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勝手に書かれた恋文に、どうして私の名前まで!? 〜王宮図書館の記録官ですが、紙が恋を始めました〜  作者: ふみきり


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第2話 紙の裏の温度

 午前の陽は、図書館の南窓から細く差し込み、木机の上を斜めに走っていた。

 光の帯に埃が浮かび、その向こうで、印記書が静かに眠っている。


 文字はもう動かない。けれど、あの文がそこに在った事実だけは、朝よりも濃く部屋に残っている気がした。墨の香りは時間とともに薄れるはずなのに、なぜか甘い紙のにおいと混じって、呼吸の奥に居座る。


 私と老司書のメルクは、印記書を挟んで向かい合っていた。

 彼は眼鏡の上から私を見て、軽く口角を上げた。


「まだ紙を睨んでいるのか、レティシア」

「紙を睨む仕事ですから」

「だが、紙は睨み返さんぞ。反応するだけだ」


 冗談のように言いながらも、その目は真面目だ。

 彼は道具箱から古びた金属製の筒を取り出し、印記書の表面をそっとなぞった。薄い青光が、波紋のように走る。


「反応残り、やや強め。昨夜、相当近い距離で呼気が当たっておるな」

「……人がいたと?」

「”感情を伴う呼気”だ。怒りでも恋でもいい。紙は、熱の種類までは選ばない」


 私は腕を組んだ。

 この国では、”記録”は制度の骨格に近い。書かれたことが事実を定め、署名がそれを固める。印記書のような存在は、その仕組みの外側にある。だから扱いが厄介で、そして厄介なものほど人を惹きつける。


「摂政殿は、午後に戻ってくるらしいな」

「視察、ですね」

「そう。白薔薇の温室。噂の現場だ」


 メルクは机に肘をつき、私をじっと見る。

 私の心拍を読んでいるような目つきだった。


「嫌なら断れ」

「断る理由がありません。公務ですから」

「まっすぐだな。そういうまっすぐさが、一番厄介なんだが」


 彼はそう言って笑い、印記書に布をかけた。

 その笑いが少しだけ優しいのを感じ取って、私は反論をやめた。

 図書館の鐘が、二度、低く鳴った。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 午後。王宮の温室は、思っていたよりも広かった。

