第5話 私信
夜の図書館は、湿り気を含んでいた。
雨上がりの風が窓枠を撫で、紙の端をわずかに持ち上げる。
禁書庫の扉に鍵をかけ、私は閲覧室へ戻った。机の上には、昼の視察で使った報告書と、白薔薇の花弁が一枚。
挟まずに残しておいた白い呼吸は、光が弱まるたびに色を変えて、まるで誰かの息の名残のようだった。
老司書のメルクは、背もたれ椅子に浅く腰掛け、古い箱を開けていた。木箱の内側には、紙を守るための薄い油紙が敷かれ、その上に同じ寸法の紙束が重ねられている。端に、淡い青線が一本。
「これは?」
「印記書と同時代の付属品だ。簡易記録紙。昔は交渉の場で”反応の残り”を測るのに使っていたらしい。今日、倉庫の隅から出てきた。管理簿に記載がなくてな」
「反応、残ってますか」
「残っているとも。微弱だが、——二本だ」
彼は紙を光に透かした。薄い青が重なり合い、波形が一瞬だけ深くなる。
私は息を潜めた。
「温室のときと、同じ波形」
「だな。……ま、理屈を先に並べるのは好きだが、今夜は違う」
「違う?」
「”制度の外側”で話すべきだという意味だな。ほら、客人だ」
扉が二度、静かに叩かれた。
アーヴィンが入ってきた。雨の余韻を纏った外套を腕に掛けている。昼よりも簡素な装いは、肩の線をやわらげていた。
「夜分に失礼する」
「どうも。禁書庫は閉めました」
「ありがとう。……メルク殿、席を外していただけるか」
「外そう。茶は自分で淹れろよ」
メルクが出て行くと、部屋は一段静かになった。
アーヴィンは机の向こうに立ち、白薔薇の花弁を一瞥してから、私を見た。
「報告の結びを、ここで確かめたい」
「”再反応なし、沈黙の継続”でまとめます。噂は収束します」
「それでいい。……ただ、一つだけ、私事として話しておきたいことがある」
私事。彼の口から出ると、少し重くなる語だ。
私は頷き、椅子に背をつけた。
「例の”仮定から断定”への変換についてだ」
「はい」
「君は、”誰かが仮定を現実だと思った瞬間に反応した”と言ったな」
「言いました」
アーヴィンは一拍だけ視線を落とし、指先で机の木目をなぞった。
声は低く、削った鉛筆の芯のように静かだった。
「その”誰か”の候補に、私を入れておいてほしい」
心臓が、乾いた音を立てた。驚くというより、どこかで予感していた音だ。
「——温室で?」
「いや、印記が現れた朝だ。禁書庫であの文を初めて読んだとき、頭が空白になった。そのあとで、一瞬だけ、ほんの短いあいだ——」
彼は指で、空気の表面をなぞるように動かした。
「”もしこれが起きたら、火消しが早い”と、考えた。その”もし”を、私が”きっと”に変えてしまったのかもしれない」
火のような語が、列を崩さず机上に置かれる。
私は視線を逸らさずに、紙の上の花弁を見た。白は薄暗がりで灰に近く、縁だけが細く明るい。
「意図的ではなかった。公務の計算というより、——反射に近い。言い訳に聞こえるだろうが、言っておきたかった」
「言い訳ではありません」
口から自然に出た。声音が思ったより落ち着いている。
「摂政としてのとっさの反応というなら、理解はできます。……ただ、それで印記が反応した可能性は、あります。”きっと”を――アーヴィン様の期待を、印記書が断定と取ってしまった」
彼は頷いた。
「だからこそ、昨日の”演出”は最低限にした。口づけの代わりに手の甲への礼で済ませ、決定的な図は作らなかった。——あれは、君を守るためでもあり、私自身を罰するためでもあった」
”罰”という言葉は、彼の語彙には似合わないな、と思った。けれど、その語が、今夜は妙にまっすぐ響いた。
私は少しだけ、息を深くした。
「印記書が沈黙した理由を、私は”私信化”だと考えています」
「私信化?」
「公の語で確定される前に、当事者が私的なやりとりに移ると、装置は沈黙する。今日、温室で”礼”の瞬間、記録官のカメラが鳴りました。——でも、あれは公的な記録。私たちのあいだでは、何も”宣言”していない」
「つまり、もう紙が記録を取らなくても、俺たちが覚えているということか」
「……そうです」
アーヴィンの目が、穏やかに細くなる。雨の音が遠い。
彼は静かに椅子を引き、机の反対側に座った。私と同じ高さになる。
「”私信化”を、どう完成させる?」
「簡単です。実際に私信を交わせばいい」
私は便箋を出し、ペンを取った。
この紙は、印記書ではない。呼吸や体温に反応しない。ただの紙だ。
