弥生と古墳
大きな進展はないが、細かい点で大きな進展があった。本当は大きな進展だが、詳細がまだ全然根拠薄弱って点で小さな発展になってしまってる。第一に縄文人がややこしくなった点。アマンダン諸島に近いインド古集団が日本まで拡散していた。これが縄文人のベースとなっていたが、どうも細かくはもっと遺伝的には分かれていたらしい。現在見つかった過去のDNAが一部だけだったためそういった理解になっていただけで、実際は絶滅した小集団に分かれていたらしい。
遺伝的違いについては大きく2つある。1つは元となったインド集団が思ったより分岐から時間が経過していてかなり遺伝的に違った集団になっていた点。これと後から来た別の中国集団が混血していた可能性。かなり南の方までこの集団の影響があるため、当然中国南部東南アジア北部辺りはもっと中国集団の影響が大きかった。
実際縄文人は中国集団から分岐した中国南部系の遺伝子が半分以上占めている。これらは日本列島で混血したと見ていたが、実際は中国で混血して日本に来た可能性が有る。この辺りがまだ不明。インド集団と全く別集団ではないが、全く同じ集団が日本にやってきたという考えは訂正しなくてはいけないと見ている。インドから中国にかけてこれらの遺伝子が混血が勾配状態になってると見て良い。これらに元々インド集団から分かれてからの時間経過で遺伝子がかなり変わっていた可能性も高い。
単純に突然変異ではなく、元あった集団の一部だけが発展すると全く違った集団になってしまう事は多々ある。これが顕著なのが東京の遺伝子になる。東京は日本全国の地方ごとに偏った遺伝子が全部集まるので、クラスターの範囲が大きい。東北から鹿児島あたりぐらいは余裕で入る円が出来上がる。ただし中心点は関東独特のやや関西とは違った東北よりの集団にはなってるが。ただし過去関東には大規模な関西からの移住があったためその影響も当然考えられる。
次に農業に関して、言語と結びついた研究があった。日本語は中国東北部の集団の拡散によるものって発表があった。ただしこれ注意も必要。様々な研究からまだまだ異端ではあるが、日本語は複合言語っぽいのが言われている。周りや元あった言語の接触によってかなり他の言語の影響が残ってしまった言語となる。
決定的なものが音韻になる。音楽も含めて日本のそれは朝鮮のものと大きく違う。むしろ遠い言語になる。しかし、語彙文法は朝鮮語が一番近い。これは明らかにおかしい。語彙文法は綺麗にアルタイ言語の農業拡散で説明がつくのに音韻だけ奇妙な様相になっている。どこが近いのか?でその言語はアイヌになる。
これで分かるのは農業前に元々あった縄文の言語の影響が音韻に与えている可能性。多分日本語は縄文語で音がなまっている。これはもちろん私の得手勝手な素人の推測になる。ただこの説は他の人もたびたび触れていて、実際データを取るとここだけ奇妙な関係になるので何か?があると見て良い。それが縄文だと断定できないだけで。
この2つの言及は別のモノ。だから得手勝手になったのはそこになる。農業拡散は農業に関わる言語だけ抜き出すと系統関係が作れるって話で、音韻は他の語彙も含めた話になる。敢えて農業拡散についてブレーキをかけているのがポイントになる。この発想印欧語族によるもので、日本語はそんな単純じゃない。その点で多分違っているだろうと見ているからになる。
そもそも農業拡散によると、かなり早期に分岐したのが中国語って話になる。その辺り言語学で扱えるようなものじゃない。なのに、言語学的な発想で作られてるって点。ここで多分おかしな点があるだろうと見ている。農業以外の部分が多分大きく違うと見ている。元々稲作だけならタミル語との関係が言われてて、そういうのが複数絡み合ってると見ている。
ただ基本となる文法と農業の語彙は印欧語族のような発想で良いと思う。実際印欧語族は農業の拡散ではない。牧畜と青銅器と馬の拡散にある。農業の形が違う。日本もその点で複数の伝播があったはずだが多分青銅器を伴った拡散が大きかったのじゃないか?とは見ている。
ただ難しいのは、これが次の話題になる。以前から言われていた斎藤教授の第3波と言う発想があり、これがどうも斎藤教授の語った第2の案がそれにあたると言う発見がDNAからあった。第1の案は海の民だがこれは多分外れだと思う。あったとしてもほぼ影響がない。農業の伝播で園耕民と言うのがあり、雑穀農業と言うのがある。これが海の民じゃないか?と言われてるのだが、この時期よりかなり近代になってしまう。
熱帯ジャポニカとして雑穀の1つとして日本にやってきたというものだが、これ自体は正しいと見て良いが、問題はその時期になる。海の民は弥生よりさらに古い1000年前ぐらいを想定してるが、2波と3波の時期は弥生と古墳だと分かってきた。弥生と古墳で大きく集団のDNAが変化してるらしい。
じゃ園耕民は来たのか?来てないか?なら多分来てる。ただ遺伝的に大きな影響を与えるものじゃなかったのではないか?と見ている。少数の園耕民による文化伝播が縄文時代後期初期にあったと見ている。その後弥生時代初期に最終的な青銅器を伴う稲作が持ち込まれたのじゃないか?と見ている。
古墳自体のは何か?でこの点技術発展だと思う。ここが印欧語族と全く違う点。おそらく日本語自体はこの初期の弥生時代に完成されてると思う。その後の古墳時代はさらに進んだ先端技術を持った集団が日本に大量にやってきたとなる。青銅器と分かりやすく広がった点では多分同じだが、日本の遺伝的なベースとなる基礎を作ったのは、初期の発展形のものだと見ている。
