第3話 誤字の形
夜の図書館は、紙の音がよく響く。
閲覧室の灯は半分だけが残され、残りは書架の奥へゆっくりと沈んでいった。
今日の記録をまとめていると、指先が少し痺れてきた。
文字を追いすぎた日の、あの独特の感覚だ。
けれど、この痺れがあると、心がまだ冷めていない証拠にも思える。
午後の視察は、結局「異常なし」の報告で終わった。
アーヴィンは何も言わなかった。
温室で見た光と、紙の裏の青い光が、頭の中で何度も重なっていた。
どちらも現象にすぎない。だが、紙の反応は”心臓の拍動と同じ形”をしていたように思う。
あれを偶然と片付けるには、呼吸が合いすぎていた。
インク壺を閉じたとき、扉が二度叩かれた。
振り向くと、同僚のリラが顔をのぞかせた。
金色の髪を三つ編みにまとめた小柄な娘で、書架の隙間から現れると、まるで猫のように空気を変える。
「ねえ、レティ。今日、摂政さまと一緒に温室へ行ったんですって?」
「誰がそんなことを」
「誰って、みんな言ってるわよ。噂は図書館の紙より早いんだから」
その言葉を聞いて、思わず溜息が出た。
噂の速度は、本当に紙より早い。
けれど、それを止める術を、まだ誰も発明していない。
「それで、何かあったの?」
「視察でした。火消しです」
「火消しにしては、顔が赤いような」
リラが机に肘をつき、覗き込んでくる。
私は帳面で軽くその視線を遮った。
「仕事の疲れです」
「仕事で顔が赤くなるなんて、相当だわね」
彼女は笑いながら、机の端に小さな冊子を置いた。
ページの端には、丁寧な手書きの文が並んでいる。
インクの色が淡く、筆圧が軽い。
「それ、なに?」
「創作文。休憩時間にちょっと書いてたの。——あ、そうそう、読んでみて」
私は何気なくページをめくり、二行目で手を止めた。
もし白薔薇の温室で、文官見習いと摂政が口づけを交わしたなら。
きっと、それはこの国でいちばん静かな恋になるだろう。
胸の奥が、一瞬で凍った。
文字の並び、句読点の位置、語順まで、印記書の文とほとんど同じだった。
ただしこちらは、明確な仮定の文だが。
「リラ。これ、いつ書いたの?」
「昨日の昼。ほら、昼休みに話してたじゃない? ”もし図書館の恋をテーマにしたら”って」
「……昼休みに」
つまり、印記書が反応した前日だ。
私は深く息を吸い、インクのにおいを吸い込んだ。
香りの中に、わずかに熱の残りがある。
「この文、声に出して読んだりした?」
「え? 声? うん、ちょっと。語感を確かめたくて」
「そのとき、禁書庫の近くには?」
「えーと……整理棚のほうだったかな。あの辺、静かだから」
私は思わず椅子から立ち上がった。
禁書庫と整理棚は壁一枚しか離れていない。
そして印記書は、呼気と音の振動に反応する。
リラはきょとんとした顔で私を見ている。
「まさか、これが——」
口に出した瞬間、言葉の輪郭が自分の思考を追い越した。
「たぶん。あなたの”仮定”の文章が、印記書に拾われたのよ」
「でも、これはただの空想よ」
「空想でも、紙に書かれれば現実」
リラは口を押さえたあと、そっと笑った。
笑い方があまりに軽くて、怒る気にもなれない。
「なんか、すごいわね。仮想の恋文が現実になるなんて」
「恋文じゃありません。誤配信です」
「誤配信、かあ……でも、ちょっと素敵じゃない?」
「素敵ではありません。誤字です」
そう言った自分の声が少し強くて、空気が震えた。
リラは肩をすくめて部屋を出ていく。
扉の隙間から外の光が細く入って、紙の上に線を引いた。
線がまっすぐで、少し傾いている。
——まるで、誰かのため息の形みたいに。
◇ ◇ ◇ ◇
夜の報告書には、「創作文による反応の可能性」と書いた。
報告をまとめ終えるころ、外では風が強まっていた。
窓の隙間から入る風が紙をめくる。
一枚が、勝手に裏返った。
裏面に、淡い青の線が一つ、走っていた。
指でなぞると、光がにじむ。印記書と同じ反応だ。
「まさか……」
私が呟いた瞬間、背後で声がした。
「まさか、何を?」
振り向くと、アーヴィンが立っていた。
夜の王宮服は昼よりも簡素で、肩章の金糸が光を拾っている。
昼の冷静さよりも、少し柔らかい。
図書館の夜の空気に、その存在が不思議に溶け込んでいた。
「夜分に失礼します。報告を受けて、確認に来ました」
「確認、ですか」
「印記の件。君が”創作文の誤配信”と報告したと聞いた」
彼の声は穏やかで、それが余計に距離を曖昧にする。
私は書類を差し出した。
「こちらにまとめました。リラ・ハロウによる創作文。口述の可能性あり」
「仮定の恋文、か。文学的すぎる誤配信だな」
アーヴィンは軽く笑った。
その笑い方が、想像よりも静かだった。
「だが、これで一件落着だろう。誤記は偶然の産物。そういう報告で構わない」
「……偶然で、終わらせていいんですか?」
私の口から、意図せず言葉が出た。
彼が少し眉を上げる。
「何か、気になるのか」
「はい」
一息つき、彼の目を見据える。
「印記書は、同じ語法・構文を続けて拾うことはありません。一度”仮定の文”を記録したら、次は無視するはずなんです。けれど今回は、ほとんど同じ文が”断定形”で出た。つまり、印記書は”仮定の文”を拾ったのではなくて、誰かがそれを現実だと思った瞬間に対して、反応した可能性があります」
「つまり、書かせたのは”意識の側”かもしれない、と」
「理屈の上では、です」
彼は少し黙って、それからわずかに笑った。
「なるほど。仮定を現実に変えたのは、誰かの意識か……興味深い推論だ」
「推論ではなく、観察です」
「観察。なるほど、文官らしい答えだ」
彼は一歩だけ近づいた。
机の上の紙が風に揺れる。
距離が変わると、呼吸の音が混じる。
この距離で話すのは、危険だ。
私はペンを握り、意識的に視線を下げた。
「いずれにせよ、君の働きで助かった。噂の火は消える」
「まだ煙が残っています」
「それくらいなら、風で消える」
言葉が、妙にやさしい音をしていた。
ペンの先が震え、紙に小さな点がつく。
それは墨のしずくではなく、呼吸の印のようだった。
アーヴィンは机の上の書類を整え、軽く頭を下げた。
その動きがきっちりしていて、礼儀というより癖のようだ。
去り際に一度だけ振り返り、言った。
「君の報告書は、句読点の位置が正確だな」
「当たり前です。文官ですから」
「そういう”当たり前”が、一番、難しい」
”句読点の位置”――それは、呼吸の位置のことだ。
彼にそう言われた気がして、胸の奥がわずかに熱くなった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
紙の上には、墨の点がひとつ。
その形が、今日いちばん正直な記録に見えた。
◇ ◇ ◇ ◇
夜風が通り抜ける。
印記書は沈黙を保っている。
けれど、その沈黙の奥で、なにかが息をしている気配があった。
おそらくそれは、紙ではなく、私の胸の奥で鳴っている音だ。
まだ言葉にならない音。
——たぶん、それを恋と呼ぶのは、もう少し先のことだ。
次回は、第4話「沈黙の書」です




