4.巣立ち-1
「……大丈夫ですか?」
机に突っ伏して死にかけている僕に、コトリが労わるように声をかけた。
「んあー……アカンわぁ……」
ざあざあざあ。
ひっきりなしに降る雨音が、僕の気分を憂鬱にする。むっとこもる湿気と熱が、より不快感を増長させた。
梅雨。
雨の日は、どうしても調子が悪くなりがちな僕からしたら、本当に最悪な季節。
いや、この時期にぎょうさん雨降ってもらわな、お米を食べる身としては困るのだけれども。
お米大好き日本人にとって、不作は大敵だ。
そんな金持ってへん身としても。
お米が高くなったら泣いてまうわ。ただでさえ小麦製品の値上げにひいひい泣いているのだから、これ以上の値上げはノーセンキューだ。
「あの、お水。たくさん飲まないとって、奥さんが」
「せやな……」
コトリが差し出してくれたグラスを手に取り、くっと煽る。
「あれ、それ何?」
「あ……おこうこと、千枚漬けと、柴漬け……おくさんが、塩分もとらなきゃいけないから持って行ってって」
いつのまにか机の上に置かれたお盆には、お漬物が乗った小皿が乗っていた。
水差しもある。
「せやな……梅雨時は、無自覚の熱中症が怖いっちゅーもんな……」
とりあえず、つまようじの刺さっていたおこうこから頂く。
ぽりぽりとうさぎのように、ちまちま食べ進めていけば、あまっじょっぱい味が口の中に広がった。
……あ、気付けば僕、今日朝から何も食うてへんわ。食欲わかへんかったから仕方ないとは言え、良くないことだ。
「食べられる……?」
「ん。うまい。これなら食える」
ぽりぽり。しょりしょり。
お漬物を食べる僕を見て、コトリがほっと息を吐いた。
ああ。心配させてもうたんか。
悪いことをした。
「……すまんかったな」
ぽん。
コトリの頭に手を乗せれば、コトリははにかむ。
「ううん」
僕も目を細めて、もう一、二度、ぽんぽんと撫でた。
「アカンな。梅雨は、アカンわあ。上手いこと動かれへん。毎度のことやけど」
「毎年?」
「せやね。子どもの頃は、こんなんちゃうかった気ぃすんねんけど。年やろか」
またコトリがお水をグラスに注いでくれたので、それを一口飲んでから。
「コトリは? 梅雨はどない? 気分が憂鬱になったりとかせーへんか?」
「平気」
そう言って、コトリはそっと眼鏡のつるに触れた。
跳ね上げ式眼鏡のサングラス部分は上げられている。
「雨が降ってると、あんまり眩しくないから」
「それも、そうやなあ」
なるほど、確かにそうだ。
鋭い光の無い世界は、コトリにとっては柔らかく、優しいものなのかも知れない。
「ほな、梅雨の間は、コトリに助けてもらおうかなあ」
僕の言葉に、コトリは嬉しそうに、
「はい」
と言った。
*
「そう。やっぱりお漬物なら食べられたのね」
「はい」
おくさんは、良かったわ、と微笑んだ。
「梅雨には一花さんがよくお漬物をたくさん買ってきたり、冷汁や冷茶づけをひんぱんに作っていたから。それを思い出したのだけど」
「あの……冷汁や冷茶づけは、簡単に作れますか?」
父は、梅雨入りしてからずっと食欲がない。
だから、少しでも食べられるものを作れるようになりたいと思った。
「ええ。……そうだ。今日の晩ごはんは冷汁にしましょうか。たくさん作れば、残りは冷凍していつでも食べられるし」
「はい!」
「蝶さんも大変だねぇ」
写真から顔を上げて、三宅さんが言った。
三宅さんは、今日は朝からうちで写真の整理をしている。自宅よりもはかどるらしい。
「百さんも、大丈夫? 調子悪くなってない?」
「まだ平気だよ。私は、どちらかというとこれから先の季節だね。今も暑いけど、どうせ今年もこれからもっと暑くなるだろうからね」
新聞のページをめくりながら、ももさんが「やれやれ」というようにため息を吐いた。
「ももさんも、夏が苦手なんですか?」
私が訊くと、「一番苦手だね」と眉を盛大にしかめて言う。
「君の場合は、光かも知れないけど。私は、あのむっとこもるような暑さがどうにも。……まったく、夏が来るたび、京都に住んでいることを後悔するよ」
