第1話 書かれてしまった恋
はじめまして。ご覧いただきありがとうございます。
この物語は、王宮図書館で起きた小さな”文字の事件”から始まります。静かで穏やかな作品ですが、書くこと・読むことの不思議を楽しんでいただけたら幸いです。
最初は短編のつもりだったのですが、ちょっと文字数が増えてしまったので、全10話の中編に仕上げました。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
朝の図書館は、紙の匂いが薄く立って、呼気よりも軽い。
点検当番の私は、鍵束を指の腹で確かめながら禁書庫へ向かった。金属の擦れる音がやけに大きく感じられるのは、床石まで寝起きのように静かなせいだと思う。
扉を開くと、薄い埃が光にまぎれ、ゆっくり沈んだ。中央の台には、昨夜も確かに閉じたはずの一冊――印記書が、きちんとした角度で置かれている。布の表紙は手入れの行き届いた靴のように鈍く光り、角に挟んでおいた布栞が白くのぞいていた。
私は手袋をはめ、深く息を整える。手順は決まっている。封印の札を外し、表紙を開く。最初の一枚を確かめ、綴じ目の緩みを検査し、文字のにじみがないかを――
そのとき、紙の裏から墨が滲むように、細い線が浮かび上がった。
線は途中で止まり、まだ完全な文にはなっていない。けれど、途中まで現れた単語の並びに、私は息を呑んだ。
白薔薇の温室にて、レティシア、摂政アーヴィンと口づけを……
最後の言葉は滲みの途中で途切れ、そこから先は白いままだった。まるで誰かが書きかけのまま手を離したように。
手袋越しに、指先の温度が急に分からなくなる。
私の名前。摂政の名。白薔薇。温室。口づけ。
文の要素を順に拾い上げるうち、心は紙面よりずっと乱暴な字で、否定を何度も書きなぐっていた。
「……反応、発生。内容、途中」
声は出た。冷静さの形をしていたが、それが形だけであることは、わずかに汗ばんだ膝の裏が知っている。
私は即座に帳面を閉じ、封印札を貼り戻し、要約板に最小限の記録を書きつける。
閲覧室へ出る廊下は朝の空気で細長く、誰もいない。なのに、足音だけはなぜか複数に増える。自分の靴音が壁で跳ね返っているのだと分かっていても、背中が急かされた。
上席への報告を終えた瞬間、司書補が走ってきて言う。
「王宮補佐官室へ通報済みです。摂政が確認に来るとのこと」
私は頷き、閲覧室へ戻った。
老司書のメルクがすでに来ていた。白い髭に墨の香りをまとい、私の顔を見るなり、目尻を落とした。
「見た顔だな。出たか」
「……出ました。しかも、途中までです」
「ふむ。で、どこまでだ?」
私は要約板に挟んだ紙へ「白薔薇」「温室」「自名」「摂政」「口づけ」の語だけを書き、板を伏せた。彼は眉をほんの少しだけ上げる。
「騒がしくなるぞ」
「誤記として処理したいです。規定に従って」
「規定は規定だが、名が名だ。ほら」
閲覧室の入口に影が落ちた。数名の護衛と事務官たちに囲まれ、若い男がこちらへ歩いてくる。服は冷たい直線で仕立てられ、歩幅には癖がない。近づくほどに、目元の色が渋く落ち着いているのが分かった。噂で聞いていた通りの、政の人間の目だ。
「図書館の皆様、朝から失礼する」
摂政はそう言い、視線を一度だけ室内全体に巡らせた。必要な数だけ測る目つき。
彼の目が印記書に触れ、次に私に触れた。ほんの一拍、そこで止まる。
「状況を確認したい。記述の出現は今朝で間違いないか」
「はい。七の鐘の直後です。私の巡回で出現を確認しました。内容は途中でしたので、封印し報告に回しています」
自分の声が、自分のもののように聞こえない。
私は先ほど記した要約紙と、封印を解いた印記書を差し出す。彼は受け取り、流し読むでもなく、丁寧に縁から追うように目を走らせた。
そのときだった。
紙面にわずかに残っていた墨の線が、ゆっくりと伸びた。
朝には途切れていた末尾が、今、静かに続き始めている。
彼の指先がページに触れ、私は息を止めた。
白薔薇の温室にて、レティシア、摂政アーヴィンと口づけを交わす。
墨の線が止まった。完全な文になっている。
目の前で完了したその一行を、彼も、私も、息を詰めたまま見つめていた。
沈黙が、部屋全体を満たす。
その瞬間に、世界がひとつ確定した——そんな感覚が、胸の奥で鳴った。
「……”白薔薇の温室”に”口づけ”。ずいぶん具体的だ」
護衛たちの息づかいが一瞬途切れ、部屋の空気がわずかに重くなる。
私は要約板に、彼の発言の要点だけを刻む。墨が乾く音がやけに大きい。
「印記の仕組みは、わかっていますか?」
摂政はこちらに視線を戻した。問いは私に向けられている。
