アンブレラ(一般空間における時間軸操作とその考察)
傘の中はタイムマシン。
雨の日から雨の日へ。
今日も朝から雨。
陰欝な気分のまま、いつもの傘を開く。
傘が広がる音が心地好く響く。
雨の日のしとつく音は嫌いだが、傘を開くこの音は少し好みかもしれない。
夜中までかかって完成させたレポートが入ったリュックを背負う。
狭い路地。通りすがる人と傘がぶつかる。
この音は嫌い。
すみませんと声をかけてくれた男性。
会釈する私は湿気を含んだ髪をかきあげた。
見上げた先には、雨の中に滲む紫陽花の花。
満員電車の手すりに掴まり、雨に煙る窓の外を眺める。高架の下には傘の花が咲き乱れる。
駅を出てまた傘を開く。
しとしと降りしきる雨が傘を叩く音。
広がったのは紫陽花の香り。深呼吸をしてその甘ずっぱい香りを胸に吸い込む。
さっきの路地の紫陽花の香りが傘の中に残っていたのだろう。
まるでタイムマシン。
*
降りしきる雨の中。
私は道路に散らばるレポート用紙をぼんやりと眺めている。
折角夜中まで頑張って打ち込んだのに。
レポートの内容は、時間素粒子理論による時間軸操作。雨がレポートの文字をゆっくりとにじませていく。
膨大な時間をかけて築き上げた時間操作の数式がまるで、雨の中に咲く紫陽花のように広がっていく。
私の思考を妨げるように、救急車のサイレンが響く。 赤いライトの光が路面の水溜まりに無数に反射して。
傘をささなくちゃ。
紫陽花の香りを頼りに目線を移す。
グニャグニャに折れ曲がった赤色の傘が見えた。
傘の中にはいらなくちゃ。
一般空間における時間軸は一つ一つの傘と同じ。
傘と傘が触れ合うと、お互いの傘の中の空間が融合しあう。
紫陽花の香りは私の時間軸に入ってきた来訪者。
違う時間軸の傘を持つ一人一人が触れ合い、空間を共有し、時間軸を共有しあう。
私と傘を触れ合わせたあの男性とは、全く違う時間軸を持つ孤独な個。
でも、あの時、私とあの男性の時間軸が共有され、二つの傘の下に新しい時間軸が形成された。
時間軸の操作とは、単に傘を閉じるだけでいい。こんな簡単な事にどうしてみんな気付かないのかな。
雨が道路に打ち付ける。
雨粒に混じる赤い色は私の体の中の色。
傘をささなくちゃ。
私の時間軸を、あの心地好い紫陽花の香りを。
傘に伸ばす私の手はもう自由には動かない。
私の時間は、折れ曲がったあの傘のように、もう、個の時間軸を保つことができなくなってしまっていた。
ただ、少し離れて、私を見ている色鮮やかな傘の群れが見える。
その傘を一つ貸して下さい。
―― おしまい ――
いきなり、少しハードな内容でした。次話からはソフト路線になります。