RAMBLE UMBRELLA(それを求めたのは人と犬、どちらが先かというジレンマ)
ある日、親父が、真っ白の子犬を抱いて帰ってきた。
残業、休日出勤、出張やらで殆ど家にいない親父。でも、その子犬を連れてきてからは、夜には家に帰って来るようになり、休日も朝から楽しそうに散歩に行くようになった。
子犬はくるくる尻尾の真っ白な柴犬。
真っ白な顔に、赤色の小さな鼻。
まるで小豆みたいだろ。親父は言って、勝手に『あずき』と名付けた。
ベロベロとうれしそうに顔を嘗められて、あずきを溺愛する親父を、俺や妹は冷ややかな目で見ていた。
小さな頃から、旅行の一つも連れていってもらった事が無い。休みはいつも仕事で、運動会などの学校行事にも母親が来てくれていた。
この前、俺の野球部最後の試合があるから来てくれって言った時も、仕事があると来てくれなかった。まあ、来てくれるとも思ってなかったから、別になんとも思わなかったけど。中学でソフトテニスをしている妹が、どうせ誘っても来ないのに、と俺に笑った。
*
そんな親父が入院した。
母親に聞いた話では、過労のせいらしいが、入院の手続きや、仕事の休職の段取りやらで、俺達はすっかりあずきの事を忘れていた。
入院の次の日、少し元気を取り戻した親父が見舞いに来ていた俺に、あずきの世話を頼む、と言った。
*
大学受験に失敗し、晴れて浪人生となった俺は、あずきに散歩用の赤い首輪を巻く。首輪を見ただけで、散歩に行くことが分かるのか、あずきは何度も俺に飛び掛かってくる。
今にも雨が降り出しそうな、どんよりと曇る空の下、散歩に出かけた。
犬の散歩がこんなに大変なものとは知らなかった。
体は小さいくせに、力だけは一人前。ぐいぐいと俺を引っ張っていく。
あっちこっちで鼻を地面に擦りつけるようにして、くんくんと匂いを嗅ぎながら、当たり前のように突き進むあずきに引かれた俺は、公園を通り抜けて、妹が通う中学の側に辿りついた。
中学のグラウンドを見下ろす丘の上。あずきはベンチの側の地面に腹をつけて伏せの体勢になった。
ぽつぽつと雨が降り出したので先を急ごうとリールを引っ張るが、あずきはビクとも動かない。
俺はしかたなく、ベンチに座る。
人気のないグラウンド。 雨ということもあり、クラブ活動は屋内でやっているのだろう。
しばらく人気の無いグラウンドを眺めていると、あずきは立ち上がり、またリールを引っ張り始めた。
雨の中、あずきは河川敷を走っていく。
親父の散歩コースなのだろう。
あずきが足を止めて、芝生の上に伏せる。
息を切らせて追いついた俺は、伏せるあずきのすぐよこのベンチに腰を下ろして息を整える。
雨で濡れた木製ベンチから湿気がズボンの中に染み込む。
ベンチからベンチ。こんなに休憩しなきゃいけないんなら散歩コースを短くすりゃいいのに。
息が整い、顔を上げる。
降りしきる雨の中、目の前には、野球のグラウンド。 誰もいない、雨に濡れて、焦げ茶色になったマウンド。
俺が、最後に試合をしたグラウンド。
すこし、想像してみる。
夜、真っ暗な中、懐中電灯を持って散歩に出かける親父。雨の日も、うだるように暑い日も、凍えるような寒い日も。
中学校のグラウンドと河川敷の野球場。
親父とあずきが歩き続けた道。積み重ねられて、やっと形になった思い。
親父は……
『いつも君達を見ていたんだよ』
声が聞こえた気がして、我に返る。
足元であずきが真ん丸の黒目で俺を見つめていた。
小豆色の鼻が雨に濡れて、てかてかと光っていた。
*
退院した親父は部署を異動した。教育関連の民間企業の中でも、最前線から事務方に移ったらしい。
ある日の夕方、あずきに首輪を付けてリールを握る親父を追い掛けた。
久しぶりにあのグラウンドでキャッチボールがしたくなった。
―― おしまい ――




