3.あたらしい先生、埋葬の秘密-①
「……おっきい」
目の前にそびえ立つ門を見上げながら、私は思わずそう言っていた。
大人の人の背丈よりも、その門はぐっと高い。
門の上にも瓦屋根がついていて、とても立派だ。門の向こうには木々が生い茂っていて、どんなお家がそこにあるのかわからなかった。
「あの人のお家は、元華族だからね」
これでも昔は別邸だったんだって。
隣に立つ三宅さんが、そう教えてくれた。
別邸ということは、本当のお家があったということで、たぶんこれより大きいのだろうと思ったらくらくらした。
「えらい人なんですよね」
ももさんからも、父からも聞いた。
『ざっくり言ってしまうと、昔ここらの土地を持っていたというか、お世話をしていたというか、そんな感じのことをしていたお家の人だよ。だからというわけでもないけど、ここらの人は何かあっちゃ、まずその人に相談に行くんだ』
『頭のええ人やさかい、どんな問題もたちどころに解決してまうんや。僕も何度か会うたことあるけど、ありゃすごいお人やで』
「えらい人というか……人として、すごい人だよ」
三宅さんはしみじみとした調子で言った。父もそう言っていた。一体どんな人なのだろう。
「でも、とても優しい人だから、安心していいよ。三浦さんもいい人だし」
何一つ心配することはないからね、と言って、三宅さんはそっと私の頭を撫でてくれた。
私は、こくんと一つ、深く肯く。
私と三宅さんがこの家に来たのには、理由がある。
*
「どないしよう」
夜の十時。居間で大人五人、がん首揃えて悩んでいた。
机の上には、コトリの算数のワークと理科のワーク。
コトリは、毎日よく勉強している。
国語と社会においては、もう一学期の単元を終え、二学期の範囲へ突入しようとしている(柱にいつやるかの目安が書かれてあった)。
英語も(今日び、小学生も英語をするのだ)、マルさんや百さんに教わり、小学生用の英語ドリルをぐんぐん進めている。
だがしかし。
「算数と理科は、進みが遅いなあ」
コトリが来て早一ヶ月。
理数ワークの進み具合は、国社に比べて遅い。しおり代わりの付箋は、初めの初めくらいのところに貼られてある。
「意外と小学生の算数って難しいですよね……」
一朗さんが、ワークをめくりながら唸る。
「解けるんだけど……教えられないっていうか……何でって言われたら答えられないというか……」
「とにかくこの公式を覚えてあてはめていけばいいんだよとしか、言えないからね。教育としては、いけないだろうね」
「私も理数はちょっと……とくいでないですね……」
この家の大人は、揃いも揃って文系ばかり。
コトリに理数を教えてやれる人材が居ないのだ。
「父さんの言うような、『とにかく何も考えずに公式にあてはめろ』みたいに教えるなら、小学生の間はどうにかなりそうだけど……コトリちゃんの将来を考えたら、本当にそれでいいのかな」
一朗さんが眉を顰めて言った。
「これから先、もっともっと難しくなりますよね。コトリちゃんが学校へ行きたくないのなら、せめて教えてあげられる人を用意してあげたいよ」
「かといって家庭教師なんて大仰なものは、あの子は嫌がるんじゃないか」
まったく、百さんの言う通りで。
僕が、コトリの理数の勉強が進んでいないことに偶然気付いてしまったとき、彼女は怯えたような眼で僕を見上げ、「ごめんなさい……」と謝った。
『もっと、もっとがんばりますから……』
と小さな声で言ったのがあまりに哀れで、「いや、わからんとこあったら教えるで。教えられたらやけど」と思わず言ってしまったのだが、それに対しても異常に恐縮した。
