グレープフルーツ
月も星もない暗い夜の日のことだった。
今、目の前にある大きな湖は、暗闇の中で獲物を待っている怪物のような佇まいをしている。
俺が住んでいるこの余呉という街にある余呉湖は、およそ2時間くらい歩けば一周することができる比較的小ぶりな湖である。それでも夜になって湖を見渡してみると、街のかすかな灯り以外は何も湖を照らすものはなく、周囲の山々と同化して大きな穴のように見える。俺は何か考え事をしたり物思いに耽りたいとき、ふとこの湖のほとりでぼーっとするのが好きだ。しかし今日はその衝動がこんな真夜中に来てしまった。雨も少しばかり降っている。
余呉湖のちょうど半周地点、湖の南側から北側を望むこの場所が一番のお気に入りだったのだが、俺がそこに着いた時すでに先客がいた。
「誰だ?こんな真夜中に・・・・・・」ふと良からぬ考えがよぎったが、すぐにそっくりそのままその言葉が自分に返ってくるのを察知し、考えることをやめた。おそるおそるその人物に近づくと、どうやら見覚えのある顔だった。
「朝?」
「・・・・・・?」
「覚えてない?中学の。真宏。友山真宏」
「ま、とりあえず入ってよ」
「お邪魔しまーす」
バカでかい俺の家に連れてこられたのは、矢本朝という青年だった。朝は中学の時同じクラスになったことがある同級生だったが、ある日学校に来なくなって以降その姿を見ていなかった。聞くところによると市内の高校に進学したそうだが、その後は詳しく知らない。中学の時はそれなりに喋っていた記憶があるものの、大人になって話すのは初めてだ。
「風呂入る?お互いビチョビチョだな」
「小雨降ってたから・・・。傘も差してなかったし。悪いけど借りていい?」
「ほい。風呂沸かすね」
結構図太い奴だなと内心思いつつ、そういえば昔もこんな奴だったかなとふと思い出し、俺たちはそれぞれ風呂に入った。
「ありがとねぇ。気持ちよかったぁ」
俺は適当に返事しつつ、湖からの帰りに聞けなかったことを、タイミングを見計らって聞いてみた。
「そういえばさ、あそこで何してたの?」
朝は一瞬黙る素振りを見せたが、すぐ口を開けて言った。「死のうとしてたよ」
まぁあの時間にあんな所を出歩いている時点でそんな事だろうとは思っていた。朝の希死念慮は、実は今日に限った話ではなく、中学の時も未遂っぽい事をして教室を騒がしていたことをかろうじて覚えている。あの時も何食わぬ顔で死のうとして、一連の出来事が終わってケロッとしたかと思ったら、いつの間にか学校に来なくなっていたのだ。俺たちの間に若干気まずい空気が流れた後で、朝が口を開いた。
「あーあ、また死にそびれちゃったなぁ・・・・・・」
何回も同じことをやってきた奴の口ぶりだった。俺は若干朝の態度に辟易しつつ、こう提案した。
「今日はもう、うちに泊まったら?俺んちひとりだし、自分で言うのもなんだけど家広すぎて持て余してるからさ」
「こんな大きな家なのに一人暮らしなの?」
「ああ」
「親さんは?」
「・・・・・・先月母親が死んだ。じいちゃんばあちゃんももう死んでるし、父親は昔離婚してる」
「あらま・・・」
俺は少し意地悪だ。自分が世界で一番不幸だと思っている奴を見ると、同じ土俵に立って戦いたくなる。俺たちが感じている不幸なんて、人と比べるべきものではないことは承知だが、きっと誰も大したことはないのだ。どこにでもある、ありきたりな不幸。案の定朝は何を言えばいいかわからず、困った様子だった。
「おれさぁ、ゲイなんだよね」唐突に朝が言った。
「だからやっぱり泊めるのは止めといた方がいいと思うよ」
「・・・・・・」俺がしばらく黙っていると、何を勘違いしたのか、また朝が言った。
「あぁ大丈夫!真宏は全ッ然タイプじゃないから!!」
「何も言ってねーだろ」
正直それを言ってくれて助かった。瞬間、俺にも返すべき言葉が思い浮かばなかったからだ。
朝が畳の部屋にある仏壇を不思議そうに見ている。おそらく仏壇の真ん中に十字架のネックレスが飾ってあるからだろう。戒名の書かれた二つの位牌に挟まれて、居場所がなさそうに吊るされている銀色の十字架はたしかにどこか奇妙な風貌をしている。
「それ、ばぁちゃんとじいちゃんの仏壇だけど母さんのも兼ねてるんだ。母さんはクリスチャンだったから仏壇に十字架を同居させてもらってる」
朝は俺の注釈に頷きもせず、ただじっと仏壇を見ている。
