絶対零度と怖れられる公爵様、実は脳筋のようです。
地道にこそこそと書き進めていたものです。
わたしの名前は『エルザ・ピースライト』
十五歳になるや否や家の都合によって、ここ――ヴァージニア家の屋敷のメイドとして働かされることになりました。
一番歳下の、一番下っ端であるわたしは、とにかく同じメイドの方々からこき使われています。
まるで奴隷のような扱いですが、わたしに拒否権はありません。
そのヴァージニア家のご当主様は、『ギリウス・ヴァージニア』様。階級は公爵。
女性の百人中百人が振り返る美貌の持ち主に加え、文武両道と言う、天が一物も二物も与えたような御方です。
……が、唯一問題があるとすれば。
「…………」
この、無言の圧力に加えて冷めた態度、さらに氷柱のような視線。
ハッキリ言って、物凄く怖いです……
他の貴族の方々からも、「取り付く島もない」「まるで氷像だ」「この男に感情は無いのか」と聞くこともあります。
それら様々な要因から、『絶対零度の公爵』とさえ怖れられているようです。
そう、今日も今日とて屋敷の掃除に勤しむわたしと擦れ違う時でさえ、まるで養豚場の豚を見るような目です。
目を逸らしたくなりますが、そんなことをしたら秒で首が跳びます。
わたし、何か気に触るようなことを……したはずはありませんが、ギリウス様がわたしを見ている以上は何かあったに違いありません。
しかし心当たり……はいくらでもあります。
床にチリ一粒が残っている可能性もありますし、徹底しているとは言え窓ガラスに拭き跡が残っている可能性もあります。
もしや今朝の朝食に何か不備があったのでは……
しかし、このまま怯えて黙っているだけでは何も分かりません。
下手をしなくてもこの瞬間首が跳ぶことも覚悟して、わたしはギリウス様にお訊ねします。
「あの、ギリウス様……わたし、何か……」
「…………」
するとギリウス様は、徐にわたしに手を伸ばしてきました。
あぁ……これはもう人生詰みました。
きっとわたしを括り殺すつもりでしょう。
この屋敷に仕えて三年、幸せな結婚など出来るはずもなく、一生ここで使い潰されるのだろうと思っていましたが、よもやこんな最期とは。
どうしよう、今すぐにでも逃げたいです。
ですが、逃げたところで他に行く宛はありません。
実家に戻ったところで、わたしよりも妹の方が大事な親が取り合ってくれるはずもありません。
ここにわたしが放り込まれたのも、つまるところ捨てるようなものでしたから。
苦しみながら死ぬなんて御免被りたいですが、もう仕方ありません、ぎゅっと目を閉じます。
さようならわたし、短い十八年間でした――。
………………
…………
……
けれど、首への圧迫感はいつまで経っても来ません。
それどころか、何やらわたしの頭のヘッドドレスが微動しています。
恐る恐る目を開けてみると。
「ヘッドドレスが曲がっていた」
それだけ告げると、ギリウス様は踵を返していきました。
「………………ふぇぃ?」
わたしは妙な声をもらすだけでした。
また別の日。
「エルザ。ギリウス様の執務室にお茶を届けなさい」
メイド長から、そのような命令が下されました。
ギリウス様に目をつけられたくないと分かっていて、下っ端のわたしに押し付けようとしているのが透けてます。
わたし、今は休憩時間なのに。
「分かりました」
ですがわたしに拒否権はありません、断れば即座に追放です。
お茶の用意だけ済ませたら早く退室しよう。
それを念頭に置きつつ、わたしはティーポットとカップをトレイに乗せて、ギリウス様の執務室へ向かいました。
この時間帯に、ギリウス様にお茶を用意する。
それがわたしの休憩時間です。
ドアの前で何度か深呼吸を繰り返してから、わたしはドアをノックします。
「失礼します。ギリウス様、お茶をご用意致しました」
そう告げてから、ちょうど二秒後にわたしはドアを開いて入室します。
ギリウス様は今日も忙しなさそうに書類を相手にしています。
が、ふとその凍える視線がわたしに向けられました。
「エルザか。茶はそこに置いてくれ」
……あれ?