「百さんは、毎年、熱中症一歩手前までは確実にいくからねぇ」
「一度なると、あれは癖になるんだよ。一度、ひどいのになってしまってから、癖になってるんだ」
「本当、毎年困りますね」
奥さんがため息を吐いた。
「お前、そうは言うけれど、私が一番、弱っているんだよ。毎度毎度、気を付けているのに、気付けば具合が悪くなるんだからね」
私は、夏の京都は初めてだからドキドキする。
気を付けないと。
迷惑をかけないように、というのもあるけれど、父が倒れたりしないように、というのもある。
もしかしたら、父は梅雨が明けたら大丈夫なのかも知れないけども。
「あ、ねえ。梅雨が明けたら、川床行こうよ。行ったことある? 川床」
「ゆか……?」
私が首を傾げると、三宅さんが嬉々として説明してくれた。
「お料理屋が、納涼のために川の上や川の良く見えるところに作った期間限定の座敷があるんだけど、それのこと。本当は五月からやってるんだけどね」
「お外……」
「大丈夫。川床の昼営業は、五月と九月だけで、他はぜんぶ夕方から夜だよ」
ももさんが、新聞をたたみつつ言った。
「そうそう。だから、コトリちゃんも楽しめるよ。あ、スイーツのお店もあるんだよ」
俺のおススメはねー、と三宅さんがいろいろ教えてくれる。鮎の塩焼きの美味しさとか。意外と素朴な煮物が一番おいしかったお店とか。そこで聞く川のせせらぎや、水の匂い、いつもと違ってみえる京都のまちあかりについて。
「いいなあ……」
「いいんだよ。だから、行こうね」
蝶さんから俺が許可をもぎとっとくし、と言って三宅さんが笑った。
「若者には、どんどん京都の魅力を伝えてファンにしないとね」
「あれ、祇園祭は? 夜も楽しめると言うか、寧ろ本番じゃないか」
「もちろん、お誘いするつもりだけど、やっぱり激混みだから、いろいろ策を練らないとと思って。混雑ばっかで嫌だったなって記憶になったらもったいないし」
良い思い出になるようにしたいじゃん!
三宅さんが、力説する。
「夏の京都は……いや、京都はいつでも魅力的だけど……面白いから、いろいろ紹介するね」
「死ぬほど暑いけどね」
「百さん、水差さないでよ。確かに死ぬほど暑いけど」
「そうだ。コトリちゃん。日傘、買いましょうか。夕方でもまだ日射しはあるし、暑いだろうから、あるに越したことは無いでしょう?」
奥さんが言った。
「可愛い日傘があれば、少しは夏を乗り切る助けになると思うの」
「日傘とサングラスの両方で防げば、一段と安心だろうしね」
ももさんもうなずく。
「ね、今度一緒に買いに行きましょう」
奥さんがにっこり笑った。
「とても可愛い傘ばかり売っている店があるの。日傘も売っていて、どれもとても可愛いのよ」
「……行ってみたい、です」
日傘は、確かに憧れだった。
いつでも日影が自分で作れるなんてすてきだなといつも思っていた。まちで見かけるお姉さんたちがしている日傘は、レースだったり、模様があったり、様々で、興味深かった。
「じゃあ、決まりね」
「今年は、男も日傘を持つのを推奨されてるらしいよ、百さん」
「……男用の日傘が売り出されれば、考えんこともないかな。暑いもの」
「何かね、あるみたいだよ」
夏の話。
今までは、夏が大嫌いだった。
暑くて、陽射しは痛いくらいで、日焼け止めをしていても火傷したみたいになることもあった。
『子どもは夏に外で遊ぶものでしょうが。どうしてそんなに弱っちいの? 外で遊ばないからそうなるのよ。外で遊んで、少しは強くなりなさい』
『夏ってやっぱり一番楽しいよね。夏が嫌いなひとなんていなくない? あんなにみんなが明るい季節を嫌いなんて、おかしいよね』
周りはみんな、夏が好きで、夏が好きなのは当たり前だった。
夏におすすめされる遊びはたいてい外で、私の身体にとってはとても辛いことが多かった。例え、何処かに買い物に出かけるにしても、人混みや冷房で私は気分が悪くなってしまう。
そんな弱い私は、駄目で、いけないのだと何度も言われた。
慣れろ、と。
けれど。