「真宏は?」
「ん?」
「真宏は何か信じてるの?」
「ああ、俺も一応クリスチャンだよ」
一応ってなんだよ、と俺は自分で思った。
「母さんさ、精神病だったんだよね。でも最近は快方に向かってた。先月の日曜日、久しぶりに教会に出かけてくるって言ったっきり帰ってこなかった。次の日の朝、あの湖に浮いてたらしい。他殺の線はないけど、自殺か事故かまでは分かんないんだって。その十字架のネックレスはそん時握ってたやつ」
「そっか......」朝はまた気まずそうに答えた。
これから自殺しようとしてる奴に向けて死んだ人間の話をするのは心理学的にどのように作用するのだろう。俺は別に自分の境遇を話したかったわけでも、朝の自殺を止めたかったわけでもないのに、なぜ朝を自分の家に連れてきて風呂に入れ今こうしてこんな話をしてるんだろう。つくづく人間は勢いと場当たり的な適当さで生きているものだなと感じた。
「お前、バイなの?」
瞬間、冷や汗が全身に流れる。
前も別の同級生に同じように疑われたことがあった。その時はそいつがLINEでエロ画像を送りつけてきて、オレが丸一日既読をつけなかったから疑われた。オレにとって、みんながエロ画像と呼んでいるものはグロ画像でしかなかった。自分ではバレないようにしているつもりでも、どこかでボロが出てしまう。オレは正直な人間なのだ。その日も好きな人が目の前にいて、それでいて手を触ってもいい空気だったから少し触っただけなのに。
ごめん、ごめん。ごめんなさい。不愉快だったんなら謝ります。本当にごめんなさい。でも残念、オレはバイじゃなくてゲイでした。お前にとってオレはもっと深刻です。引きつった笑い。中身のない会話。そして一生思い出すだろうと、あの瞬間思った、あの情景。五年経った今でもまだ、それを自分で証明している。
⋯⋯悪夢だった。毎日悪夢。もはや悪夢が現実を見ているのかとすら思えてくる。
朝起きると既に真宏はいなかった。真宏は今大学4年生で、近所のキリスト教系の大学に通っているらしい。ソツギョウロンブンがうんたらかんたらと言ってたな。今日は夕方まで帰ってこないらしく、飯は冷蔵庫を漁って勝手に食べていいとの言伝を得ている。
暇なので真宏の部屋を散策する。どうでもいい話だが、真宏は多分ノンケだ。ゲイは大体同じゲイが分かる(つもりでいる)。真宏にはそういう執着が全く見られない。一人暮らしだというのに部屋にそれらしきグッズや物は見当たらず、おそらく性欲が薄いかデジタルで完結してるのだろうとオレは勝手に推測している。本棚を見てみると最近読んだであろう小説が縦に積まれている。遠藤周作、アーサー・C・クラーク、アルベール・カミュ・・・・・・はっしょくヨハネ?まぁ色々と読んでるみたいだ。
昨日は色々あったなと振り返る。まぁ本気で死ぬ気は毎回ないけど、その時その時の衝動みたいなものを信じて色々試すわけだが、背後に見覚えのない顔があった時は本気でビックリした。オレは真宏のことは正直よく覚えていない。喋ったことはあったと思うが、オレは基本誰とも無感情で当たり障りのない会話をすることが多かったので記憶にない。真宏がなぜここまでしてくれるのか分からない。オレが死のうとしていた湖で、真宏の母親は死んだ。オレの行動は真宏にとって死者への冒涜以外の何物でもない。それなのになぜ真宏はオレを、あの何とも言えない押し黙った顔で見るのだろう。
今日も色々な死に方を考える。オレは高校を卒業して以降、あの日のことを振り返り、いろいろ生き方を考えてみたが、どれも意味のないことを悟った。この世界は不条理だ。望んでゲイに生まれてきたわけじゃないのに、自分は生まれ持った自分のまま一生生きていかなくてはいけない。仕事も長くは続かず、日々にイライラしてばかり。今度の会社は怒鳴って辞めてきてしまった。オレは絶望的に生きるのに向いていない。生まれてこなければよかった。生きるのをやめたいのに、やめる方法は痛そうなものばかり。死にたいというより、存在ごとオレは消えてしまいたいのだ。
死に方を探しながら色々と散歩してみたが、結局行き着いたのは見覚えのあるいつものアパートだ。
「・・・・・・今日も?最近来すぎじゃない?」
「いいから入れて」
行為の時にしか、生きている気がしない。寂しい生き物。それをするだけで何も考えずに済めばいいのに。どうして人間はこんなに無駄な知能を持ってしまったのだ?身体は生の絶頂を感じながら、精神は未だ死への誘惑を受けている。叫びながら、死んでいる。分裂する自分。引き裂かれる心。