 天井まで届く硝子は陽をやわらかく砕き、空気を甘くする。水音が途切れず、薔薇の白が光の粒に溶けていた。


 摂政アーヴィンは、入り口に立ったままその光景を一度だけ見回した。

 護衛を外に下げ、私に視線を向ける。光を受けた灰青の瞳が、淡く明るんで見えた。


「ここが、印記の文に書かれていた場所だ」

「はい。記録の語と一致します。白薔薇、温室、口づけ……」

「最後の語は繰り返さなくてもいい」


 彼の声がほんの少しだけ柔らかくなった。

 私は頷き、手元の調査帳を開く。

 筆記具を持つ指が汗ばんでいる。紙に触れると、薄く張りつく。

 記録は正確でなければならない。けれど、いま私の手に必要なのは、正確さよりも慎重さだ。


「印記書の反応は、人の体温や呼気に影響されます。前日、この温室を訪れた者がいるなら、その痕跡が残っているかもしれません」

「痕跡をどうやって確かめる?」

「同調記録紙で。反応を転写できるように調整してあります」


 私は鞄から薄い紙束を取り出した。手のひらに乗るほどの小ささ。淡い灰色で、表面に微細な網目模様が刻まれている。

 アーヴィンが興味深げに覗き込んだ。


「君の手製か?」

「ええ。正確には、その改良型です。正式な許可は取っていませんけど」


 彼は少し眉を上げたが、叱る様子はなかった。

 その代わりに、唇の端にほんの僅かな笑いを浮かべた。

 その笑みは、図書館の冷たい光では見られなかった種類のものだった。


「規則を破ってでも知りたいことがあるとき、人は研究者になる」

「それは誉め言葉として受け取っておきます」


 紙を花壇の縁に置き、息を吹きかける。

 すると、網目がかすかに青く光った。

 温室の空気が応えたように、周囲の薔薇の花弁がわずかに揺れる。


「ここにも、反応がありますね」

「誰かが立っていた、ということか」

「おそらくは。ですが、何を思っていたかまでは分かりません。紙は感情を読まない。ただ、動いた温度を記録するだけです」


 私は指先で紙を押さえ、浮かんだ模様を観察した。

 波形は、印記書の反応と似ている。


 ――つまり、同じ人間の呼気が、印記書と今と、二度この現象を起こした可能性がある。


「……摂政様」

「アーヴィンでいい。ここでは職務ではない」

「では、アーヴィン様。この波形、なぜだか、あなたの体温と近いです」


 彼がわずかに目を瞬かせる。

 そして、息を一つ落とした。


「つまり、私が”書かせた”可能性がある、と」

「理屈の上では。ですが、それは——」

「”感情の種類までは分からない”。そうだったな」


 先ほど私が言った言葉を、彼はほとんど同じ調子で返した。

 その声が、思ったより近くにあった。

 距離を取ったつもりなのに、いつの間にか薔薇の茎の向こうで彼の影が重なっている。

 光が揺れ、ガラスに水滴が走った。

 時間がほんの少し、紙の裏側へ沈んでいくような感覚。


「この温室には、昼に一度、冷却の風が通ります」


 自分でも唐突だと思う言葉が、口から出た。

 何かを説明しなければ、空気の温度が上がりすぎる気がした。


「風が通ると、薔薇が一斉に揺れるんです。それで——」

「それで、何だ?」


 問われて、私は答えを持たないまま笑ってしまった。

 言葉を探しているうちに、風が本当に通った。


 薔薇の花弁が一斉にふるえ、硝子に陽が反射する。


 その光のなかで、アーヴィンの髪が少し乱れた。その様子が不意に現実的すぎて、私は視線を落とした。

 記録紙が風に浮かび、指から逃げる。

 咄嗟に掴もうとした指先が、彼の手の甲に触れた。


 短い、けれど確かな接触。

 紙が宙で回り、白い面をこちらに向けた。網目が青く、淡く、点滅する。


 私たちは息を止めた。

 波形がひとつ、心臓の鼓動に重なる。


 彼が、ゆっくりと紙を拾い上げた。

 何かを言うように口が動いたが、言葉にはならなかった。

 代わりに、軽く息を吐く。その息が、紙を揺らす。

 青い光がふっと消え、跡形もなく沈む。


「……どうやら、記録は更新されたようだ」

「つまり?」

「私たちが今、確かに呼吸していた、ということだろう」


 それは説明のようで、どこか笑いに似ていた。

 私は頷き、記録紙を鞄にしまう。

 沈黙がひと呼吸分だけ続き、その間に風が止んだ。


「君は、これをどう報告する?」

「”誤反応の可能性あり”と書きます。断定は避けて」

「賢明だな。だが……その”可能性”という語が、最も人をざわつかせる」


 彼はそう言って、硝子越しの外を見た。


 遠くで、白薔薇の花弁が一枚、地面に落ちた。

 その動きが遅く、重力を忘れたみたいに見えた。


「風が止まると、薔薇は落ちる。――面白いな」

「それが自然です。支えを失えば、花は落ちます」

「人も、そうかもしれない」


 その言葉に、私は返事をしなかった。

 返せば、何かが変わる気がした。

 代わりに、筆を取ってメモをつける。筆先が紙に触れるたび、インクがかすかに震える。


 風の名残が、まだ空気の端で遊んでいた。


   ◇   ◇   ◇   ◇


 夕方、図書館に戻ると、メルクが待っていた。

 私を見るなり、眉を上げる。


「生きて帰ったな」

「視察ですから、戦ではありません」

「似たようなものだ。……で、何か分かったか?」


 私は鞄から記録紙を取り出す。

 波形はほとんど消えかけていたが、わずかに青の残光が見えた。

 老司書はそれを覗き込み、鼻を鳴らした。


「二度目の反応か」

「はい。温室で、偶然……」

「偶然など滅多に起こらん。だからこそ、人はそれを”偶然”と呼ぶ」


 言葉の意味を噛みしめる間もなく、彼は紙を光に透かした。


「言葉ってやつはな、紙の上だけに残るもんじゃない。人が強く思いながら口にしたとき、その息ごと場所に染み込むことがある。」


 反応線が二本、重なっている。まるでふたつの呼吸が、ひとつの文字を描いたように。


「君たち、どちらもよく息をするらしい」

「……言い方が妙です」

「誉めておるんだ。生きておる証拠だ」


 私は顔をしかめ、机に紙を置いた。

 メルクは肩をすくめ、微笑んだ。


「さて。印記書の方は沈黙を続けている。だが、沈黙というのは、時に最も雄弁だ。――何かが満たされると、紙は黙る」

「満たされる?」

「書き手の無意識、あるいは、記録の目的。おそらくは後者だな。目的を果たした装置は、口を閉ざす」


 私は黙ってその言葉を聞いていた。

 沈黙の理由。紙の裏にある温度。

 それを測る術を、私はまだ持たない。


「いずれにせよ、しばらくは経過観察だ。……それと、摂政殿が一言残していったぞ」


 メルクが机の端から小さな紙片を渡してくる。

 短い文だった。




  報告は要領よく。必要以上の誤字を出さぬように。

  ――アーヴィン




 思わず息が漏れた。

 几帳面な字。筆圧は低く、端正だが、末尾の点だけがわずかにかすれている。

 おそらく、書いたあとで迷ったのだろう。そのかすれが、紙の裏で微かに光を帯びて見えた。


 私は紙片を机の上に戻し、ペンを取る。

 返信など求められていない。けれど、書かずにはいられなかった。




  了解いたしました。誤字は、いまのところ一つもありません。




 文を閉じてから、自分の手の温度が少し上がっているのに気づく。

 墨の香りが夜風に流れ、窓の外で鐘が三度、ゆっくりと鳴った。


 印記書は相変わらず沈黙している。

 でも、その沈黙の向こうに、何かが微かに呼吸しているような気がした。


 ――まるで、紙の裏の温度が、まだ生きているみたいに。

次回、第3話「誤字の形」です。

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