「俺、夏は夜が好きだな。そりゃ夜も暑いけど、まだ昼間よりマシだし。場所によっちゃ、夜はほどほどに空いていたりするから」
「そんなこと、枕草子でも言ってたね」
「そうだ、蛍! 蛍も見に行こうよ。今、見ごろなんだ。次、晴れた夜にでも」
私も楽しめるかも知れないことが、探せば、実はあって。
どうしたらもっと過ごしやすいかを教えてくれる人がいて。
「蝶さんも……あ、慶之助さんや、三浦さんも誘えたら誘って、行きたいな」
私は生まれて初めて今、
「ね、行こうよ、コトリちゃん」
夏が楽しみだと、思っている。
「……はい!」
*
ざああああああ
今日も、朝から雨が降っている。
「あー……」
いい加減起きなければ、と布団から何とか這い出した。のそのそと布団をしまい、部屋を出て、洗面所に向かう。そのあいだにも、掃除機をかける音がしたり、何かをしまったりする音が聞こえていて、今日は特別な来客でもあるのだろうかと首を傾げた(三宅さんは来客にはいれない。あのひとは、もう半分くらいこの家の人だと思う)。
「おはようございます~」
「おはようって、もうすぐお昼よ。蝶さん」
居間で机を拭いていた奥さんが、呆れ顔で言う。
「どないしはったん。えらい掃除して」
「……今日は猫山さんが来るって、前にコトリちゃんが言ってたでしょう」
「……あー」
忘れてた。
「まったく。いつもと違って、ここで私たちも交えてお話するということだから、綺麗にしとかないと」
そうだ、確かそんな話だった。お宅訪問的な。
けど、僕があまりに調子が悪いから、百さんと奥さんが代わりにやってくれるという話になったのだ。
「別にそんな綺麗にして出迎えんでもええんとちゃいます? あの女……」
得体の知れないあの女を、そんな丁重に出迎えなくてもいい気がする。
「そうもいきませんよ。コトリちゃんを預かっているお家として、ちゃんとしたところなんだって思ってもらいたいじゃないの」
ほらほら、蝶さんもちゃんとした服に着替えて。もしかしたら呼ばれるかも知れないんだから、と自室に追い立てられた。
仕方なしに、そんなに見苦しくも無く、かつ着ていて鬱陶しくも無い、新しめのTシャツに、先週下ろしたばかりの綿パンへと着替えた。
街中に繰り出せと言われたら、少々だらしのない格好に見えるが、家の中やご近所だったら、まあ普通程度に見られる服だ。
着替えてから、はたと気が付く。
「コトリは?」
居間に戻って尋ねた。
台所で作業しているのかとも思ったが、先ほど奥さんに挨拶しても顔を見せなかったのはおかしいから、出かけているのだろう。
「買い物に行ったわよ。蝶さんお気に入りのお漬物が切れていたから」
「……まあ、雨やし、大丈夫か」
「行きつけの、いつものお店だしね。美味しいから、猫山さんにも出してあげたいって言ってたわ」
「いや、優しすぎひん? みんなあの女に優しすぎひん?」
「そう邪険に扱わなくてもいいじゃないの。確かに得体の知れなさはあるけど、いい人だってコトリちゃん言ってるんだし」
奥さんも得体の知れへんって言ってもうてるやん。
「そろそろ帰って来るころだと思うんだけど」
奥さんが言ったとき。
ガラガラガラ……
玄関の開く音がした。
「ほら、お帰りなすったわ」
「コトリ、おかえりー」
何買うて来たん?
と聞きながら玄関へ出たけれど。
「……え」
そこに居たのは、コトリだけじゃなかった。
「あなたは、この家のひとですか」
やたら険のある目付きの女と、
「……どうも」
コトリを庇うようにして立っている猫山。
「コトリ?」
「あ……」
猫山の後ろで、コトリが迷子の子どものような顔をして立っていた。
ぎゅっと自分の服の胸もとを握り締めて。真っ青な顔をして、びしょ濡れで立っていた。
「お前、濡れとるやないか! どないしたんや、傘は……」
慌てて飛び出そうとしたら、件の女に腕を掴まれた。
「答えて下さいます?」
「!?」
僕が目を白黒させていると、猫山が言った。
「この方が……コトリちゃんの『お母さん』です」
皮肉気に歪んだ笑顔で。