「ただいま〜」真宏が帰ってきた。
真宏は一瞬オレのスニーカーを見て「今日外出てたの?」と聞いてきた。「うん」と答えると、一瞬黙った後にこう切り出してきた。
「明日暇ならさ、大学一緒に行ってみない?」
「は?なんで??」
「明日チャペルアワーっていう⋯まぁキリスト教の礼拝があるんだけど、俺神学部だから月1で出ないといけないんだよ。付き合ってくんない?」
答えになっていない返答をされた。チャペルアワーとやらに真宏が出席しなくてはいけないことと、オレがそれに付き合うことには何の関連性もない。高卒のオレだってそのくらいは分かる。でも真宏のことだから、これは何か意図を持って誘っているんだろう。もう少し話を聞いてみる。
「でもオレ、クリスチャンじゃねーよ?」
「ああ、全然大丈夫大丈夫。座って話聞いてるだけでいいし、礼拝だけじゃなくて大学周りちょっと観光しよ。美味いラーメン屋もあるし!奢るよ?」
「・・・・・・ラーメンは食いたい」
「よし!決まりな!」
こうしてオレたちは次の日、真宏が通っている大学に二人で行くこととなった。
「ほぇ~人いっぱいだなぁ」
大学というものに行ったことがなかったから知らなかったが、キャンパス内は基本誰でも入れるらしい。真宏の通っている大学は歴史のある私立大学で、高校生や海外ツアーで来た外国人など、学生以外の様々な人が行き来している。自分が普段関わってきた世界とは別世界のようで少し面食らっている。
「ここが礼拝堂。古臭いでしょ」
キャンパス内の中心部に佇んでいるこの赤レンガの礼拝堂は建学当時からあるものらしく、キリスト教の建物だというのに十字架もなく一見他の建物と区別がつかない。それでも中に入ってみると荘厳という他なく、神を信じないオレでも気分は確かに落ち着く気がする。
「先生、こんにちは。友達連れてきました」
「おっ友山さんこんにちは。(朝を見ながら)初めまして、お名前は何とおっしゃるんですか?」
「はじめまして。矢本朝と言います。⋯クリスチャンではないんですが、礼拝参加させてもらいます」
「ええ、ぜひ雰囲気だけでも楽しんでいってください。じゃあ友山さん、また後でね」
チャペルアワーの牧師は大学の先生も兼ねているらしく、あの人は真宏と親しい様子だ。オレはキリスト教の牧師に会ったらぜひ聞いてみたいことがあったが、それはずっと心に秘めている。そんなこんなで礼拝が始まった。礼拝は賛美歌から始まり、さっきの牧師さんが説教をし、その後、使徒信条というものを読み上げる。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主 イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ死にて葬られ、
陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、
永遠の生命を信ず。
アーメン」
礼拝堂の中にいるオレ以外の全員が頭を垂れてお祈りをしている。牧師さんはもちろん、オレの斜め前にいるおばあさんも、オレの少し後ろにいる若い男も、みんな確信を持った顔で祈っている。だがオレの隣にいる男は――――――。
やがて礼拝が終わり、何やら雑談コーナーみたいなフェーズに入っている。牧師さんがマイクを持ってオレの方を見ながら言った。
「今日は礼拝に初めていらっしゃっている方がいるみたいなので、少し感想をいただきたいと思います」
オレはチャンスだと思ったが、横に座っていた真宏はどうして今日に限ってと思ってそうな焦った顔をしている。オレはマイクをもらって牧師さんに聞いてみた。
「神様は、ゲイも救ってくださいますか」
一瞬、礼拝堂内の空気が凍った。その一瞬の感覚だけでこの人たちは普段オレたちのことを思い浮かべもしないんだろうなということが分かる。ただ、牧師さんと真宏だけは真剣な顔でこちらを見つめていた。
「イエス・キリストを信じる者は誰でも救われます」牧師さんは迷いなく言った。
「それは違うと思います」オレは返した。
「どうして?」