ギリウス様、わたしの名前を知っていたのでしょうか。
しょせんわたしのことなど、名もなきメイドの一人としか認識していなかったと思っていました。
「かしこまりました」
そのことはおくびにも出さずに、ギリウス様が指した場所にトレイを置いて、カップの中へ紅茶を注ぎます。
もんわりと広がるお茶っ葉の香りに癒やされますが、こんなところにいつまでもいては、ギリウス様に斬られてしまいます。
お茶を淹れ終えて、「それでは、失礼致しました」と言い残して執務室を出ようとしましたが、
「待て」
何故かギリウス様に呼び止められました。
あ、死刑宣告ですね、分かります。
一瞬、聞こえなかったフリをしようと思いましたが、それはそれで怒りを買うことになりかねないと判断して、即座に足を止めて振り返りました。
「気になっていたことがある。この時間、私の執務室に茶を用意してくるのは、いつもエルザだな」
「はい、わたしですが……」
「私はここ数年、この時間にエルザ以外の者が茶をここへ持ってきたのを見たことがない。どう言うことだ?」
どう言うことと言われましても。
メイド長からパワハラを受けているからです、と言うわけにはいきません。
「わ……わたしが、この時間帯でちょうど手隙の者だからです」
本当は休憩時間中なのですが、決して間違った答え方ではないはずと焦るわたしを見て、ギリウス様は短く溜息をつきました。
「メイド長はネーレだったな。ここへ連れて来い」
「は、ですが……」
「連れて来いと言ったはずだ。二度も同じことを言わせるな」
「か、かしこまりましたっ……」
命令された以上は従う他ありません、わたしは一礼してから、メイド長を呼びに行きました。
執務室の前で待たされているわたしは、ドンだのバンだのと聞こえてくる大きな音と、時折聞こえてくる声を黙って聞いているだけです。
「お前はメイド長と言う配下を率いる立場についておきながら、自ら率先しようと思わぬような無能か?いつからそれほどまでに自分が偉くなったと錯覚したのだ」
「も、申しわ、け、ありま、せ……」
「私に謝罪したところでエルザの負担が減るのか?そう言った配分を組み上げるのはお前の仕事のはずだろう。私に余計な仕事を増やすつもりか」
「ぶっ……」
何かが床を転がるような音。
「無駄な時間を過ごしてしまった。今後はもう少し自分の立場を弁えろ。下がれ」
「し、失礼、致しました……」
ドアが開けられると、痣だらけ血塗れのメイド長が部屋から出てきて、わたしに目もくれずにフラフラと去っていきます。
……何故、ギリウス様はわたしの休憩時間のことなど気にしてくれるのでしょうか。
理由が分からないままに休憩時間が終わりを告げました。
さらにまた別の日。
どう言うわけか、わたしは朝からギリウス様に名指しで呼び出されました。
しかも連れて来られた場所は円卓場であり、既に何人もの貴族様方が席についています。
これから会議か何かを始めるのでしょうか。
けれど、何故この場にわたしが連れてこられたのかはさっぱりです。
「ギリウス公爵、そちらの者は?」
「それをこれから話すつもりだ」
ギリウス様が席に着き、会議が始まりました。
「話の前に、私からひとつ皆に伝えばならんことがある」
席について、すぐにまた立ち上がったギリウス様は、後ろで控えていたわたしに歩み寄ると、そっと肩に手を乗せました。
「今日より、このエルザ・ピースライトを私の妻とする」
………………
………
……
ふぁっ!?
今何を言いましたかこのギリウス様は!
エルザ・ピースライトを私の妻とするって……えぇぇぇぇぇ!?