私は頷き、用意しておいた説明の最短路を選ぶ。
「完全には解明されていませんが、紙が特定の条件で反応し、無人でも文字が浮かぶ現象です。昨夜の禁書庫は施錠管理が正常でした。人の筆跡は確認されていません」
「条件、とは?」
「体温、呼気、音の振動。周辺の環境要因に反応すると古文書にあります。ただし現行検査では、外部からの意図的操作がほぼ不可能であることだけが確かです」
彼は短く頷き、印記書を閉じた。
紙の白さは変わらないのに、そこにある黒い線だけが、やけに目立つ。私の名と、彼の名。白薔薇。温室。口づけ。文は今、完全に断定の形で静止している。
室内の誰もが、その語の並びを直接口にせず、影のように避けているのがわかった。避ければ避けるほど、線は濃くなる。
「意によらず書かれたものが、勝手に広まる事態は止めたい」
摂政の言い方は乾いているのに、角は立っていない。
私は安堵に似たものをほんのひとかけらだけ拾い、すぐに胸の奥にしまった。
「確かに、噂は抑える必要があります。要約の扱いに気をつければ、拡散は最小限で済むはずです」
「”最小限”は、私の職務では十分ではない。完全な沈静化が望ましい」
その言葉に、私は軽く喉を鳴らしそうになる。完全、という語は、紙がもっとも苦手とするやつだ。すべての誤字は、完全の脇で生まれる。
「では、出所を調べます。誤配信や語法の変換がないか、写字生の記録も含めて」
「任せたい」
短い沈黙が落ちた。
沈黙は、空のページに似ている。何でも書けるが、何も書かれていない。だからこそ、次の一語が重い。摂政の目が、少しだけ柔らぐ。
「それと」
と彼は付け加えた。
「あなたの名が使われたことについては、私からもお詫びする。望まぬ形で関わらせてしまった」
謝罪という語は、公の場で簡単に使えるものではない。その語が、いま自然に置かれたことが、室内の空気をほんの少しだけ軽くした。
私は首を振る。振りながら、喉の奥に刺さった小骨みたいな感覚をそっと触る。
「お気になさらず。……私自身、驚いていますが、仕事は仕事です」
言ってしまってから、仕事は仕事という言い回しが、まるで紙のように薄いことに気づく。
それでも、持っていれば風くらいは避けられる。そう思って、私はその言葉を握った。
摂政はわずかに口元を和らげた。
「助かる。では、今日の午後、王宮温室の視察がある。そちらでも確認したい。印記の線が具体の場所を示している以上、無関係と言い切るには現場を見たい」
温室。白薔薇。口づけ。
語が脳内でそれぞれ別の棚から落ちてきて、机の上でぶつかる音がした。私は机に手をついていないのに、机の感触が手のひらに現れる。
「……視察ですか」
「視察だ。火消しの一環だ。あなたも来られるか」
「許可が下りれば」
「下りるように手配する」
彼は言い、要約紙を折りたたんだ。折り目は正確で、紙が嫌がらない角度だった。
護衛が動き、事務官が控えを取り、出入口に置かれた空気がゆっくりと入れ替わる。摂政は一礼し、去ろうとする。ふと、目線が印記書に向けられた。
そのまなざしが、本を情報として扱う人間のものだと分かり、私は少し安心した。物に優しい人は、情報にも優しい。
彼らが去ったあと、閲覧室は音を取り戻した。紙の擦れる音、羽根ペンの微かなざわめき、窓枠を抜ける風。
メルクが咳払いを一つ、小さく落とした。
「午後は忙しくなるぞ、レティシア」
「……はい」
私は自分の名を口に出してみる。紙の上のそれとは違い、今度は私の喉を通った。
印記の線が、そこにある。それは誰かの感情の影で、私のものかどうかは、まだ分からない。分からないなら、分かるまでの手順を並べればいい。私はそういう風に世界を拾う訓練を、ここでしてきた。
禁書庫を振り返ると、扉が朝よりも重く見えた。印記書は静かに閉じている。紙は白く、黒い線は断定の文のまま静止している。
午後には、白薔薇の温室。視察という名の、火消しという名の、現場確認。
私は手袋を外し、指先をすり合わせた。皮膚のざらつきが確かだった。確かなものを起点にすれば、確かでないものにも触れられる。
そう思いながら、私は最初の調査メモを作り始めた。短い題を記した。曲線の少ない文字の方が落ち着く。長い語を使うほど、事態は複雑に見える。短い語ほど、手が届く。
昼の鐘が遠くで鳴り、閲覧室の窓辺に、白く細い光が落ちる。
紙の上の黒は、もう途中ではない。だが、心のどこかではまだ続きがある気がしていた。
午後までにやるべきことを並べ、順番を決め、深呼吸を一つ。
噂に追い越される前に、私は、私の速度で歩き出した。
次回、第2話「紙の裏の温度」です。




