4.巣立ち-3
*
『あの子が! 普通の子じゃないから! 普通の子が出来ることを出来ないから、駄目な子だから……っ!』
階下から、おかあさんの悲痛な叫びが聞こえる。
そうだ。
その通りだ。
私が、私が、
『どうしようもない人間だから──』
ぜんぶ悪いから……──
ぎゅっと目を瞑るのと、両耳が塞がれるのは、同時だった。
「……え」
「聞いちゃ、だめです」
マルさんが、静かに、しかし、きっぱりと言った。
「あのことば、コトリさんは聞いてはいけません」
ここは、マルさんの部屋の部屋だ。猫山さんに言われて、私はここへ連れられて来た。
下では、私のことをどうするか話し合っているのだろうけれど。
おかあさんの激しい声は、恐ろしさと同時に申し訳なさを私に叩きつけた。
「でも、でも、本当なんです……」
「──いいえ」
「私は、だめな子なんです。悪い子なんです。何にも出来ない、どうしようもない人間だって……」
「いいえ」
「みんながそう、言うんです……」
「いいえ。いいえ、コトリさん。私は、そうは思いません」
マルさんが言ってくれた。そっと、マルさんの手が私の耳から離れて、私の肩を力強く包んだ。
「コトリさんは、やさしい人。きんべんな人です。それは、だめなことですか? ……ちがいます。コトリさんは、いい人です。どうしようもないなんてことは、ありません」
私に言い聞かせるように、ゆっくりとマルさんは言った。でも、私は首を振る。
横へ。
「でも、だめなんです。だって、目が悪くて、光にも、人の視線にも弱くて、学校になじめなくて、いろいろ完ぺきにこなせないのも……そういうのはぜんぶだめなことだって」
弱いことは、人に迷惑をかける。
おかあさんは何度も私にそう言った。
『あんたが身体弱いせいで、どれだけ苦労したと思ってるの』
本当に申し訳なかった。
『光に弱いなんて、みっともない』
おかあさんに一緒に歩きたくないと思わせてしまう、自分が嫌いだった。
『良かったわ。エマちゃんたちと友だちになってくれて。前の学校のあの子たち、陰気臭くて嫌いだったのよね』
静かに一緒に本を読んで、感想を言い合ったり、お花の名前を覚えたりしていた前の学校の友だち二人は、私の大好きな友だちだったけれど、おかあさんは嫌っていた。
今の学校の『エマちゃん』たちは、おかあさんのお気に入りだったけれど、私には辛いお友だちだった。
『何それ、変なのー』
『小鳥ちゃんっておかしいよね。かわいそう』
『まちがってるから、なおしてあげるね!』
『だいじょうぶ! 私たちにまかせてくれればぜんぶ上手くいくから!』
転校生の私に話しかけてくれて、仲間に入れてくれるとてもいい人たちだった。周りの人も『明るくて可愛いいい子たち』と褒めるような人たちだった。
お洒落で、いつもきれいなことや可愛いことに目を向けていて、男の子たちの注意をたくさんひいていた、魅力的な人たちだったのに。
私の好きなものや興味のあるもの……いろいろな本や、古い歴史のこと、死んでしまった動物たちに対する気持ち……を否定されることや、私がみんなの好きなことを同じように好きになれないことは間違っていると正されることが、私はつらくなってしまった。
みんなみんな、親切でやってくれていたのに。
「だから、がんばったんです。なんとか、人並みになれるように……そうじゃなきゃ、だめだから。だから、何とかがんばっていたんです」
去年までは、何とかがんばれていた。
体育は得意でないから(それも、本当はとても情けないことでいけないことなのだと知っている)勉強を完ぺきに、ぜんぶ百点を取れるようにがんばること。
みんなが好きなものを同じように好きになれるように、みんなが教えてくれた通りの女の子に少しでもなれるように。
何とかがんばっていたけれど。
「でも、冬に、熱を出して……それもとてもいけないことだってわかってるけど……出してしまって、それから、どうしても、どうしてもがんばれなくて……」
がんばっても、テストでミスが出てしまう。
百点じゃないと叩かれる。当たり前だ、だって悪いのはミスをしてしまう私だ。
どうしても、道で亡くなっている猫や鳥を見ると、手を出してしまう。気持ち悪がらせてしまうとわかっているのに、やってしまう。
みんなと同じようにはしゃげない。だって、本当は好きではないから。みんながおかしい私を正そうとしてくれるのに、私はずっと、間違ったままだ。
──そんなすべてに疲れてしまって、私は「もう無理だ」と思ってしまった。息が、出来なくなるような感覚。
息が出来ない。
おかあさんに泣きながら訴えたら、怒られた。部屋を閉め出された。
そんなことを言うのは、どうしようもない人間だと。
「だから、私は、厄介で、迷惑ばかりかける子で……」
『あなただって嫌でしょう。あんな手のかかる厄介な子は』
「──……」
父も。
父も、そう思っていたのだろうか。本当は。
みんな、やっぱり私のことを迷惑で厄介な子どもだと。
「! コトリさん……?」
「ごめ、ごめん、なさい……っ」
ぱた、ぱたた。
そう思ったら、急に涙がこみ上げて、止める間もなく溢れた。
「わた、私、みなさんに、めいわくを……っ」
わかっていたのに。自分が、どういう人間かわかっていたのに。
『ご迷惑だから』
母に言われるまで、見て見ぬふりをしていたのだ。
ここにいる人たちがみんな、優しいから。その優しさに甘えていただけなのに。
いざ、それを突きつけられると、こんなにも胸が、苦しい。