じゃ何故日本がこうも違ったか?となると、おそらく中国や騎馬民族の影響だと見ている。中国と騎馬民族が交じり合った時期に古墳集団はやってきたと見ている。時期的には漢の時期になるので匈奴と言う巨大な騎馬民族帝国が出来た時期と重なる。最先端の技術が大きく古いものを刷新した時期と一致する。
遺伝の違いについて肝心なものを飛ばしていた。弥生と古墳では遺伝集団がかなりはっきり異なる。弥生はアムール川集団に近くて、古墳は中国北部集団に近い。これが全くおかしな話にならない。中国の東北部は、時代によって中国系の遺伝子が濃くなる場所と時期がある。
この場所と時期が薄い時代に弥生人は南下したことになる。同じ地域でも時代によって全く違う。アムール集団とあるが、こてこてのアムール川流域にいるだけじゃない。論文の論者はおそらくアムール集団が農業のを広げた集団と見ている。私もそれに同意する。過去そもそもこの矛盾を解決するために1つの集団を2つに私は割っていた。その面倒が解消される。
かなり中国文明の初期に中国よりの強いDNAの集団にアムール集団が混血した可能性が高い。ぞのため黄河集団は全く違う集団にすり替わってしまった。この点は様々な点で異論も多い。そこまで詳細にわかった研究が無い。私もまだこの説には不満がある。私としては過去提唱した。中国集団が農業集団と狩猟集団に分かれたという説も残したい。
とりあえず言語の面からは、アムール集団の農業集団が全方面に拡散したため言語が広がった。そのため中国語もアルタイ語族とかなり遠い親戚だとなる。言語学的には多分憤慨のレベルの説だと思うが、これは農業に関する語彙だけの系統関係と遺伝子を絡めた説なので、遺伝子にも異論が多いし、言語学的にも強引なのは否めないが面白い説だと私は見ている。
24/12/11追記
最近ご無沙汰だが、大きな発見が無いからになる。敢えて言うなら3段階モデルとして知られる最新の日本人論だが、これは実際は過去に提唱された2重構造で済むらしい。
どういう事か?と言うと、そんな難しい話じゃない。ずっと朝鮮半島から来てるのだが、この供給源はさらに外の周辺になる。今でいう満州がその供給源になる。この地域何度も変化するのだが、そもそも満州やモンゴルももっと海岸よりの民族だったが、騎馬民族として内陸に進出した歴史があり、日本の成立ごろにはもっと中国人のDNAを強く持つ系統が多かった。
段階としてはこうだ、最初にアムール川周辺に住む北東アジア人が拡大する。これは後に山東省まで広がったのが確認されている。ただし、黄河領域はやはり黄河由来の現代の中国人に近い系統であった。山東省の下流域は別の集団が暮らしたと言うわけだ。
これは歴史書でも東夷と言って後の歴史時代にも中国人とは違う集団が山東省の東には住んでいた事が描かれている。山東省に住んでいた孔子も触れてるので言語的に別集団であったのは間違いないようだ。ただし歴史時代になるころにはもう山東省の大半は中国人のDNAに置換されている。あくまで東部にその名残の集団が生き残っていたという記録が残ってるだけ。
これが日本とどういう関係が?弥生人と言う集団が想定されてるが、これは別の地域から来たわけじゃなくて、朝鮮とその周辺地域の集団の遺伝構成が変化したので徐々に中国人のDNAと混血していくと言う事になる。これは日本において中国人とアムール集団が混血したのじゃなくて、すでに日本の周辺地域で混血した集団が日本に来ただけとなる。
何故今になってこのような説に変わったのか?DNAの標本が少ない事から得手勝手な推測論が出来たが答えになる。初期弥生人に中国人のDNAが入った個体じゃたまたま無かっただけで、その後標本数が増えると、弥生時代にすでに中国人の混血個体がゾクゾク現れたとなる。
日本の弥生時代の時期にはすでに中国人とアムール集団との混血が周辺地域で大体終わっていたとなる。それゆえに、古墳時代になって急に別集団が流入したと言う事実はおそらくない。じゃそのたまたまの個体は何故生じたか?それを前述して語った。
じわじわと中国人のDNAがより多く混血した歴史が日本の周辺地域にはあるから。当然個体や地域によって大きなばらつきが出来る。しかもこの後の時代にはまたアムール集団が拡張するので、現代のDNAとはまた違ってしまうと言うおまけつきだ。
もう1つ重要な点として、以前から引っかかっていたが、そこまで大量の中国人が流入したなら、何故中国人に多いHLAハプロが存在しないのか?と言う不思議。中国の恐らく中央の王朝に関係したと思われる中央アジア由来のハプロタイプが日本にはほぼない。
中国のどの地域でもこれは高い確率で現れる。中国から大量に流入したのじゃなくて、王朝に関係する中央アジアのDNAが後の時代に満州や朝鮮に拡散する前に、中国人と混血していた集団が日本に入ってきたとするとこの謎が解ける。
後の唐などで増えた外国人の影響ではないか?これに関して中国の全土で高い確率で検出される。これはちょっと後の元や唐の外国勢力の影響とは考えにくい。もっと古いDNAの影響だと見ている。後これなら北部に偏る傾向が出る。中国のその手の外圧は大半が北部に偏ってる。かなり万遍に中央アジアのハプロタイプが拡散されている。
書いてみたら量が少ないので、以前の弥生古墳に追加しようと思う。