「聖書にはそう書いていないからです。そもそも創世記で神は男と女を造り、二人は結ばれ一体となることが良しとされています。生めよ、増えよ、地に満ちよ、そこに異性愛以外の愛は存在しません。そしてレビ記18章22節『女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである』、ローマ書1章26節『神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた⋯男同士で恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受ける』、コリント一6章9節『思い違いをしてはいけない⋯男色をする者は決して神の国を受け継ぐことはできない』――パッと思い浮かぶだけでもこれだけの同性愛を否定する証拠が聖書にはたくさんあります。⋯⋯だけどどうしてそんなことをオレたちだけ言われなくちゃいけないんですか?あなたたちが清々しい思いで祈ってるときも、オレたちはみんな苦しめられてる。そう望んで生まれてきたわけじゃないのに、悔い改めなんてしようがないじゃないか!」
オレはキリスト教が大嫌いだった。いや、大嫌いになったのだ。
中学1年生の時、あの時はまだはっきり自分が同性を好きだとは自覚していなかった。クラスの同性に欲情を抱くのは一時的なもので、いつか自分は女性が心から好きになる時が来るんだろうと思っていた。
同じ時期、近所の教会のイベントに誘われて教会に通いだした。神を信じることにはピンときていなかったが、オレは教会で読む聖書の物語が好きだった。特にお気に入りはヨブ記で、この話を読んでいると多少現実で理不尽なことがあっても耐えられるような気がしていた。昔から自分より不幸な者を見ると安心するのだ。ある日教会に行った時、ふと好奇心で牧師に同性愛のことを聞いた。もちろん友達がそれに悩んでいると嘘をついて。その時の牧師ははっきり同性愛は罪だと言った。オレが悔しかったのは、牧師は友達を全否定するわけでもなく、理解はするが肯定はできないという立場を取り、自分の地位を汚さないでいたことだ。右手で全ての人の救いを説きながら、左手で今そこに生きている人を平気で十字架に付ける。人を裁くなという言葉が聖書のどこに書いてあるかも知らないような偽善者どもが、教会の中にはたくさんいるのだ。オレはその日あまりにも、あまりにも悲しくなった。教会には二度と行かなかった。
気が付くと真宏が目の前に立っていた。真宏はいきなりオレの服の襟を掴むと、強引にオレを礼拝堂の外に連れ出した。
「痛い!痛いって真宏!」
ドンとオレは突き出され、その勢いで地面に倒れた。その時ずっと下を向いていた真宏の顔が見えた。
真宏は泣いていた。涙で顔が分からなくなるくらいに、ぐちゃぐちゃな顔でオレを見ていた。オレは言葉が見つからなかった。さっきまであんなに饒舌に喋っていたのに、真宏にかける言葉は何ひとつ見つからなかった。
少し落ち着いてオレは真宏に頭を冷やすように促し、真宏は向かいの建物で飲み物を買ってくると言い残してオレの前から立ち去った。オレはその間にすぐさま礼拝堂に戻り、先刻の無礼について牧師さんに心から謝罪した。心に思っていることと口に出して人に伝えること、この境界線を履き違えては絶対にならない。オレのさっきの態度はものすごく失礼だった。オレの謝罪を聞いて牧師さんは笑いながら言った。
「ウチの神学部の学生でもあんなに聖書のつまずきについて自分事として考えてる人はそうそういないよ」
「つまずき、ですか」
「そう、つまずき。イエス様は『つまずかない人は幸いである』と言ってるけど、ほとんどの場合キリスト教につまずかない人というのはそこまで深刻に神様について考えたことがない人なんだ。別にそれをダメだって言ってるわけじゃない。イエス様の言う通り、つまずきを通らないであの方を素直に信じることができるなら、こんなに幸せなことはないんだ。でもそんな人ばっかりじゃない。君にとってはそれはつまずきなんだ。それは避けようと思っても避けられない。自分と世界と、そして神のことを少しでも正面を向いて考えるなら必ず目の前に現れてくる課題。それがつまずきなんだ」
「オレみたいな人はどうすればいいんですか。どうやってつまずきを乗り越えれば・・・・・・」