もし、お金を払って誰かを雇うことになったら、あの子は卒倒してしまうのではあるまいか。
そもそも。
「……雇う金もありませんわぁ」
僕は頭を振った。
「そのへんは、猫山さんに相談してみたら?」
「ううーん……」
あの正体不明の女か……正直、ごめんこうむりたい。
たまにふらっと現れて、コトリを面談と称して何処かへ連れて行く。
特に何か言われたことは無い。
いつも、あの得体の知れない笑みを浮かべながら「それじゃ、コトリちゃんをよろしくお願いするッスよぉ」と言われるだけだ。
ただ、あの瞳の奥にはいつだってこちらを試すような色がある。
『少しでもコトリに害をなすようだったら容赦しない』という、厳しい色。
彼女の職務からしたら当たり前のことなのだろうけれども。
僕と彼女はそんな剣呑な気配をはらんでいるが、コトリとは関係良好なようだ。
『私と同じくらいの弟さんがいたって言ってました』
そんな話をするくらいには、仲が良くなったらしい。
というか、あの女に弟なるものが存在したことに密かに驚いた。何処かからぬっと生えて来たみたいな得体の知れなさがあるものだから。親兄弟がいるとは驚いた。
『いた?』
『災害で……、って』
コトリの方が痛そうな顔をして言っていたのを思い出す。
その頭をぽんぽんと撫でてやりながら、もしかしたらコトリと亡くなった弟さんを重ねているのかも知れない、と思った。
だから、親身になるし、僕を疑り深く見るのかも知れない、と。
しかし、そんな人間味あふれることを思うだろうかとこれまた失礼ながら思ってしまったわけだけれど。
「いや、それでもあの子は気にするだろうね」
百さんが首を横へ振った。
「……じゃあさぁ」
いきなり居間に響いた声に、全員がびくっと肩を跳ねさせる。
むくりと起き上がったのは、三宅さんだった。
……そうだった。三宅さんも、この居間に居たのだった。
夕方ふらっとやって来た三宅さんは、そのまま晩ごはんもここで食べて、それからちょっとお酒も呑んで、そして寝てしまったのだ。
三宅さんが酔って寝入ってしまい、朝を迎える……ということは、そう珍しいことでもなかった。
「びっくりした……起きてたんだね」
「うん。ちょっと前からね」
くあ、と三宅さんは欠伸をしたあと、にっこり笑って言った。
「俺に、いい案があるんだけど」
*
……私に理数を教えてくれる人が、ここにいる。
私が、理数をあまり得意ではないせいでみんなに迷惑をかけてしまった。きっと、この家の人も迷惑なのだろう。そう思うと、気分が重かった。
「本当に、怖い人じゃないよ?」
三宅さんが、沈んだ顔をしている私に優しく語りかける。
「いえ……みんなに迷惑をかけてるから……その……」
三宅さんだって、このあと用事があるのにわざわざ私をここまで送りに来てくれた。
父が、仕事の打ち合わせで来られないから。
本当に、私はなんて駄目なのだろう。
気分はどんどん沈んでいく。
「全然、迷惑なんかじゃないよ?」
三宅さんは、きょとんとした声で言った。恐る恐る三宅さんの方を見上げる。やはり、表情もきょとんとしていた。
「誰も、迷惑なんて感じてないよ。みんな、好きでしてることだからさ」
「でも……三宅さん、このあとにも用事が……」
「うん。あるけど、でもここから近いし。ていうか、俺が単にこの家に来たかっただけなんだよね」
ここお菓子美味しいし、お家も綺麗だし、慶之助さんと三浦さんはホントいい人だし、いつも来るのが楽しみなんだ!