「わたし、ほんとうに、ほんとうにごめ」
ぱんっ
目の前で、破裂音がした。
違う。
手を叩く音。神社でするような。柏手の、音。
目の前に、マルさんの手があった。お祈りの形に合わさった手。
その手が、音の正体だった。
「……コトリさん。Stop、stopです」
「マルさ……」
「息を、大きくすって」
私は目を丸くしたまま、とりあえず言われたまま息を大きく吸った。
「はい、はいて」
それを三回くりかえしたあと。
「……おちつきましたか?」
マルさんが言った。
涙も、気付けば止まっていた。私はうなずいた。
「コトリさん。さっき、コトリさんが言っていたのは、おかあさんや、他のだれかがあなたに言った、だれかの感そうだったり、おねがいだったりで、『ほんとうのあなた』のことでは、ありません」
マルさんは、私の目をじっと見つめて言う。
「ぼうりょくをふるったり、だましたわけでもなく、ただ『だれかの言うとおり、のぞむとおり』のことをしないから悪い人なんてことは……ぜったいに、ぜったいにありません」
「でも……」
「もし、それでも何かを悪いというなら、それは」
マルさんの手が、ぽんぽんと私の肩を優しくたたいた。
「あいしょうです」
「……相性?」
「そう。あなたのおかあさんや今までいたまわりの人たちと、あなたとのあいしょうが悪かった。たんに、それだけのことです」
あなたは、なにも悪くありません。
マルさんが、断言した。
「なんどでも、言いましょう。……あなたは、やさしくてきんべんな人。いい人です。今まであなたのまわりの人がそう言わなかったとしても、私は言いましょう」
あなたは、いい人です。
マルさんの目を見た。
深い色をした目だった。嘘のない、目をしていた。
「どうしたって、相手をわるくしかとらえられない、相手を自分のつごうのいいように変えてしまいたいとしか思えないあいしょうというのは、あります。それは、ペンギンが空をとべないくらい、すずめが海のなかをおよげないくらい、変えられないこと。自分にはどうすることもできないこと」
だから、とマルさんは言った。
「そういう相手とは、きょりをおきましょう。はなれましょう。……それがたとえ、家族であったとしても。クラスメイトであったとしても」
ふと、思い出す。
三浦さんの言っていたこと。
『距離をおけばよいと思います。どちらか一方が、あるいは両方が嫌な思いをするなら、それは距離を置けば、たいてい解決します。それでいいんですよ』
「はなれたって、いいんですよ」
「……三浦さんも、言ってました。どっちもが嫌な思いをするなら、距離を置けばいいって……」
マルさんは、にっこり微笑んだ。
「ええ。そのとおりです。それが、一番いいこと。『さんじゅうろっけい、にげるにしかず』です」
「さん……?」
「にげるがかち、ってことです」
そっと、マルさんの温かな手が、私の手を取る。
「にげる先は、あなたがいたいと心からおもうところ。あなたがいっしょにいたいと心からねがう人のところです」
ねえ、コトリさん。
マルさんが問うた。
「あなたは、だれのところに行きたいですか?」
*
「とにかく! 明日にでもまた小鳥を連れ戻しに来ますから……っ」
そう言って、母親は出て行った。
嵐が過ぎ去ったような疲れが、どっと溢れた。
「……何やねんな、もう」
僕は後ろに手をつき、ため息を吐く。
「何なん? あんだけコトリのことけなすなら、逆に何で連れて帰ろうとするんや? 意味わからへん」
僕のぼやきに、猫山が皮肉気に口元を歪めた。
「『世間体』ッスよ。親戚に預けてる自分の子どもが不登校児になってるなんて周りに知られたら厄介くらいに思ってるんじゃないッスかね?」
まあよくある話です、と猫山は言う。
「あの手の親は、子どもは自分の所有物みたいに思ってる節があるッスから。自分の思う通りじゃないと嫌だって、ただそれだけじゃないッスか」
「……確かに、問題がありそうな人ではあるけれど」
奥さんが、頬に手を当て、思案気に口を開いた。
「でも、あの人の言うことも少し、わかる気がするのよ」
「わかる……?」
「あの人、言っていたじゃない?」
『どうせ私が全部悪いんでしょ、みんな私のせいにして、いい加減にして……っ』
奥さんの言った通り、確かにそんなことも吐き捨てていた。
「どうしても、子育てをしているとぜんぶ母親に責任を負わされてしまうでしょう?」
「……いや、父親も負わされるよ」
百さんが、眉を寄せ言う。
「当たり前です。子どものことは、二人のことなんですから。……でも、世間はやっぱり母親の方に多く責任を求めている気がするの。あの人は離婚しているから、よりそうなってしまうわよね」
「……」
言われてみれば、そうかも知れない。
「そんな中でずっと子育てをしてきたら、切羽詰まってしまうのもわからないではないの」
「ははっ」
奥さんの言葉を、猫山が嗤った。
「なるほどなるほど。……よく聞く言い訳ッスね」
むっと奥さんは眉を顰める。
「……言い訳ってあなたね。本当に辛いのよ。誰にも頼れない子育てって。その上でお仕事まで完璧にこなしてって。子どもがいない人には、ぴんと来ないかも知れないけど」
珍しく、奥さんが刺々しい口調で言った。
だが、猫山は怯むことなく、むしろより可笑しそうにくつくつと笑い出す。
「ふっ、ふふふっ、ほんと、はははっ、あははははは! あはははははははははは!」
「な、何なの……」
奥さんが引いた。僕と、百さんも当然引いている。
壊れたんか?