「⋯⋯申し訳ないが、それについて私が何か言える立場じゃない。私は君が抱えている問題についてたとえば解釈学的見地から諭すこともできるけど、多分それは君の人生に何の利益にもならない。つまずきは本当に自分と神様との、生き方の問題なんだ。ただこれだけは言わせてほしい。神様は心から君を愛している。天の国はあなたがたのあいだにある。そこからどう生きるかは、自分で証ししていくしかないんだ」
オレはもっと早くこの牧師さんに出会っていれば、何か変わったのだろうか。真宏を泣かせずに済んだのだろうか。それでもこれが俺の人生なんであって、今さらどうすることもできない。オレは既につまずいてしまったんだ。オレは牧師さんに一礼をして、その場を去った。
その時、オレに一人の男が近づいてきた。
ガチャン。
自販機から缶ジュースを取り出した俺は、朝に飲み物を聞いておけばよかったと後悔し、再度小銭を入れ、今度は缶コーヒーのボタンを押した。缶コーヒーを自販機から取り出していると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「真宏〜おはよっ!」
戸川仁。中学の時の同級生で、俺と同じこの大学に在籍している。中学では俺と仁は別のクラスで全く喋ったことがなかったのだが、大学では授業が被ることが多く同中ということもあって仲良くなった。ともすれば広く浅くなりがちな大学の人間関係において、こうやって気兼ねなく喋ることができる友達の存在は有り難い。特に仁は誰にでも気さくに話しかけるタイプのため、俺以外にも友人は多いようだ。
「おはよ、仁。今日授業だっけ?」
「いんやサークルの集まりで寄っただけ。そういえばさ、今高校ん時の同級生に会ってさ、すんごい懐かしかった!」
「⋯⋯朝のことか?」
「え!?何で真宏知ってんの?高校違うじゃん!」
「いや、中学ん時同じ学年にいたろ⋯。俺、朝とは同じクラスだったし。あいつ不登校ぎみだったからあんま学校にいなかったけどさ」
「そうだったっけ?ま、ウチの中学バカみたいに人多かったもんな。覚えてねぇや」
「朝となんか喋ったの?俺、実は今朝と暮らしててさ、今日も大学朝と来たんだよね」
「は!?ど、ど、ど、どういう関係性!?お前話飛躍しすぎだろ」
「色々あったんだよ。一から話すのメンドいからまた今度話すわ。で、何か喋った?」
「いや、それがさ⋯なんか俺の顔見た瞬間逃げられたんだよね」
「は?なんで」
「わかんない⋯高校ん時割と喋ってたんだけどな。まぁ途中からなんか避けられてるようには感じてたけど」
俺は何か嫌な予感がした。仁は普段何も考えてなさそうで、実は結構人の気持ちには敏感な方だ。仁が朝に避けられていると感じてたということは、多分本当に避けてたんだろう。もう少し深掘りして聞いてみる。
「避けられるようになった原因とか心当たりあんの?」
「うーーん⋯⋯強いて言うなら英語の授業ん時かな。何かの話の流れでふざけて『バイかよお前!』的なことをあいつに言ったんだよ。そしたらヘラヘラ笑ってはいたんだけど、ちょっと怒ってるような⋯悲しんでるような感じがして、でそれ以降あんまり口聞いてもらえなくなったんだよね。もしあの時嫌な気持ちにしたなら謝りたいし、朝に聞いといてくんない?」
⋯⋯最悪だ。仁は人の気持ちは読めるが空気は読めない。頭で思ったことは全部口に出して、後で反省するタイプの人間だ。悪い奴じゃないんだけど、誤解されやすい。もしかしたら、朝にとってこれが何かの呪いになっているのかもしれない。
「朝どこに行ったか分かる?」
「多分駅の方じゃねえかな」
「わかった。ちょっと追いかけてくるわ」
「おう⋯⋯じゃあな」
仁に手をあげながら、俺は駅のホームへ向かった。
駅に着き、ホームへの階段を下ると、ホームの白い壁と一体化したベンチに朝が座っていた。俺は定期券を持っていたが、朝はICOCAはおろかお金すら持っていなかったので、大学に行く前に俺のICOCAを貸した。そのICOCAで入場していたのだろう。おそらく残高がもうないので、後で乗り越し精算をしなければならない。
「朝!勝手にいなくなるな!勝手に俺のICOCAを使うな!」
「はははごめんごめん。ちゃんと真宏が来るまで待ってるつもりだったよ」
「連絡なしにホームに待ってても分かるわけないだろうが!お前スマホも持ってないのにさ」
「ここの駅、伊吹山見えていい景色だね。このベンチで一日過ごせそう」
