第9話 言葉の温度
夜の図書館は、息をひそめていた。
昼間の監査の喧騒が嘘のように、空気が透明だ。
私は禁書庫の隣室、小さな閲覧室の灯りを点けた。
机の上にランプを置くと、光が頁に沿って広がる。
夜の紙は昼よりも柔らかい。
音を吸って、静けさを増やす。
扉が二度、控えめに叩かれた。
私は立ち上がり、鍵を外す。
アーヴィンが入ってきた。
外套の肩に夜露の跡。
あの監査のときの制服とは違う、私服だった。
見慣れない姿に、少しだけ戸惑う。
「すまない。呼び出す形になった」
「いえ。私も話がしたかったんです」
彼は頷き、机の前に立った。
いつもより少しだけ近い。
距離の取り方を、慎重に測っているように見える。
「今日の件、ありがとう。助かった」
「職務です」
「それでも、君でなければ守れなかった」
言葉は静かだった。
褒め言葉ではない。
感謝でもなく、確認のような響き。
その静けさの中に、私は少し救われる。
「沈黙は、守れました」
「そうだな。……けれど、沈黙を守るためには、言葉が要る」
「ええ。あなたが昨日そう言いました」
「今夜は、その続きを」
アーヴィンが机の上に便箋を置いた。
白い紙。
中央に薄い折り目だけがある。
「書くより、話す方がいいかもしれない」
「話すことも、私信に含まれます」
「なるほど。ならば――私信の口述だな」
彼の言い方に、思わず笑ってしまった。
笑うと、胸の奥が少し痛む。
笑いの中に、緊張が混ざっていた。
「君は、なぜ沈黙を選んだ?」
「……沈黙の方が、正確だからです」
「正確?」
「言葉は、書いた瞬間に意味を失うことがあります。沈黙なら、少なくとも誤読はされない」
「誤読されない代わりに、理解もされない」
「それでも、伝わるものがあります。温度とか、間とか……」
「つまり、”伝える”のではなく、”在る”のだな」
彼の言葉の拾い方は、いつも的確だ。
まるで紙に罫線を引くように、私の思考を整える。
それが、心地よくもあり、少し怖くもあった。
「沈黙は、あなたに似ています」
「……私に?」
「はい。言葉が少なくて、でも確実に空気を変える」
「空気を変える、か。――それは、良い意味か?」
「たぶん、どちらでもないです」
アーヴィンは短く笑った。
笑い声ではなく、息に近い音。
それだけで、夜の空気が少し暖かくなる。
「君はどうだ。沈黙のままではいられない人に見える」
「ええ。だから書くんです。書かないと、思考がはみ出してしまう」
「それが、”私信”になった」
「はい。沈黙を守るために、書き続ける」
「矛盾しているようで、正しい気がする」
「沈黙を”共有”するには、少しの言葉が要るんです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
まるで告白のようだと思った。
アーヴィンもそれを感じ取ったのか、目を伏せた。
「私信は、続けよう」
「……え?」
「君が沈黙を守るために書くなら、私は言葉の形を保つために書く。それが、おそらく我々の均衡だ」
私はうなずいた。
沈黙が再び部屋を包む。
けれど、今度の沈黙は穏やかだった。
息づかいと紙の擦れる音が、音楽のように並ぶ。
「では――始めようか」
「今夜の”私信”を?」
「ああ。記録のない私信だ」
アーヴィンがペンを取った。
私も同じように手を伸ばす。
インク壺に光が映り、青が黒に溶けていく。
最初の一筆の前に、アーヴィンは軽く息を吸った。その呼気が、紙の上の光をわずかに揺らした。
そのまま、静かに言葉を置くように声を出した。
「君は、何を書く?」
「沈黙の温度を」
「私は、それを読む」
それだけで十分だった。
言葉はなくても、確かにやり取りがあった。
紙の上に落ちる光が、ふたりの呼吸を照らしている。
私はゆっくりと書き出した。
夜の沈黙は、息をしている。
――レティシア
アーヴィンは、紙の余白をわずかにずらし、筆を置いた。
その息に、触れた。
――アーヴィン
それだけだった。
それ以上の説明も、署名もいらなかった。
私たちの文字が並んだ瞬間、空気が微かに揺れた。
印記書ではない。
けれど、確かに”反応”があった。
ランプの光が弱まり、影が重なる。
沈黙が、言葉と同じ温度になった。
次回、最終話「終わらない記録」です。




