01,因縁の動物園。
――猪熊獅子虎狐狼。
今でも時々、あの血肉に飢えた動物園みたいな名前が脳裏を過ぎる。
いつもいつも、どんな場面においても、俺の名前の一つ上にそれはあった。
「……曇り過ぎだよなぁ」
所々錆びついたドアを開けて屋上へ出ると、朝っぱらとは思えないほどの薄暗さに包まれていた。
端まで歩いてって手すりにもたれかかる。繁華街のド真ん中、たかだか三階建ての雑居ビルの屋上だ。見下ろせるのは、中途半端な高さからの、特筆する事も無いありきたりな街の景色。
青い空とお日様でも見れりゃあ少しは気は晴れるかも知れないが……天を仰いだ所で「生憎さま」と言わんばかりの曇天だ。出社した時より雲が厚くなっている気がする。昼前にはひと雨くるかも知れない。
まぁ、梅雨の時期だしな……にしても曇り過ぎだろと言いたい。だから言った。
夜明け前みたいに暗い。街も気分も。
……こんな天気だからだろう。あいつの名前を思い出してしまったのは。
あいつの記憶は俺に取って偏頭痛のようなものだ。曇り空とセットでやってくる。
たった一年ですっかり着古した黒い作業着――芦夜妖怪相談事務所の制服でもあるそれの胸ポケットからタバコのパッケージを取り出す。黒い箱のド真ん中にはニコチンフリーを象徴する笑顔ちゃんマークがでかでかとプリントされている。いつ見てもクソだっせぇデザインだ。オシャレ感は皆無。
黒パッケージを包むビニールに薄らと反射している顔は、不機嫌そうなおっさんのそれ。死んだ魚みてぇな目、への字に曲がった口、雑に処理された顎髭、よれた襟……くたびれてやがる。
こんなもんが俺か、と吐き慣れた溜息が零れた。
妖怪処理業務高等専門学校を出てから早五年。若さが名残だけになりつつある二五歳。
高専を出たばっかの頃は、まさか自分がしかめっ面と溜息が似合う大人になるとは思わなかったな。
……自虐したくもなる。
そう言う気分にさせられる記憶なのだ。
猪熊獅子虎狐狼……あの動物園女の名前は。
今じゃあすっかり聞かなくなったが……数年前まではきっとたくさんの人が認知していた名前だ。
字面のインパクトも、あいつ自身の才覚も抜群だったのだから。
一般的な認識として【妖怪処理屋】の仕事はプロでも命懸け。死ぬ奴はすぐ死ぬ。妖怪処理屋が重傷になっただの死んだだのは日常茶飯事過ぎてもう、よほどの大物でもなければネットニュースにすらならない。
だのにあの女は、まだ何の訓練も受けていない中学時代に、拾った識紙と機転だけで妖怪を撃退すると言う伝説を作った。
各メディア、あの動物園女の名前で一色。
時代の寵児って奴をリアルタイムで目の当たりにしたよ。
ネットニュースのトップページが動物園祭りになってやがった日もある。
……そんな奴と同じ世代で妖怪処理業高等専門学校に入学した【普通の天才】くんは、どんな気持ちになると思うよ?
模擬処理訓練の公開席次で、鋳森守助の名前はあの動物園の一つ下が定位置だった。
二位と三位の評価点数は倍違う。
そして一位と二位は三倍違った。
三位の秀才、二位の天才、一位の鬼才。
二位までは所詮、人間の範疇。
一位はもはや生物としての次元が違う。
そうとしか思えない領域にいた。
無機質に席次を映し続けるモニターの前で、何度、歯噛みしただろう。何度、堪えきれない涙が出ただろう。
それでも歯を食いしばって、あの背中に手を伸ばし続けた。その忌々しいクソ長ポニーテールを引き千切ってやらぁくらいの気持ちでがむしゃらに。
……結果を言えば、在学中の五年間ただの一度たりとも。
守助の名前があの動物園の上に載る事は無かった。
あの名前と一緒に、いつも思い出すものが三つある。
一つは、何を考えていやがるかサッパリわからない、変化に乏しいあいつの面。
もう一つは、あいつと初めて話した日の重っ苦しい曇り空。
そして、
――「次の訓練……ボク、加減しようか?」
席次なんてどうでもいい、欲しいのなら譲ってあげるよ……とでも言いたげに、余りにも素っ気なく放たれた言葉。あいつに取って、一位の座とはその程度のものだったと言う事。二位との競り合いなんて、あいつは些事程度にも意識していなかった。それが明確化されただけ。それだけの事だのに。
「………………」
あの日、思わずあいつの胸倉を掴み上げてしまった右手に視線を落とす。