朝はいつも通りと言えばいつも通り、ちゃらんぽらんな顔で飄々とした態度を取っている。本当に仁と会ったのだろうか。俺の予想が正しければ⋯⋯。意を決して聞いてみる。
「朝⋯お前仁とさぁ、昔なんかあった?」
朝は貼り付けたような笑顔をやめ、少し諦めたような顔で言った。
「あぁ⋯仁と話したの?どこまで話したのかなぁ。⋯⋯オレ、仁がさ」
ビービービー!ビービービー!特徴的な接近メロディーが流れる。朝は何か言いかけたが、そこでやめてしまった。電車が来るまで俺たちの間には沈黙が流れた。気まずさを紛らわせようと電車の方角を見たが、電車はなかなか来なかった。
俺たちは大学の帰り、長浜のラーメン屋に行く約束をしていた。大学の最寄り駅から長浜までは電車でたった3分のため、電車に乗っても俺たちは座席に座らずに、つり革を持ってドアの前に並んだ。
長浜の田園風景が左から右へと流れていく。しばらくボーっとしていると朝が口を開いた。
「現実感が⋯⋯なくてさ。オレにとってあいつは、ずっと呪いみたいなもんだった。何も話せなかった。多分、今から過去に戻っても、何も話さないと思う」
俺は何も返さなかった。返せなかったんじゃない。今は黙っておくべきだと思ったからだ。少し間を置いて再び朝が俺に話した。
「真宏⋯⋯お前本当に神なんて信じてるの。教会で皆が祈ってる時、真宏だけが辛そうな顔してた。神様がいるなら、どうして真宏のお母さんは教会の帰り道に亡くなってしまったんだ?どうして⋯⋯。俺だってそうだ。俺は今さら神なんて信じちゃいないが、キリスト教の教えが俺を否定していなかったら俺はずっと前に信じていたかもしれない。なあ、どうして、どうして神は⋯⋯」
朝の問いかけに、俺は何も答えられなかった。その問いかけは、俺の人生そのものだったからだ。
「グアム楽しかったな......おい、聞いてる?」
「え?あぁ......」
2泊3日の修学旅行を終え、空港の搭乗口に並んで立っている。スーツケースを椅子代わりに、各々仲がいい人たちと喋っている。
ふと耳を澄ますと、余程話が盛り上がっているのか、別のグループで仁が満面の笑みを浮かべながら話す。
「おれ、3日間の中で今が一番楽しいかも」
オレはその言葉が自分と彼の3日間を意味付けたことを深く反芻し、同時に言いようもない感情を覚えた。
帰宅から3日後、学年集会があった。担任の先生が1人ずつ修学旅行の総括を述べる。冬の体育館、三角座りをしながら黙って聞いていた。オレの担任の先生が言った。
「私は修学旅行中に聞いたある生徒の言葉が忘れられません。その子言ったんです。『今が3日間で一番楽しい』って。グアムで様々なことを経験したと思いましたが、皆さんは何よりも友達と過ごしたかけがえのない思い出を、この先大人になっても忘れないでください」
素晴らしい総括だった。わざわざ反芻されたその言葉は、死にかけだったオレの心にトドメを刺した。先生、あなたが望んだようにオレはこの光景が忘れられません。オレが人生の中で最も焼き焦げた瞬間、その瞬間を差し置いて、彼が別の瞬間を最も幸せだと言ったこと、オレはこの事実に吐きそうになりました。なぜ神は、いつも幸せとともに苦しみを与え給うのか。取られた私に対して、まだ何か捨てろと仰るのか。⋯⋯
母は父と別れたあと、病んでしまった。
学校から帰ってきて、すぐ母のためのご飯を作る。サッカーがしたかったが、部活に入る暇なんてなかった。
大学生になって、母は少しずつ調子が良くなった。精神科のお医者さんも、もう少ししたら病院に来なくてもいいと言ってくれた。俺はお祝いに十字架のネックレスをプレゼントした。母はとても喜んでくれた。
−−−−−−−−−−次の日、母は死んだ。精神科に通いだして以降長らく通っていなかった教会に、その日母は久しぶりに向かった。その帰りのことだった。
湖に死体が浮かんでいた。警察によると事故か自殺らしいが、最終的な断定はできなかったらしい。俺は母の精神が回復傾向にあったこと、教会の人たちは教会で特におかしな様子はなかったことを警察に伝えたが、それらは死因を特定する根本的な証拠にはなり得なかった。ただはっきりとした事実は、湖の上に浮かんだ母が右手に十字架のネックレスを握っていたことだけである。自殺への許しを願ってのことなのか、それとも単にネックレスを落としかけたところを転げ落ちたのか、そんなことはどうでもよかった。俺がネックレスをあげなければ、母は死ななかったのだろうか?母が病んでからもう8年が経つ。俺はその間必死で母を支えてきたつもりだ。その仕打ちがこれか。
