第4話 沈黙の書
翌日の午後、王宮の空は曇っていた。
光が濁ると、薔薇の白さは逆に際立つ。
温室に向かう石畳を歩くあいだ、靴底が水を吸って、乾いた音を立てない。
その静けさが、まるでまだ”仮定”の世界に踏み込んでいないように感じられた。
今日は、正式な再視察の日だった。
”噂の沈静化”という名目で、摂政と文官見習いが再び現場を確認する。噂を終わらせるための儀式。
印記書に書かれたあの一文「白薔薇の温室にて、口づけを交わす」を、”起きなかった出来事”にするための現場検証だった。
私は報告書を胸に抱えながら、温室の入口で深呼吸した。
扉を押すと、湿った空気と花の匂いが混ざり合い、頬にまとわりつく。
昨日の光よりも柔らかく、少し重い。
硝子越しに差す光は曇り、空を溶かして、薄い金の霧になっていた。
アーヴィンは先に来ていた。
窓際の白薔薇の前で立っていて、手には古い巻紙を持っている。
彼が顔を上げ、短くうなずく。
「天気まで沈黙しているようだ」
「曇りの日は、紙の乾きが遅いんです。インクも気分で滲みます」
「気分、か。――君の紙は、機嫌が悪いとどうなる?」
「反抗します。書き手の癖を全部暴くんです」
その答えに、アーヴィンの口元がほんのわずかに緩んだ。
それだけで、硝子の光が少し明るくなる気がした。
「昨日の夜、君の報告書を読み直した。論理的だが、どこかに温度がある」
「温度、ですか?」
「”空想でも、紙に書かれれば現実”――その一文だ」
言葉を返せなかった。
思いつきで言ったつもりの台詞が、彼の心に静かに残っていた。そのことが、少し照れくさく、そして少し嬉しかった。
「今日は、その”現実”を覆す日だ」
アーヴィンは巻紙をほどき、内容を確認した。
本日午後、摂政代理および文官見習い、温室視察。報告のため記録写真を撮影。
簡潔な文言。けれど、これが”火消しの演出”の台本だ。
外部への報道用に、二人が温室で記録を取る姿を残す――。
それだけで、噂は”ただの誤記”として上書きされる。
「写真記録官がすぐ来る。――君は、この辺に立ってくれ」
指示された位置は、白薔薇の花壇のすぐそばだった。
彼との距離は、ほんの数歩。
足元に散った花弁を踏まないように立つと、香りが微かに上がってくる。
外の曇り空を反射して、温室の中は銀色の光に満たされていた。
その光がガラス越しにアーヴィンの髪を撫で、頬の輪郭をやわらかく描き出す。
彼は言葉少なに、記録官へ指示を出している。
声は低く、淡々としていて、けれどその調子が妙に心地よい。
私は手元の帳面を開いた。
ページの端に、前夜の青い線が残っている。
指先でなぞると、光らない。沈黙の印記だ。
まるで、もう書くべきことがないと紙が言っているみたいだった。
写真記録官がやってきて、三脚を組む。
その背後には、護衛が二人。
静かな気配の中、アーヴィンが私に振り向いた。
「準備はいいか?」
「はい」
「では、形式的に”口づけ”の代わりに――」
そう言いながら、彼は私の前に一歩進み出た。
視線が自然に合い、胸が浅く息を吸った。
「――手の甲に、礼を」
彼の声が、光の中で静かに響いた。
右手が差し出され、私の手の甲へ近づいてくる。
触れるか触れないかのところで、風が通った。
薔薇の花弁がひとひら、私たちのあいだを横切る。
その瞬間、空気が微かに震えた。
私は思わず息を止めた。
どちらも動かない。
ただ、光だけが揺れた。
――沈黙。
印記書が反応するなら、今のはまさに条件が揃っているはずだ。
けれど、なにも起きなかった。
手の甲に触れた空気の温度だけが、確かに残っている。
カメラの音が一度、遠くで鳴った。
アーヴィンはゆっくりと手を離し、記録官にうなずいた。
儀式は終わった。
だが、どこかで何かが変わった気がした。
「これで、”予言”は外れたな」
「……ええ。印記書は沈黙しました」
「沈黙は、誤記よりも信頼できる。言葉よりも確かだ」
彼の口元に、わずかな微笑が浮かんだ。
それは、初めて見た種類の笑いだった。
硬さも計算もなく、ただ静かに空気と混ざる笑み。
「報告書には、”再反応なし”と記しておく」
「はい。形式どおりに」
書類を整えながら、私は視線を落とした。
白薔薇の花弁が足元に一枚、落ちている。
拾い上げると、薄い香りが指に移った。
それを帳面に挟もうとして、やめた。紙の間に挟むには、香りが強すぎる。
「レティシア」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
彼の瞳が穏やかで、曇り空の光を吸っていた。
「ありがとう。――君の丁寧さに、助けられた」
「それは、職務です」
「そうだな。だが、”職務”という言葉を君が使うと、少しやわらかく聞こえる」
私は返事をしなかった。
返せば、何かが壊れる気がした。
代わりに帳面を閉じる。
閉じた音が、温室の空気に小さく響いた。
アーヴィンは巻紙を丸め、鞄に収めた。
その動きは無駄がなく、いつも通りの整然さだった。
けれど、最後に鞄を閉じる前、彼は一度だけ中の書類に指を触れた。
その指の動きが、何かを確かめるようにゆっくりしていた。
「印記書の件、これで報告を締めよう。今夜、改めて結論を出す」
そう言って彼は背を向ける。
温室の扉を開けると、曇り空の光が一気に流れ込んだ。
私は残った空気の中で、帳面を開き、最後の一行を書いた。
白薔薇の温室、再反応なし
ただし、沈黙の理由は不明
書き終えた瞬間、指先に温かい風が触れた。
見上げると、ガラスの外で雲が割れ、薄日が射していた。
その光が帳面に落ち、文字を透かす。
墨の黒がわずかに青く光った。
――沈黙も、記録のうち。
私はそう心の中で付け足し、ペンを置いた。
風が通り抜けるたび、薔薇の香りが揺れ、遠くで鐘が鳴った。
午後の終わりを告げる音が、静かに温室を満たしていった。
次回は、第5話「私信」です。