「ギ、ギギギリウス様っ……と、突然何を……!?」
はわわと慌てるわたしをよそに、同席していた伯爵様が椅子を蹴り立てて怒鳴った。
「ふざけるなギリウス殿!正気のつもりか!?」
「ふざけてなどいない。そして私は正気だ」
この場に至っても眉一つ微動だにしないギリウス様。
「マルティン伯爵。私に婚約者がおらんことを常日頃より嘆いていたのは、他ならぬ貴方だろう。何故喜ばない?」
ギリウス様が『絶対零度』と呼ばれていることは隣国にも知れ渡っており、いくら公爵様と言ってもお近付きになりたいと思う女性は誰一人いなかったのです。
だからといってどうしてわたしが妻になるのかが分かりません。
「喜べるものか!何故よりにもよって、そのような下賤の小娘などを婚約者に……」
当然とでも言うように伯爵様は反論しますが、
その瞬間、ギリウス様は腰のサーベルを抜き放ち様に振り下ろして、円卓に叩き付けました。
大きな亀裂の入った円卓を前に、皆様黙っています。
「今、私の妻を下賤の小娘などと寝ぼけたことを口にしたのはどこの阿呆だ。名乗り出ろ」
「「「「「………………」」」」」
名乗り出るはずがありません。
ギリウス様は武芸にも優れる御方です、下手に反論すれば円卓と同じ運命に遭うでしょう。
「まぁ、私が急にこのようなことを申したところで、すぐに賛成多数になるとは思っていないし、不満を持つ者もいるだろう」
故に、とギリウス様はサーベルを構え直しました。
「私は貴方がたに、決闘を申し込む」
いや、決闘って……会議の席で何でそうなるんですかギリウス様。
「私が勝てば、エルザ・ピースライトを妻とすることを容認していただく。私が負けた場合は、今回の婚約話を反故にしていただいて構わない。それを承知の上で、我こそはと思う者はおるか」
堂々と宣誓するギリウス様。
当然ながら、我こそはと思う方はいません。
この人、意外と脳筋なのでは……
十秒ほど沈黙が続くのを見計らってから、ギリウス様はサーベルを納めました。
「では改めよう。今日より、このエルザ・ピースライトを私の妻とする。異論のある者は?」
異論はあるかもしれないけど、ギリウス様が力尽くで黙らせているだけですよね?
なんてことを言うわけにもいかず、わたしはされるがままにギリウス様との婚約する運びとなりました。
な に ゆ え ?
それから。
分けが分からないままにギリウス様の妻となってしまったわたしは、表向きはギリウス様の専属侍女としての立場を与えられました。
ギリウス様の政務が一段落したのを見計らって、わたしはずっと気になっていたことをお訊ねしました。
「ギリウス様、よろしいでしょうか」
「どうしたエルザよ」
「何故、いきなりわたしを妻として迎えたいなどと仰ったのですか?」
わたしは何の権利も後ろ楯もない、伯爵様が言うところの下賤な小娘でしかありません。
いくら婚約者と言える女性が一人もいないからといって、誰でも良いと言うわけでもないはずです。
「以前にも言っただろう。私はエルザのことが気になっていたと。何人ものメイドがいるにも関わらず、数年間毎日同じ時間に同じ者が来るのだ。気にならない方が難しい」
それに、とギリウス様は続けます。
「誰も彼もが私と目を合わせて話をしようとせん。『絶対零度』などと呼ばれていることは存じているが、そんな瑣末事を真に受ける阿呆に聞く耳も話す舌も要らん」
ギリウス様、わたしもそんな瑣末事を真に受ける阿呆の一人です、ごめんなさい。
「だが、エルザだけは違った。お前だけはいつも、しかと目を合わせて話をする」
「それは、人として当然のことではありませんか?」
「それすらも出来んような者が多過ぎると言うのだ」
……そう言えば実家にいた時も、家族はみんなわたしと目を合わせていなかったような気がします。
「信に足る者を傍に置きたいと思うことはおかしなことか?」
「いえ、そんなことはありません」
「ならば良かろう、私にとっての信に足る者とはお前のことだ。そして私は、信に足らん者を妻にするほど酔狂ではない」
そっと、ギリウス様はわたしの肩に手を乗せました。
「信に足ることへの証明として、私の生涯をかけて愛すると誓おう」
すると、今まで見たことがない、ギリウス様の優しい微笑みがそこにありました。
ギリウス様はきっと、ご自分が言うところの『信に足る者』が欲しかっただけなのかもしれません。
当主ともなれば、欺瞞や偽りで近付く方もいるでしょうし、それらに対して侮られぬようにと、気を強くしていたのでしょう。
絶対零度などではなく、この暖かみのある微笑こそが、ギリウス様の本質なのかもしれません。
「そして、エルザが私の伴侶に相応しくないなどと抜かす阿呆は、決闘の元、私が全て斬り捨ててやろう」
「………………」
やっぱり、絶対零度と怖れられるギリウス様の、その本質は脳筋のようです。
と言うわけで、薄幸系メイドのエルザと、脳筋系クール公爵のギリウスとの、短いお話でした。