なって、数日まともに食べられていない状態で、看病に来た彼女が作ってくれたおかゆさえ匂いだけで戻してしまいそうなほどだった。それでも彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。熱でぼんやりとした頭で、ああこんな時でも彼女は美しいと思った。にじんだ視界の中に明るい赤の口紅を引いた唇が笑いかけてくれているのがわかって、私は幸せだった。
「ああ、私、そろそろ行かなきゃ」
一通り世話を済ませると、彼女は時計を見て慌てたように言った。
「友達とケーキを食べにいくのよ。彼女、並んでくれてるはずだから、もう行ってあげないと」
私は、その時なんと言っただろう。何かは言ったのだと思う。だから彼女は答えたのだ。
「え?だって月に一度しかないのよ。バイキングでしか出さないケーキもあるって言うし。あなた今日は外に出られないでしょう」
私はまた何か言ったはずだ。けれどやっぱり自分の言葉は思い出せない。まるで一人で台詞を練習しているかのように、彼女は言葉を続ける。
「そうねえ、ケーキかなあ」
そこでいつも彼女は笑う。ふふと、いたずらを思いついたように。
「私、アップルパイが好きよ。今日だけ私を待ってくれているんだから、行かなきゃね」
それが最後だった。彼女は私を置いてケーキバイキングへ行ったのだと思う。そして私はアップルパイを求めて、長蛇の列に並ぶようになった。
厚いパイ生地の上に何重にもなった薄切りのリンゴ、さらにその上でてらてら光る甘い蜜。私はテーブルの上のタルトをしげしげと眺める。この季節限定らしいサクランボが山と積まれたタルトも一応は一緒に取ってきていたが、アップルパイを凝視する視界の中ではそれはテーブルと同化してしまっている。
皮むきをせずに切った薄いリンゴの背には赤い皮が残っている。細い筆で描いたようなその鮮やかな赤い一筋の線は、あの日も見たような気がする。そんなことを考えなら、一口目を口に運ぶ。
彼女がこのアップルパイを食べることはない。このアップルパイは決して彼女に食べられることができないのだ。いくら待っても待ち人は来ない。その代わりにこのパイは、私に食べられる。これは復讐だ。奇跡のように美しかった彼女ではなく、その彼女を、死んだ女を、何年も何年も思って好きでもないパイを食べるためにバイキングに通う中年の気持ち悪い男に、お前は食べられる。それが、あの日彼女に選ばれたお前への、またそのために死んだ彼女への復讐なんだ。
今月も、アップルパイは酸味がききすぎていた。