若気の至りとは言え、我ながら乱暴な事をしたもんだ。今でもずっと後悔している。申し訳なく思う。
……それに、情けない。歯牙にもかけられていない事に腹を立てて掴みかかるなんて……本当、ただただ情けないとしか言えない。
あの後、詫びを入れたら驚くほどあっさり許してもらえたが……。
あれは結局、どこまで行っても俺なんか眼中に無いって話なんだろうな。
「……クソっ」
曇り空の度に蘇る感触。
不愉快なそれを握り潰すように、拳を握る。
……気を紛らわそう。ニコチンフリーでもセラピー作用のある成分をたくさん含んでいる……と言う実に都合の良い謳い文句で叩き売られていたタバコを一本取って咥え――ようとして、指を滑らせた。
「ぬあっ、ちょ、うおおお!!」
三秒ルールなんて不確かなものは信じない主義だ。
形振り構わず全力で手を伸ばして落下中のタバコを空中キャッチ。
「ふぅ、セーフセーフ。いやぁ、対妖怪訓練で培った反射神経が活きたってもんよ。ハハハハ……ハハ、はぁ………………とことん情けねぇな、俺」
本当、溜息が口によく馴染んでやがるぜ……。
高専を卒業した時は「勝負はここからだぞクソ動物園が。テメェの三倍は稼いでやる」と未来に燃えていたと言うのに。今となっちゃあ……くたびれた黒いツナギをだらしなく着こなして、タバコ一本に躍起になる残念なおっさんだ。
それもこれも、あいつが……いや、やめよう。
もういなくなった奴の事は忘れろ。俺の人生には、もう関係無い。
……もう、すべて過去の事。
俺は、何もできなかった。
「……時間、巻き戻らねぇかなぁ」
「モリモリ~? あ、やっぱここにいた!」
屋上とビル内を繋ぐ唯一の扉が騒がしく開き、ぴょんぴょこと飛び出して来たのは小学生……ではなく。ランドセルを違和感なく背負いこなせそうなくらいコンパクトにまとまったお姉さん。俺と同じ黒ツナギの制服を着ている事から御察しの通り、同僚。しかも驚くべき事に先輩だ。
――小嵐実丹。
名が体を表し過ぎたのか、マジで身長一三〇も無ぇんじゃねぇのってくらい小柄でミニマム。だのに俺より目上だってんだから(詳しい歳は断固として教えてもらえなかったが)、人体は無限のファンタジー。
そんなとても小さくて鬱陶しいほどに陽気な先輩が、栗毛を太めにまとめた三つ編みをパタパタ跳ねさせる軽快なステップでこっちに寄って来る。
「モリモリ、曇りの日の始業前はいつも屋上だね! 何か理由があるの?」
今日も今日とて小さな体でノミ虫……じゃなくて子ウサギみたいにぴょんぴょん跳ね回って、まぁお元気だ事。三つ編み様もいつも通り荒ぶっていらっしゃる。そのうち勢いで解けて、「自分でやるよりモリモリの方が上手くて速いから!!」と言う牛丼屋の売り文句みてぇな理由で俺が結い直す事になるいつものパターン。今日はお昼まで持つかね。つぅか面倒くせぇんだよな、他人の髪をイジんの……跳ね回るのやめてくんねぇかな。
「モリモリ~? 聞いてる? ユーは何しに屋上へ?」
「訊いてどうすんスか、ンな事」
「特にどうとも! ただただ可愛い後輩の事なら何でも興味あるお年頃のお姉さんです! ミニミニって呼んでね! えへへ! ほらモリモリも一緒に、えへへのへ☆」
わぁ、うぜぇのぜぇ☆ と言う本音を押し込むべくタバコを咥える。
「タバコ吸いに来てるだけッスよ。ここ喫煙所が無ぇから……あと先輩、毎日のように言っている気がするんスけど、そのモリモリってあだ名やめてください」
「えー、未だに諦めてないの? 粘るね。とろろボーイだ」
もうボーイって歳じゃあねぇけどな……と思うが、声に出すと「お姉さんからすると年下はみんなボーイ、むしろショタまである! 頭を撫でてあげやう! 膝小僧も触ってやろうか!!」と面倒くせぇスキンシップに移行する未来が見えたので胸に留めておく。
「って言うか嫌なの? すごく可愛いのに。元気モリモリ! みたいな」
「可愛いんスかそれ……俺にゃあ快便の効果音にしか聞こえねぇんですよ」
「それはモリモリサイドの問題じゃあないかな!?」
「次にモリモリつったら、俺は先輩の事を脱法児ポ先輩と呼びます」
「せめて合法ロリくらいに抑えて!!」
合法ロリなら良いのかよ……。