きらきらした眼で三宅さんが言った。
いつも三宅さんは、そういう眼をしている。
「それに、コトリちゃんをここに連れて来るまでの流れが、本当に俺、好きでさ」
「?」
「だってね」
三宅さんが何か言おうとしたとき。
カシャン
という音がした。そちらを見ると、ゆっくりと扉が開かれるところだった。
「こんにちは、ようこそおいで下さいました」
中から現れたのは、物語に出て来る執事のようなひとだった。
背は高くすらっとしていて、白っぽい金髪、けれど柔和な笑みが浮かべられた美しい顔はたぶん日本人のもの。
何故たぶんなのかというと、そのひともまた私と同じような跳ね上げ式眼鏡を着けていたから。
年齢もよくわからない。父と同じくらいだと言われてもなるほどと思うし、三宅さんと同じと言われても納得するし、ももさんと同じだとしても確かにそうかもと感じる。
不思議なひと……と思うと同時に、あいさつなのだからと慌ててサングラス部分を跳ね上げようとしたら。
「ああ、どうぞそのままで。……私と同じで、お外はつらいでしょう」
優しくそう言ってくれた。
私と同じ、ということは、この人も目が悪いのだろうか。
「初めまして。三浦 喜太郎と申します。どうぞよろしくお願い致します」
深々とお辞儀され、私も慌てて頭を下げる。
「不知火 小鳥です。よろしくお願いします」
顔をあげると、三浦さんがにっこりと微笑みかけてくれた。それから、三宅さんを見て。
「お久しぶりですね、三宅さん」
「お久しぶりです、三浦さん。慶之助さんは元気?」
「ええ。今回のお申し出に大喜びでいらっしゃいますよ。私も嬉しく思います」
さあ、中へ。
誘われた空間は、まるで物語の世界のようだった。
林のように木々が立っていて、若い、春の匂いがいっぱいに満ちていた。緑のトンネル、と思った次の瞬間にはそれを抜けて、生け垣が私たちを玄関へと導いた。生垣の向こうは日本風のお庭なのだろうと、うっすら葉や枝の間から見える様子でわかった。
広いお庭なのだろうことも、向こうの方に続く生垣を見て思う。
お家も、大きかった。
瓦屋根だけれど、全体的な雰囲気は洋風のお家。
和洋折衷、と最近習った言葉を思い出した。
「どうぞ」
大きな木の扉を、三浦さんが開けてくれる。
三宅さんがすいすい入って行って、私はその後ろを恐る恐るついて行く。
中は、いつかの童話で見た立派なお屋敷みたいだった。
入ってすぐに、大きな階段。踊り場にはめこまれている大きな窓は、ステンドグラス。
ステンドグラスには、白いお花が描かれてあった。
何のお花だろう?
私が首を傾げていると、
「……あの花は、グラジオラス。昔の当主が、好きな花だったそうだよ」
左側に伸びた廊下の方から声がした。
そちらを見ると、これまた不思議なひとが立っていた。
白い口布を付けた、着物姿のおじいさん。家の中だけれど杖をついていて、けれどしゃんと背筋を伸ばして立っている。
「お久しぶりです、慶之助さん」
「お久しぶりです、三宅さん。相変わらず元気そうで、何よりだ」
目が三日月型に細められる。口布をしているから顔全体はわからないのに、ちゃんと笑っているなあとわかる笑顔だった。
「そしてそちらが……」
「は、初めまして。不知火 小鳥と言います」
慌てて、かしゃ、とサングラス部分を跳ね上げ、お辞儀する。
「コトリさん、お話は聞いているよ。よう来なすったね」
優しい声は、どこか甘くて、柔らかい感じがした。
「私の名前は、音羽慶之助。……見ての通り、足が悪くてね。顔半分にも火傷の跡があるもんで、こうして隠させてもらってます。顔を見せぬ無礼をどうか許して欲しい」
「いえ……」
なるほど、そうだったのか。
「こんなとこで立ち話もなんだね。さ、あがっておくれ」
通されたお部屋は、白い壁の洋風のお部屋だった。
真ん中に大きな木のテーブルがあって、そこには白いクロスがかけられてある。大きな窓からは、お庭が見えた。やはり、日本風のお庭だった。池の代わりに白砂が撒かれてあり、苔むした燈篭や橋、石がまるで遺跡のように立っている。
「今日のも三浦さんの手作り?」
三宅さんが、アップルパイを頬張りながら尋ねた。
「はい。僭越ながら」
「今日のも、この上なく美味しい!」
「ありがとうございます」
「至上だよ、至上」
白いお皿の上にのったアップルパイは、お店で出されるのよりもちょっと大きくてぽってりした感じだった。優雅なティーポットやティーセットが並ぶテーブルの上では、少々変わり者のように見える。