だからこそ、ここに書く文字は、”誰のものでもなく”、私のものになる。
墨を含ませ、短く書く。心臓の拍に合わせ、余計な語を落とす。
書いた文を折り、封はしない。机の中央に置く。
噂の火は、報告で消せます。
私の心は、報告では決めません。
——レティシア
アーヴィンは便箋を取り、目で追い、すぐに戻した。
彼もまた、紙を出した。上質だが飾り気のない、行政の文書用だ。
同じように短く、彼は記した。
制度は、線を引く道具です。
あなたの線引きに、私は従います。
——アーヴィン
二人の紙が、机の上で並んだ。どちらにも名は書いてあるが、署名はなく、印もない。公文ではないからだ。
私信。
それだけで充分だ。
そのとき、廊下で足音がした。メルクが扉を小さく叩き、顔をのぞかせる。
「お節介に少々。……印記書の箱にもう一枚、紙が入っていた」
メルクが差し出したのは、細い縁取りのある古い紙だった。角は丸くすり減り、中央に、薄い文字列。私は受け取り、光に透かした。
印記は、公の観測のもとでのみ確定する。
当事者が私語に移るとき、印記は沈黙する。
——記録官ギルバートの備忘
私語、という語が、古いのに生きていた。
メルクが唇を尖らせる。
「昔の記録官は、詩人みたいな言い回しをする」
「助かります。論拠になります」
「論拠を必要としているのは、お前の心か、公報か」
「両方です」
メルクは肩をすくめ、また姿を消した。
室内に静けさが戻る。私とアーヴィンはしばらく黙って、机の上の二通を眺めた。沈黙は、もう重くなかった。
「これで、印記はもう動かない」
私が言うと、アーヴィンは静かに頷いた。
「動かないほうが、正しい」
「はい」
返事のあとで、私は花弁に指を触れた。昼よりも冷たく、香りは弱い。それでも、指先にわずかな柔らかさが移る。紙ではない、ものの温度だ。
「ところで」
アーヴィンは軽く息を整え、机の上の二通を見ながら言葉を探した。
「君は”私信を交わす”と言った。今夜のこれで、完了なのか?」
「完了ではありません。——開始です」
自分で言って、胸の内側が少し熱くなる。彼の目が、照明の反射で細く光った。
「では、開始の手順を」
「手順?」
「君は手順が好きだろう」
私は笑ってしまった。笑うと、紙の上の影が柔らかくなる。
私は便箋をもう一枚取り、短く書いた。
明日の午後、図書館の窓辺で。
報告の”あと”に、話を。
彼はそれを読み、頷いた。そして、自分の紙に一行を足す。
時間は、君の都合に合わせる。
私たちは紙を互いに押しやり、それをそれぞれの本の間に挟んだ。印ではない。栞のような、目印。公に向けた線ではなく、私たちのための小さな折り目だ。
その瞬間、視界の端で、何かがふっとほどけた。机脇に置いていた簡易記録紙。青い線が、淡く浮かび——そして、消えた。まるで、役目を終えて眠るように。
「今の、見たか」
「見ました。……沈黙が、確定しました」
私は窓を少し開けた。冷たい夜気が入ってきて、紙の端を冷やす。遠くで鐘が鳴り、雨の匂いが薄まっていく。
「レティシア」
名を呼ばれて、私は振り向いた。
彼の目は静かで、いつもの行政の色をしているのに、不思議とあたたかかった。
「君の”当たり前”は、難しいが、美しい」
「……難しいと言われると、不安になります」
「不安は、線を引くと少し収まる。明日、また線を引こう」
私は頷いた。頷くという行為が、やけに具体だった。紙に点を置くみたいに、首が一度だけ動いた。
アーヴィンは外套を肩に掛け、扉の前で一度だけ振り返った。目はすぐに私から離れ、机の上の二通に移る。
その目線が、本を情報として扱う人間のやり方だと分かり、私は少し安心した。物に優しい人は、情報にも優しい。そして——人にも、きっと。
扉が閉まり、静けさがひとつ増える。
私は机に座り、深く息をした。印記書はもう動かない。けれど、私の胸の中では、細い線が一本、確かに引かれた。それは誰のためでもない、私の線だ。
白薔薇の花弁を指先で砕くと、香りが少しだけ強くなった。手を洗い、灯りを落とし、窓を閉じる。眠りに入る紙の気配に合わせるように、部屋の空気が柔らかく沈んだ。
——明日、私信の続きを。
そう心の中で言い添えて、私は鍵束を確かめた。金属の音がくぐもり、夜が背中を押した。外はもう雨ではなく、洗いたての空気だった。
次回は、第6話「窓辺の線」です