「も~……モリモリは相変わらずつれないよねぇ。まさに最近の若い子!! って感じ! 嫌いじゃあないけどね!! 心の扉を無理矢理こじ開ける楽しみがあります!!」
「せめて普通に開けてくれ……つぅか合法ロリ先輩は何でそんなテンション高いんスか。いつもいつも……」
「随分と忌々し気に言うね!?」
控えめに言っても忌々しいからな。
入社初日からこの絡み度でもう一年ちょいだぞ。
慣れはしたけど依然として鬱陶しい。
もう少し距離感を測れよコミュ狂。
「そして愚問だよモリモリ……愚モリ!! ミニミニ先輩が元気なのは、溢れる若き体力がこの小さな体に収まりきらないからです! ……って、誰がチビやねん! にゃはははは!! わたしだよッ!!」
「うっぜぇ」
「モリモリアウト! 普通に傷つく言葉が割と普通の声量で漏れてたよ今!!」
おっと失言。自分の素直さが時々ネックに感じるぜ。
「すんません。今のはさすがに度が過ぎました」
「謝ったから許すよ、可愛い後輩め!!」
「どうも」
いくら何でも先輩に面と向かって「うぜぇ」は社会人的にアウトだ。
ちゃんと本人の耳には永遠に届かないだろう所で言う気遣いを忘れてはいけない。
これ以上ヘマしないようにタバコに火を付けて、健康的な煙を吸う事にお口を使おう。
「あ、そうそう! モリモリ聞いてよモリモリ! ビッグニュースなんだよモリモリモリ!!」
「モリが一個多い」
「盛ってみました!! モリモリのモリ盛り一丁!!」
「……はぁ……で、ビッグニュースってなんスか?」
「先輩のボケを煙を吐くついでの溜息で済ますのやめようか!? 何と今日、うちに新入社員が入るんだって!! モリモリに初めての後輩ができるよ!! まぁ、モリモリと同じ歳だけど!」
「へぇ、随分と急っスね?」
年度初めから今日の今日まで、新人の話なんて微塵も聞いていない。
年々処理屋を目指す若者は減少し「新人処理屋の数に対して、事務所の数が飽和状態だ」と言われている時代だし、小さい所なら新人ゼロなんて珍しくも無いさと特に気にしていなかった。
この合法ロリもこんだけ騒いでいやがる……のはいつもの事だからアテにならんけど、ビッグニュースと形容するくらいだから、きっと本日初耳なのだろう。
それにしても、俺と同じ歳で、梅雨時なんて半端な時期に入社って事は中途採用か。
まったくの他業種から妖怪処理屋になるなんて免許取得難度的に珍種もいいとこだし、元々どっかで処理屋をやってた同業者の可能性が高い。
もしかしたら高専の同期かも知れない。ちょっと興奮してきた。
「その新入社員の名前とかって聞いてきたんスか?」
「うん! でもねぇ、なーんか不思議なんだよねぇ」
「不思議?」
「どこかで覚えがある名前なんだけど……どこだったかなーって……結構、前だったような……」
元有名人って事か?
俺と同世代で、昔有名だったけど今ではもう忘れちまうくらいサッパリ名前を聞かない奴………………………………………………………………………………………………余りにも嫌な予感がして、唇からタバコが滑り落ちる。
フリーズしてしまって、華麗な救出劇を披露する間もなくタバコは地を転がった。
「何かね、こう、動物大集合!! みたいな、すんごい名前で……」
……確定だよなそれ。
ああ、眩暈がする。嘘だと言ってくれ。
てか嘘だろおい。マジかよ。そんな事ってある?
「わっ、モリモリ……何かすっっっごく嬉しそうに笑ってるね?」
「これは表情筋が痙攣してんスよ」
「いや、マジで『モリモリってそんな表情の引き出しあったの!?』ってビックリするくらい良い笑顔に見えるんだけど……久々に飼い主と再会できた大型犬みがある」
「そんなみは絶対に無い。それより、その新入社員の名前――」
確定させてしまう事に躊躇いはある。
だが、確認せずにはいられない。
もう二度と声に出す機会は無いのだろう……そう思っていた奴の名前を、声にする。
「…………猪熊獅子、とかですか?」
「あ、もしかしてモリモリの同期!? すっごい偶然だね!!」
………………ああ、そうかい。そうですかよ。
頬肉が痛いくらい、表情筋が荒ぶってやがる。
テメェは今更になって、また俺の前に立ち塞がりやがるのか。
「猪熊獅子虎狐狼ちゃん! 名前は厳ついけど、すごく可愛い子らしいよ!!」
「……ええ、嫌っつぅほど知ってます」
本当に、ふざけた動物園だ。