・文の長さの目安とは
男「文の長さの目安は、大体一文1~3節、多くなったとしても一文4、5節だろうね」
女「節?」
男「女はかわいい、が一文節」
女「いいね」
男「女は照れて、こちらを見た、が二文節」
女「述語が二つに増えたか」
男「女は照れつつ、そのにやけた顔を崩さず、体をこっちに寄せてきた、が三文節」
女「いや、そんなことしてないっす」
男「もしこれ以上増やそうものなら、全体の文字量と読みやすさを考えなくてはならない」
女「そこら辺は匙加減じゃない」
男「たとえば、こんな文章。女はその顔を赤く染めつつも、気恥ずかしさを悟られないように体を寄せて、密着したままこちらを見上げて頬を緩めた」
女「そろそろやめてくれる?」
男「さて、文節について解説しよう」
文節とは主語述語の一単位で括れる区切りのことだ。
たとえば「残酷な天使が社会運動を起こした」は一文節。「この空を抱いて輝く少年は神話になる」は二文節。
『この空を抱いて And 輝く / 少年』というように、『抱いて輝く』が少年を修飾している従属節だ。
従属節と言うのは、主節を修飾している節のことだ。主節は文の根幹の節だね。
この場合の従属節は、「少年」という名詞を修飾しているから、連体詞節という。英語では、名詞を修飾している節は、一般には形容詞節と言う。
この場合の主節は「少年は神話になる」、の部分だね。
女「それわざとやってるの? ねえ、わざとやってるの?」
男「なんらの関係性も引用性も無いし、ましてや名誉毀損や権利侵害を起こしているわけでもない。何かを彷彿させたとしても、それはこのコンテクスト上ではシニフィアンとシニフィエの合一とは言えない」
女「はいはい、何かを連想しても、その連想したものは私たちの主張とは無関係って言いたいんでしょ」
男「お、ソシュールを勉強しているとは」
女「ソシュールの言葉を借りるなら、どのようなシニフィエ=言葉であれ、シニフィアン=対象を完全に言い表すのは不可能、だからその理論は破綻してると思う」
男「まさか、たしかにこの引用はある意味メタ的な意味を持つが、そのメタ性は『ある共通の理解』がある人間にのみ理解できるものだから、なんら侵害はしてないだろう」
女「その『理解できる』側の人間の内輪ネタってことね」
男「そう。和歌における引き歌の概念よりも、よっぽど健全なお話さ」
女「とか言いつつも、何らかの意味合いを込めてることは認めてるわけだね?」
男「デリダの議論では『テキストの外には何も無い』だ。テキストの持つ意味合いはテキストどおりさ。そこになんら他意はないことをここに宣言する」
女「ぐぬぬ、字面上は問題ない、問題ないが……」
男「さあ、話を進めよう」
さて、会話で出た例文を節に分解してみると、
「女はその顔を赤く染めつつも、/ 『気恥ずかしさを悟られないように / 体を寄せて』、/ 『密着したまま / こちらを見上げて』 / 頬を緩めた。」
の6文節。
そのうち、A『気恥ずかしさを悟られないように』B『密着したまま』の二つは従属節、その他の節は主節だ。
Aは『体を寄せて』を、Bは『こちらを見上げて』を副詞的に修飾している。(副詞=用言=述語を修飾する言葉)
この文の主節は四つ『染めつつも』『体を寄せて』『こちらを見上げて』『頬を緩めた』だけど、四つともが等位接続で結ばれており、対等な関係にある。
このように主節が複数ある文を「重文」と言い、主節と従属節がある文を「複文」という。
つまり、この文章は重文であり複文でもあるわけだ。ちなみに、主節が複数あっても一文として数えることが出来る。
この文章は相当長い。長く感じた原因は文節がいくつも重なっているからだ。それでも論理が混乱しないのは、主語が統一されているからである。
つまり、こういうことだ。一文の間で主語があっちらほっちら移り変わっている場合は、これを分かりやすく書き直すか、文節を文に分解するか、をする必要がある。
女「うん?用は述語ごとに一つの文節に区切られるのかな?」
男「まあ、その解釈もあながち間違ってはいない。用は文章をごちゃごちゃにしなかったらいいんだ」
女「うーむ、最後に来て投げやりな」
男「一文の内の文節の数に気をつけましょう、ということさ」