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パラレル恐怖症

作者: たぬ吉

 女性恐怖症の俺が、思いもよらず恋をした。

 6月17日。興味もないのに今日も野球をドームで観戦。彼女に会うためだ。

「ここ、空いてますか?」

 来た! これで何度目だろうか。彼女は決まってこの席に来る。

「あ、はい。空いてます」

 声がかすれない様、必死に平静を保ちつつ答える。

 俺と同じで大学生だろうか。ショートボブに大きな瞳、笑うとうっすら八重歯をのぞかせる。デニムのワンピースという、いかにも夏らしい服が似合っている。いや、彼女が着れば何でも似合うだろう。

 彼女のことは、名前はもちろんほかのことについても一切知らない。知っているのはかわいらしい外見だけ。それで好きになるなんて。まさか自分がこんなにも面食いだとは思っていなかった。

 周囲が歓声に包まれる。だが、そんなことはどうでも良い。試合の結果はどうでもいいのだ。俺は、自分と彼女がほかの観客とは別の世界、別の次元にいる感覚に陥った。

 違う。

 陥っているのはきっと俺だけだろう。試合よりも彼女のことだけを見ていたかった。もちろん、そんなことはできない。隣の席にいられるだけで満足。それ以上を望んではいけない。

 それも違う。

 それで幸せ? ウソをつけ。怖いだけだろう。俺というお前はただ怖いだけだろう。女性が怖いという隠れ蓑をまとった、臆病者。本当にそれ以上を望んでいないのか?

 彼女を『彼女』にしたくないのか?

 隣をチラッと見ると、ペットボトルでお茶を飲んでいた。飲むたびに動く白い喉に自然と目が奪われる。

「暑いですね」

 不意に彼女が話しかけてきた。

「そうですね」

 パニック。俺はいつの間にか彼女のほうを向いていた。喉を見て呆けている場合じゃない。しかし、俺の中でどこかが何かを一周したのか、妙に肝が据わった。あれ? 一周したらまた元通りパニックじゃね? 

 そんな細かいことはどうでも良い。考える前に、喋れ。

「あの……」

「いつもこの席でお会いしますね」

 先制されてしまった。しかもこの先制攻撃は会心の一撃でもあり痛恨の一撃でもある。彼女から放たれるものはどんなものでも倍になる。

 周囲がまた歓声に包まれた。ウルサイけれど耳には入らない。体はもう、完全に彼女のほうを向いていた。彼女もこちらを向いて何かを話しているが、それさえ耳に入らない。

 刹那、頭に激しい痛みが走った。何かに殴られたような痛みだ。そして俺は崩れ、彼女ではなくドームの天井を見ていた。

 視界が狭く暗くなり、明るくなり、白くなり、色がなくなる。

 そして。


 携帯電話のアラームで目を覚ました。

 アラームを止め、開いた液晶に映る時間を見ると7時半。大学の講義が1時間目からあるときはこの時間に起きなければならない。一人暮らしだから朝ごはんも自分で作らなければならない。

 トースターでパンを焼き、コーヒーを入れる。朝はこれに限る。テレビをつけるといつものニュース番組が流れた。

「次は、カウントダウン占いです」

 6月10日。

 またこの日に戻ってきた。何度目だろうか。でも今回は進展があった。今度こそ勝負だ。自分にウソをつくのはもう疲れたとか、そんなかっこいいものではない。見込みがある。

 もしかしたら、いや、違う。絶対に彼女も……。

「よし!」

 準備を済ませて大学へと向かった。途中、鼻が虫に刺されていることに気がついた。

 講義が始まっても、もちろんそれどころではない。学食で友人と昼を食べていても、学食ではないほかの場所にワープしてしまう。未来は希望に満ちている。思考は彼女で溢れている。


 何度目かの6月17日。俺はドームに来ていた。この試合も今日でおしまい。試合内容なんて一度も最後まで見たことがない。そういえば、一番最初の6月17日にどうしてこのドームで野球を見ようと思ったのだろう。覚えていない。今となっては遠い過去でもあり、現在でもある。

 そして今日、俺は未来へ行く。6月18日へ行くのではない。未来へ行くのだ。

 相変わらず試合は全く見ていない。彼女が来るのをひたすら待つ。額の汗が頬を伝った。

「ここ、空いてますか?」

 見慣れた姿の、でも、見飽きることのない彼女がやってきた。

「空いてます!」

 俺は彼女へ平行に向いてハッキリと答えた。ちょっと力みすぎだぞ、俺。

 案の定、彼女は今まで見せたことのないキョトンとした表情だ。これではいかん。待て。まだだ。何事も順序が大切だ。

「あの、どこかでお会いしませんでしたか?」

 いきなりストレートを放ってしまった。これでは変態だ。不審者だ。一昔前のナンパじゃないか。

 もし俺の予想と違っていたら……。

 彼女も俺と同じように、何度もこの日を繰り返していたら。

 前回、彼女は最後に言った。いつもこの席で会うと。この席以外での面識はないはずだ。俺の勝算はそこだった。嫌ならここには来ないだろう。

「はい。何度もこの日に、この席で」

 やっぱり。胸をなでおろした。ストレートも良いもんだ。

 いつものように観客が歓声をあげた。もちろん、この歓声は俺に対して「一歩近づいた、おめでとう!」という祝福の意味は含んでいない。試合に対してだ。問題はこの次。激しい頭痛だ。

 病院で受けた健康診断では何も異常が見られなかった。急性ということになるのだろうか。

 来る!

 そう思って目をつぶった次の瞬間、「ごめんなさい!」と言って彼女は俺の手首をつかむと、強引に引き寄せた。

 後ろで太鼓を叩くような音がした。振り返ると、野球のボールが転がっていた。

「早くにこうすればよかったのだけれど、私、その……男の人、怖くて」

 掴んだ手首をパッと手を離した彼女の大きな瞳は潤んでた。

「でも、好きになった人が死ぬのはもう、見たくないから」

 今日、このドームで一番のホームランを見た。というより、聞いた。

「俺も」

「はい?」

「俺も女の人、怖いんです」

 俺たちは一瞬の静寂の後、笑った。このとき、俺と彼女は間違いなく隔離された世界にいた。俺だけではなく、二人で隔離された世界にいた。

 観客は歓声をあげた。


 こうして、女性恐怖症の俺に男性恐怖症の彼女ができた。

 あれ? これ、本当に恐怖症?


「今回は鼻が虫に刺されていますよ」

 野球の試合後、予約していたレストランで一緒に遅い夕飯を食べているとき、彼女が微笑みながら言った。

 やっぱり彼女は美しい。

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