描写についての基礎的な考え方
男「描写のコツとはなんだろうかね」
女「そんなもん分かったら苦労せんわー!」
男「まあ、そうなんだけどさ。まず皆からして基礎の基礎の考え方がなっていない人が多いもんなんだなあ」
女「とか何とかいっちゃってさ。あんたには分かるんかいな」
男「一応それなりに解説するとしよう」
女「すげぇ自信。男△」
夏目漱石『文学の哲学的基礎』より引用、()内は振り仮名
文学とは感覚的な或物を通して、ある理想を表すものであります。
だからしてその第一主義を云えばある理想が感覚的に現れてこなければ、存在の意義が薄くなるわけであります。
この理想を感覚的にする方便として初めて技巧の価値が出て来るものと存じます。
−−引用終了−−
この文章の文脈は、「技巧について」を述べていたものだ。
技巧だけで小説を書くことは出来ないよ、何か感覚的なもの(理想、信念)のようなものがないと書けないよ。
漱石はそのように述べている。
つまり、描写はその「感覚的なもの」に基づいてないといけない。
簡単に言うと、描写は感覚的なものを表してなくてはならないのだ。
だから僕たちは描写の際に五感覚を用いて表現する。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感覚である。
女「例えば『それは大層美人な女性がいた。肌は丸みをおび、触れば柔らかそうである。僅かに温めたミルクのような匂いがして、そしてまさに白い肌なのだ』という描写とか、もう五感覚をフルに使用してるよね」
男「だね。あと自画自賛もほどほどにね」
女「お?つまり私はそんな美人なのかな?かな?」
男「ただし、漱石のいう感覚的なもの、とは『感覚を通じて伝えたいこと』のことをさしている」
女「む、スルーか。……つまり」
男「そう。君のミルクの女性もしかり、あるいは信念や理想もしかり」
ミルクのように美しい女性を伝えたかったから感覚的な表現に訴えた。
或いは、何か伝えたい信念や理想があったから、感覚的な表現に訴えた。
漱石が主張している「感覚的なもの」とはつまり、そういうことである。
逆に言うと、描写がいかに上手いからと言って、その伝えたいものがないならばろくでもない。漱石はそう断言する。
描写とは、「感覚的なもの」なのだ。
何か伝えたいものがある。それを伝えるには感覚的なものに訴えるしかない。それが「描写」だ。
描写が上手いからといって、伝えたいものがたいしたことのないものならば意味はない。
伝えたいものが複雑だから描写を上手くする必要があるだけで、伝えたいものがまずもって大事なんだ。
女「ふむ、では揚げ足取りみたいな言い方だけど、描写ってのは感覚に訴えなきゃだめなのかね」
男「いや、感覚を用いない描写もあるんじゃないかな。それはまあ、俗に説明文と言われたりするんだけど」
女「漱石の言葉を借りたら、文学には説明文は必要なくなるんじゃ?」
男「そんなことないさ」
女「だって理想を表すのが文学ならば、理想を伝える手段は描写で、説明文はいらない訳じゃなくて?」
男「漱石はそうは言ってないよ。彼は説明文も必要だと言っているよ」
説明文については寺田寅彦も必要性を言及している。感覚だけですべてを伝えられるものではないと。
ここに、描写の本当のコツが隠れている。
つまり、伝えるように書かなくてはならない。
その手段が描写であれ説明であれ、読者に伝わるように書くのがよいのだ。
この考え方は、「写生文」なる考え方の根本的なものであり、夏目漱石の他には正岡子規などが有名だ。
男「以上を踏まえて、
?描写や説明は伝える手段である。
?描写は感覚的なものでなくてはならない。
?文学とは、何かしらテーマ(理想)を持ってないとたいしたものにはならない。
ことが分かった」
女「ふむん」
男「さてさて、この描写の上手い下手とは何なのか、はまた後ほど」
女「ええっ!まさかの投げっぱなしジャーマン!」
男「何それこわい」
女「こっちが怖いわ!あ、ありのまま今起こった事を(略)」
男「それじゃあまた今度、see you!」
女「ちょ、待てや!」