アスラ帝国
その昔、およそ四百年前。まだサミエルがイファルの森に住んでいた頃の話。今住んでいるアルラの森に比べれば、世界樹の根から遠いイファルの森はマナに溢れてはいなかった。
しかし、その後ろに聳え立つイファルの霊峰には永い時を生きる地の大精霊が鎮座しており、災害の少ない穏やかな暮らしをしていた。
その平穏を破ったのが軍事力により周辺地域全てを平定してしまったアスラ帝国だった。多くの諸国を支配下に置いてもまだ足らぬと、イファルの森近くにまでその魔の手を伸ばしたのだ。
アスラ帝国の目的は統治ではなくダンジョンであった。ダンジョンとはマナ濃度が高く資源や魔物が多く発生する地帯のことを指す。その資源の宝箱を根こそぎ奪い尽くし、滅ぼした国はそのまま焼き払い、強奪と凌辱の限りを尽くしていく。
その貪欲さにはシンプルな理由しかなかった。アスラ帝国はアスラ帝国至上主義であり、自国を強くするためにはそれこそ人体実験や兵器開発、自然破壊に躊躇いがなかった。アスラ帝国の狙いは精霊やマナを究明し、人間が神に至らんとする目的を掲げた。
その名をエンペラープロジェクト。コンセプトは帝国が最強に至る。アスラ帝国はそれを揺るがぬ理念として狂気的に、盲信的に追及し続けたのだ。
同時期、サミエルの元に帝国打倒を掲げる反乱軍から連盟への加入要請の使者がきた。
サミエルはこれを三度断った。当時のイファルのエルフには他種族には関わらないという掟があったためだ。全てのイファルのエルフ達は不安を抱きながら、自分達だけでアスラ帝国を迎え撃つ覚悟を固めていた。
その覚悟を翻したのは遠見の魔法でアスラ帝国と反乱軍の戦いを見た時であった。
アスラ帝国は一兵卒ですら弱兵がいなかったのだ。一切の躊躇いのない薬物投与と軍事兵器の投入からなる最悪の恐れ知らぬ兵士、それが大量にいる。
サミエルは瞬く間に反乱軍の防衛砦が三つ鎮圧されたのを見届けた直後、跳ね上がるように反乱軍への加盟の文を書き殴り、使者を出した。
大小合わせ32の連盟からなる反乱軍であったが、待っていた結果は敗北だった。
5年間戦いに戦い続けた。そのあまりにも筆舌に尽くしがたく、凄惨な戦争を経てもついぞ勝機を見出せなかったイファルのエルフを含む反乱軍はイファルからの敗走を決断せざるを得なかった。
追っ手は差し向けられたが、如何な圧倒的な力を誇る帝国といえど反乱軍が一丸となった全力の逃避を補足するには叶わなかった。
川を越え山を越え、それでも遠くへと逃げに逃げた。
その時に生き残った反乱軍のそれぞれの長達は誓をたてた。再び帝国の影が迫りし時、我ら一つとて欠けることなく力を合わせ決起せん、と。
サミエルは少年にこの苦い敗戦を伝え終えたとき、近く反乱軍の誓が果たされる運命を感じた。
「さて、精霊様。今の、このサミエルの話を聞いてもなお、戦争を終わらせ、人々を救いたいと言葉に出来ますか?」
「出来るよ」
即答だった。サミエルは黙って少年を見つめた。この時ばかりは敬虔な信者の目ではなく、真偽を見抜かんとする一人のエルフの強い目をしていた。
「今の話を聞いて、止めなくちゃって、強く思ったんだ」
「そのお言葉、このサミエルが信じましたぞ」
側に控えていたエルフ達も異論はないと強く頷いた。
「偉大なる世界樹の根のもとへ我らアルラのエルフの戦士を集めよ! 四百年前、あの暴虐なる帝国に受けた雪辱を果たす時がきた!」
「はっ!」
素早く二人のエルフが駆けていく。
「かつてイファルの森から受けた恩を返す時。イファルの同胞とイファルの森の仇を討つ時……!」
サミエル・ダ・アルラは後悔していたのだ。あの時イファルと共に死ななかったことを。アスラ帝国への幾万もの呪詛が身を焦がす熱に甘んじながら生きてきたことを。
「精霊様に降り掛かる火の粉は、このサミエルが全て振り払って見せましょう」
「一緒に行こう」
少年はごめんねという言葉を飲み込み、儚い微笑みを浮かべた。母の悲しみを止めるために。世界の崩壊を止めるために。
少年とサミエルは、世界が破滅へと向かう足音の大きさに気がついていたのだ。