けれど、そんなアップルパイが、一番このテーブルの上で堂々としているようにも見えた。
「コトリさん、お口に合いますか?」
「は、はい。美味しいです」
私が、こくこくと頷くと、三浦さんはにっこりと笑ってうなずく。
「それは良かった」
「喜太郎のアップルパイは、そんじょそこらのお店のよりも美味しいからね」
切り分けたアップルパイを、慶之助さんは口布をほんの少しだけ持ち上げてその隙間から食べていた。
「慶之助さんお好みのアップルパイだもんね」
三宅さんが、悪戯っぽく言う。
「その通り。……この大振りでざんぐりした形。パイのサクサク感と下のタルト生地の程好い固さ、りんごは甘すぎず酸味がちゃーんと残ってる。ふふ、最高だよ」
「恐れ入ります」
確かに、慶之助さんの言う通りだった。
サクサクで、中のりんごはしゃきしゃき感を残していて、甘いのだけどちょっと酸味があって、ぱくぱく食べてしまえる。
あと、紅茶がとてもいい匂いで美味しい。
緊張してお砂糖を入れ忘れたけれど、それでも美味しいなと思った。
「それで、三宅さん。この件についてだけど」
「はいはい」
「こちらは、そりゃもう喜んでお受けさせて頂くよ。コトリさんみたいな若い世代の人とお話出来る機会はなかなかないからね。ありがたい限りさ」
「あの……?」
いきなり自分の名前が出て来て、私は驚いて隣の三宅さんを見る。
三宅さんは私を見て言った。
「実はね、俺は、慶之助さんから定期的にここへ来ていろんなお話をして欲しいってお願いされてるんだけど」
「私は、若いころは実家を飛び出したり、ちょいと年がいっても、ほうぼうほっつき歩いたりしていた人間だからね。基本的には外の世界が好きなのさ。けど今は何ぶん、こんな足だしね。年もあって、出歩くのが難しくなっちゃって」
「で、俺も慶之助さんたち好きだし、このお家も好きだしで、二つ返事で引き受けたんだけど、ちょっと問題があって」
「問題?」
私が尋ねると、三宅さんは「そう、問題」と言った。
「俺、呼ばれたら、その日約束があっても、そっちに行っちゃうんだよね」
「呼ばれる……? お仕事ですか……?」
「まあ、急な仕事のときもあるけど」
「三宅さんは、土地に呼ばれるお人なんですよ」
三浦さんがそう言って、悪戯っぽく笑う。
「土地に……?」
どういうことなんだろう?
「何かね、いきなりどうしようもなくその土地に行きたくなるの。行きたくて行きたくて、居ても立っても居られなくなって、そこへ出かけちゃうんだよ」
三宅さんが真面目な顔で言った。
「それが、土地に呼ばれるということ?」
「たまにいらっしゃいますね、三宅さんのような方は」
三浦さんは、何でも無いことのように言い、
「そういう人を引き留めては、その土地の神様にも悪いからね」
慶之助さんも、さも当然というように頷いた。
もしかしたらよくある話なのだろうかと、とりあえず私もうなずいておいた。
「でも、そういうことが何回も続くときがあって、あまりに続くと、わかってもらっているとは言え、悪いなあと思うんだ」
「寂しいことは寂しいけど、仕方のないことさ。気にしちゃいないよ」
「それでもね。……そこへ、今回のコトリちゃんの話だよ」
「私の?」
そう、と三宅さんはにっこり笑うと言った。
「コトリちゃんは、よほどのことがない限り、『この日にお勉強見て下さい』って言ったら、その日に来るでしょ?」
その通りだから、こくんと一つ首を縦に振る。
「それが、慶之助さんや三浦さんにとってありがたいんだよ。もちろん、俺にとってもね。コトリちゃんが、ちゃんとここに定期的に来てくれて、慶之助さんたちとお話してくれる代わりに、お勉強を見てもらうっていう、これはいわば契約なんだよ」
そこまで言って、「あ」と三宅さんは慌てて言い足した。
「定期的って言ったけど、あくまでコトリちゃんが来たいときでいいからね。慶之助さんたちもそう言ってるし。学校や塾みたいに曜日決めてとか、そんなんじゃないから」
「そうそう。無理はしなくていいよ。もし今日話してみて、来たくないなあと思ったら、それを素直に三宅さんに言ってくれてかまわないからね」
「いえ、あの……大丈夫です」
私は、今度は首を横へ振る。
たぶん、私が学校へ行きたくないということを聞いているから、気にしてくれたのだとわかった。
けれど私が学校へ行きたくない理由は、定期的な外出が嫌だというわけではなかったから。
「それなら、良かった」
三宅さんが、にっこり微笑んだ。