第8話 沈黙の監査
再検査命令が下ったのは、風の温室から三日後だった。
王宮監察局の印章付きの文書が、図書館に届いた。
灰色の封筒。封蝋は深紅。
開封の瞬間、墨の匂いよりも先に、空気の温度が変わった。
「”沈黙現象について再調査。関係者全員、同席の上で再確認を行うこと”」
読み上げたメルクの声が低く響く。
いつもなら冗談のひとつも混ぜる人なのに、今日は笑わない。
「つまり、”沈黙”を信用していないということか」
私はメルクの言葉の奥に、冷たいものを感じた。
沈黙の報告は、私とアーヴィンの共同署名で提出した。
公務上、完璧な手順を踏んでいる。
それでも、上層は動いた。
沈黙は”欠陥”に見えるのだろう。
「摂政殿は知っておられるのか?」
「はい。すでに承知しています。私に――”立ち会え”と」
声に出してみても、現実感が薄い。
沈黙を確かめるために人を集めるというのは、あまりに逆説的だった。
再検査当日の朝、禁書庫の扉前は静まり返っていた。
監察官は痩せた中年の男で、無表情のまま書類をめくっている。
制服の色は王宮事務官のものより濃い。
その背筋が、紙よりも真っすぐに見えた。
「これが例の印記書か」
「はい」
「報告には”沈黙継続”とあるが、我々としては、完全な消失を確認する必要がある」
監察官は淡々と告げ、手袋を嵌めた。
隣でアーヴィンが小さくうなずく。
今日は彼も職務服。
昨日までの柔らかさは、きれいに封じられていた。
”政の人”の表情に戻っている。
それが、少しだけ寂しい。
印記書の封印を外し、私はゆっくりと表紙を開いた。
紙は白い。
どこにも、文字の影はない。
風の記録も、あの一瞬の線も、すべて消えていた。
空っぽの白。
それなのに、空気の密度だけが高い。
沈黙は、そこにある。
「反応なし。墨成分の残留もゼロ。――記録します」
私は小声で言い、報告用の板に線を引いた。
ペン先が震える。
緊張ではなく、守りたいものの重さのせいだと思った。
「この”沈黙”は誰の確認で提出された?」
「摂政アーヴィンと、私です」
「なるほど。では……摂政殿、ご確認を」
アーヴィンが一歩前に出る。
ページを見下ろし、しばらく動かない。
沈黙が、さらに沈黙を重ねるようだった。
やがて彼はゆっくりと息を吐く。
「報告に誤りはない。沈黙は続いている」
「では、書面に署名を」
そのとき、風が通った。
小さな風だった。
けれど、机の上の紙束が一枚だけめくれた。
誰も動いていない。
監察官の視線が、紙面に落ちた。
白紙の中央に、淡い灰の線が一本――まるで呼吸の跡のように。
「……これは?」
「埃です」
咄嗟に口を開いたのは、私だった。
指先でそっと払い、封を閉じる。
線はすぐに消えた。
監察官は一瞬だけ私を見たが、何も言わずに頷いた。
「では、再検査終了とする。報告書に記載を」
監察官が出て行くと、禁書庫の空気が一気に軽くなった。
メルクが短く息を吐き、杖を床に打つ。
「心臓に悪いな。……埃、ね」
「埃です」
「そういうことにしておこう」
アーヴィンが私を見た。
いつもの表情に戻っている。
政の顔ではない、私信のときの目だった。
「ありがとう」
「いえ。ただ、職務です」
「君の”職務”は、時々優しすぎる」
彼はそれだけ言うと、扉へ歩いた。
廊下に出る直前、振り返る。
その目が、ほんの少し柔らかくなっていた。
「沈黙を守るには、言葉が要る。――明日、少し話をしよう」
扉が閉まったあと、私は印記書の箱を抱え、
ゆっくりと机の上に戻した。
白紙は何も言わない。
でも、白紙ほど多くのことを語るものもない。
私は小声でつぶやいた。
「埃でも、線でも、かまいません。――沈黙が、動いた証なら」
風が一度だけ、頁を揺らした。
それは、誰にも見えないほど小さな動きだった。
次回は、第9話「言葉の温度」です。