神さま、なぜあなたは私をこれ以上苦しめるのか。このネックレスに何の意味があったのか。何の、意味が。もうこの世に父も母もいない。そして神すらもいなかった。そんな世界を、どう生きていけば⋯⋯
ラーメンを食べずに帰ったあの日から、真宏はしばらく大学に行けなくなった。これまで抑えてきた感情が言いようもない疲れとなって全身に押し寄せ、もはやベッドから動くことができなくなっていた。スマホには仁からのラインが山のように届いている。ベッドからちょうど仏壇にある十字架のネックレスが見える。真宏は動けなくなってから2週間、あの垣間見える銀色のシンボルに果てしない憎悪の感情と、そして恐怖を感じていた。
大学に行けなくなって1ヶ月が経とうとしていた。この頃になって、真宏はようやく家の周辺を散歩できるくらいまでには回復した。家からは青々とした余呉湖が見える。今年は暖冬でまだ雪は降っていなかったが、冬の冷たい空気は、どこかこの大きな湖に白いベールを被せているようだった。
真宏はその日の夕方、湖の周りを歩くことにした。大学も冬季休暇に入り、今日はちょうどクリスマスイブだった。朝に出会ったあの夜の散歩や、大学をサボってした最近の散歩と違って、この罪悪感のない散歩は真宏にとって久しぶりの感覚だった。
真宏の家から湖を一周するには、左周りをするか右周りをするかどちらかを選ばなければいけない。真宏は散歩する時いつも「どちらにしようかな天の神様の言うとおり」で道を決める癖がある。でもある日、これをすると絶対に右になってしまうことに気づき、毎回少し文言を変えることにしていた。今日は「わたしはどちらにあるいていくべきですかてんのかみさまのいうとおり」にした。右を指した。でも今日の真宏はなぜか左に行きたい衝動を抑えられなくなり、この時、真宏ははじめてこのルールに背いた。別に左に行こうが右に行こうが大して変わるわけじゃない。こんなこと、神に聞くほどのことでもないのだ、と真宏は心の中で呟いた。
余呉湖の南側、湖全体が一望できる場所。ここはちょうど母の死体が浮かんでいた場所だった。思い出したくもない呪いの場所であるはずなのに、真宏はここに来る度、なぜかふるさとのような不思議な安心感を覚えた。しかし、今日も先客がいた。その先客はちょうどここを離れようとしているところだった。
「朝⋯」
「⋯おぉ、元気だった?」
「いや、実はあまり元気じゃない⋯⋯」
「そっか、まぁオレもだ」
朝は振り返って、すべてを諦めたような、気だるげな目で湖を見つめている。真宏もまた物憂げな様子だった。二人は疲れていた。このとき二人は湖に浮かんでいる葉っぱを見て、心の底からああなりたいと思った。
ふと湖の方から声が聞こえた。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』
真宏と朝は笑った。笑い飛ばした。二人が疲れているのは誰のせいだと思ってるのか。自分だけが高いところにいて、そのように都合のよい時だけ手を差し伸べるのか。
『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』
共にいたことなんてなかったくせに。二人はいつもひとりだった。寂しかった。ただ手を握ってほしかった。どうして今さらそんなことを言うんだ。
『受けるよりは、与える方が幸いです』
その時、真宏だけがハッとした様子で空を見上げた。真宏は去年読んだ一冊の小説を思い出していた。妻も娘も失った哀れなキリスト者の物語。男は絶望の果てに神を呪うが、生前の娘にもらったグレープフルーツの種を家で育て、物語の最後にそのグレープフルーツからイエス・キリストが出てきて男は回心する。真宏は妙にこの小説の物語に心が惹かれて、作者のサイン会に行った。サイン会で作者に「どうしてグレープフルーツにしたんですか」と聞くと、六十を過ぎているであろう老年の作者は真宏の向こう側を見ながら「イエスはぶどうのイメージですが、家で育てるならグレープフルーツかなと思って」と答えた。真宏はそんな理由かよと内心呆れたが、帰ってからもずっとこのグレープフルーツの意味について考えていた。なぜ娘があげたグレープフルーツから、神様が出てきたのだろう?
