肴は雨(梅雨前線通過中)
「どう? 雨ましになった?」
蛍イカの味噌煮込みを口にほうり込みながら京子が言う。
居酒屋の引き戸をガラガラと閉めながら紗耶香は首を振った。
「だめ。まだ本降り」
椅子に座った紗耶香はため息をつきながら、生ビールを飲み干し、泡まみれの口で、焼き餃子を頬張る。
まったくついてなかった。梅雨入りの今日、夜から雨が降ると聞いていたので、定時に帰ろうとした二人に課長が声をかけた。
「ごめん。残業頼むわ」
突然の得意先からのクレーム。処理を終えたころには、日がとっぷり暮れ、空からは大粒の雨。
そのまま濡れて走ってもよかったが、高い湿度に強化された焼き鳥の匂いにつられて店に入ってしまった。
すぐやむだろうとたかをくくっていたが、どうやら本当に梅雨入りしたらしい。雨足はひどくなるばかり。
「しかたないね。とことん飲もうよ」
紗耶香は店員を呼び、生ビールの追加を注文する。
「あ、枝豆も追加ね」
京子の言葉に店員が威勢のいい返事をして厨房に戻っていった。
「雨っていったらさあ」
箸を置いた京子が顎に手を置き話し始める。
「私、昔ね、見たことあるんだ」
アルコールのせいか顔を赤らめた京子は宙を見つめる。シーザーサラダをバリバリと食べる紗耶香が
「ん、何見たの?」
あまり興味がないように尋ねる。京子が笑顔で答える。
「梅雨」
*
えんどう豆の筋を取る作業にあきた京子は母親が目を離した隙に、家の外に飛び出した。
どんよりと重い雲がのしかかるような空。湿気を含んだ草いきれにむせそうになる。
小学校の授業で梅雨に入ったと習ったばかりだった。
家を抜け出て外にでたものの、京子には特に行くあてもない。ただ、指の先にほのかに残るえんどう豆の生臭い臭いを洗い落としたかった。
近所の神社に手水場があることを思い出し、こんもりとした森の中の神社に走る。
手水場で杓を使って手を洗っていると、神殿の方から何やら声が聞こえる。 無人神主の寂れたこの神社に人はめったに来ない。
「おーい、おーい」
鳥居の影から神殿を覗き見ると、京子の同級生の武司が空に向かって叫んでいた。
運動神経抜群、クラスの人気者の意外な姿に京子が呆気に取られていると、武司が鳥居に隠れる彼女に気付き、睨みつけた。
「なにしてるの?」
恐る恐る鳥居の影から出た京子が睨みつける武司に近づく。
「おう。梅雨を呼んでたんだ」
武司は胸を張って答える。唖然とする京子を余所に、武司はまた空に向かって呼びかけ始めた。
「なんで、梅雨なんか呼んでるの?」
呼びかけ続ける武司に京子が尋ねる。
「父ちゃんがな、今の仕事が終わったら引っ越しっていうからな」
武司の父親は大工の一人棟梁をしている。今の建築現場が終われば他所の現場に行かなければならない。
「梅雨が来たら、雨降って仕事できないだろ、そうしたらさ」
武司はそこまでまくし立てると、急に顔を赤らめた。
「そしたら…… お前、もうすぐ誕生日じゃん……」
胸の鼓動が早くなり、京子も顔を赤らめる。
その時、湿った突風が神社を吹き抜けた。梢が激しく揺れ、鳥居が風切り音を立てる。空に黒い雲が広がり、大粒の雨が降りはじめた。 強風に手を翳していた京子が顔を上げると、叩き付ける雨の中、武司が神殿の屋根を指差していた。
そこには……
*
「で、そこに梅雨がいたの?」
生ビールを飲み込んだ紗耶香がニヤニヤしながら京子を見る。
「いたんだけど、なぜかはっきり思いだせないのよね」
枝豆の皮を剥きながら答える京子。
「あれが、初恋と初失恋だったんだよね」
緑色に輝く枝豆を口にほうり込む。
居酒屋の引き戸が開く音が響く。
「いやーまいったな」
「この雨じゃ、納期が遅れそうだな」
びっしょりと雨に濡れたスーツ姿の男性が二人居酒屋に入る。
「いらっしゃい!」
店長がカウンターから声をかける。
何気なく振り返った京子の目に映った人物、
それは……
強風が居酒屋の引き戸に吹き付け、ガタガタと音を立てる。
*
むせ返るような焼き鳥の匂い。
居酒屋の入る雑居ビルの屋上。
足の長い下駄。長い赤鼻。ぼんやりとした輪郭。手には酒の入った盃。
そして、たたき付ける雨。
「酒の肴は雨に限る」
―― おしまい ――