「はーっ、何なんッスかね。みーんな同じこと言うもんッスから、何かおかしくって」
それから、ふっと表情を消した。
「……確かに。確かにそのことは問題ではあるッス。『おかあさん』の肩にのしかかる責任や仕事量の多さについては、私も『こりゃあ、世の中無理させすぎ』とは了解しているッス。もちろん、『おとうさん』の場合もあって、そっちも同じように思うッス。……でも、ですね」
とん、と机を一つ、指で叩いた。
「《《それが》》、《《どうした》》? ……子どもの立場からしたら、その一言ッス。その辛さは、理解はするッス。けど、《《何故それを子どもに押し付ける》》? 『だからしょうがないんだ』と子どもに諦めるように求めるッスか? それを押し付ける先は世間やら国やら周りやらであるべきなのに、《《何故保護対象である子どもに押し付けてそれでいい》》って周りの人間も当たり前に考えてるッスか?」
「!」
「もし、結婚して子どもを作ることによって、今のこの『それがどうした?』を言えなくなるって言うなら」
猫山は、凄まじい笑みを浮かべ、高らかに断言する。
「喜んで! 喜んで私は、結婚だの子作りだのを放棄する! ……一生、その気持ちはわからなくていい!」
「……」
僕らは、その笑みに何も言えなくなる。
人を黙らせる迫力に満ちた笑顔に、僕らは圧倒されていた。
そして、僕らの心に斬り込んできた猫山の言葉にも。
特に、奥さんはショックが深いようだった。
「別に、誰が何をどう思っていようが、構いやしないッスけど」
猫山が、獰猛に目を細め、言う。
「けど、その考えを……子どもに諦めを強要するような心持ちを持っていることは、もはや災害の種を持ってるようなもんだってことは、どっかでわかってて欲しいもんッスね」
その言葉に、僕はハッとなった。
「……あんた、もしかして」
「ん?」
猫山の、深い深い闇の底みたいな瞳が僕を見る。僕は、一瞬ためらったが、
「弟さんを、虐待で亡くしてるんとちゃうか? あんたも、虐待を受けてたんじゃ」
問うた。
猫山は、目を丸くする。ぱしぱし、と音が聞こえてきそうなほど瞬きをして。
「よく、わかったッスね」
「いや……前に、コトリにあんた言うたやろ? 弟さんを災害で亡くしとるって。で、今、災害の種って」
「それでもッス。普通、虐待を災害とは結び付けられないッス」
にこ、と猫山が笑った。
「何でッスかねぇ。あんなの、どう考えても災害なのに。人災ッスよ。子どもにとっちゃ、本当、災害でしかない。避けようのない、無慈悲な、どうしようもない」
「……復讐かい?」
百さんが、首を傾げる。
「前に、君は言っていた。『この仕事は儲からない』って。それなのにこんな風に続けている。……虐待をしている、あるいは虐待になりかけている親に対しての、復讐かい?」
「まさか!」
猫山は、吃驚したように言った。
「心外ッス。あんなやつら、復讐する価値もない!」
それに、と猫山が言う。
「私は、被害者じゃない。……どちらかと言えば、加害者ッス」
「加害者……?」
「……優しい弟に甘えて。私一人だけで、家を出た。私が家を出たらどうなるか……どこかでわかっていたくせに。二人に分散されていた暴力が、弟たった一人に、あの抵抗もしない優しい弟だけに向かうって、どう考えてもわかっていたことなのに。『必ず迎えに来る』って言って。それは、もちろん本気だったッスけど。でも、そんなの言い訳だ」
真っ暗な笑顔で、彼女は続けた。
「そんな、誰かを待つ猶予もないくらいだったのに。それをどこかでわかってたから、自分は飛び出したっていうのに。……だから」
復讐じゃあ無いッスね。
猫山は淡々と言う。
「強いて言うなら、贖罪ッス」
そう言って肩をすくめた彼女の眼には、確かに憎しみよりももっと深く、強い意志がギラギラしているように見えた。
*