真宏の母は使徒言行録のこの言葉が好きだった。「受けるよりは、与える方が幸いです」。母はこの言葉を幼い真宏に教えると同時に、受けるよりも与える人生を実践した。しかし父と離婚して以降、その言葉は実践できなくなっていた。真っ暗な人生のなかで、まだ二十にも満たない息子に与えられるだけの毎日で、本当に情けなく思っていた。幾年が経ったある日、息子が十字架のネックレスをプレゼントしてくれた。息子はもはや、あの神の言葉がなくとも、自分の心から人に与えるようになっていた。母は二十二歳になった息子を見て、夜激しく泣いた。次の日、母は教会に行った帰り、湖のほとりで石につまずいて段差を転げ落ちた。転んだ拍子に十字架が海に投げ出され、母はそれを掴もうと湖に落ちた。母は呼吸が出来なくなっていく苦しみの中で、自分の人生の意味を悟り、十字架を握りながら安らかに私のもとに来たのだ。
ふと俺が横を向くと、朝は静かに涙を流していた。俺はその時、不幸を誇っていた自分の愚かさを知った。朝の方が不幸だったのだ。母を亡くした自分よりも、朝の方が不幸だったのだ。俺は神から母を奪われた。それでも俺はそれを望んでいなかったし、神は俺自身を否定しているわけではなかった。でも朝は違う。朝は神から自分自身を否定されていると感じているのだ。自分はどう足掻いてもそれとして生きていかなければならないのに、神自身が朝を否定する。神が彼に「生まれてこない方がよかった」と言っているのである。そうじゃない。そうじゃないんだよ朝。生まれてこない方がよかった人間なんて、この世に一人もいないんだよ。俺はゆっくり朝の方を向いた。
「俺にとってのグレープフルーツをずっと考えていた。きっとお前のことだったんだ。母さんは『受けるよりも、与える方が幸いです』が口癖だった。でも俺に与えられるものなんて、最初から何一つ無かったんだ。なあ、朝。俺、空っぽだけど、何かお前に渡せるかなあ」
ぱらついていた雨が次第に激しくなってきた。大きな雨粒が三度、俺と朝の頭を横切った気がした。
『真宏、ずっと見てるから』
湖から声がした。最初は気のせいだと思っていたが、だんだんとはっきりとした声で聞こえた。
『真宏、ずっと見てるから』
「⋯⋯そばにいてくれるだけでいい。ただ、そばにいてくれるだけでいいから」朝は涙を隠すように言った。
途方もなく巨大な湖の底は、暗く静かなまま、余呉の街の真ん中に佇んでいる。
俺は朝の手を握った。雨に濡れてとても冷たかった。ずっとずっと握った。思い切り強く握った。すると、朝も少し力を入れて握り返した。
さっきまでの雨が嘘のように晴れ渡っている。俺たちは全身ビショビショになっていたが、不思議と寒さは感じなかった。朝は雨に濡れたことで、普段の気だるい印象の髪型からいい感じの髪型になっていた。俺がそっちのほうがカッコいいよと呟くと、朝は恥ずかしがりつつも呆れながら言った。
「オレ、真宏のこと全くタイプじゃないのね。だから安心してもらっていいよ」
一瞬心の中にハテナが浮かびつつ、すぐにその意味を理解した。笑いながら、俺たちはラーメン屋へと歩き出した。
ふと空を見上げると、雨上がりの空に浮かぶ小さな雲の中に、一筋の虹がかかっていた。




