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4.巣立ち-5


 *


 次の日。

 昨日と同じ人たちが、昨日と同じく居間にそろった。

 時間まで、ほぼ同じ。

 違うのは、私が初めから父の隣に座っていること。

 私は、お気に入りのエプロンを身に着けていた。胸元には、マルさんに貰った小鳥のブローチ。今日も、つるりと触り心地よく、白く輝いていて、私を勇気づけてくれる。

 めがねはかけるか迷って……やっぱりかけた。

 パチンとサングラス部分を下げて。

「コトリの安心する方を選び。勇気の出せる方を」

 父が、そう言ってくれたから。

 視界が優しくなるのはもちろん、これは父からの……ある意味では一花お母ちゃんからの……初めてのプレゼントだから。

 おかあさんは、私のめがねを見て眉をしかめたけれど、特に何も言わずに話を切り出した。

「小鳥は、一度引き取ります。その上で、猫山さんにもう一度、ちゃんとしたご家庭を探してもらえるようお願いするということでよろしいでしょうか」

 おかあさんが、ギッと猫山さんを見る。私の心臓は、ドキドキと嫌な感じで鳴ったけれど、そっと胸に手を置いてそれをなだめた。

 大丈夫。きっと、大丈夫だから。

「あの」

 猫山さんが何か言おうとしたけれど、それより前に父が話し始めた。

「不知火さんにとったら、僕は頼りない若輩モンで、至らないところも多いと思いますが」

「……」

 おかあさんが、探るような目で父を見る。

「けど、一花がコトリを……コトリさんを引き取って育てたいと願ったように……僕も、コトリさんと一緒に暮らしたいと思います。一花は、もうおらへんけど、でも、一花と三人で。いや、ここの人らと一緒に、みんなでコトリさんの成長を見守りたいんです」

 父の言葉は、昨日と同じだ。

 でも、嬉しかった。

 何度聞いても、きっと嬉しいと思う。

 誰かが、自分といたいと思ってくれているのは。

「子どもを育てるのを甘く見ないで! 童話作家だからって子どものことがわかるなんて思ったら大間違いなんだから!」

 おかあさんが、バンッと机を叩いて言った。びくりと、どうしても身体が震えてしまう。

「そら、もちろん。今やって、百さんや、ここにいる人たちに助けてもろてやってますから、それは、わかってます」

「いつまでも助けがあるなんてそんな甘っちょろいことを」

「わたし……っ」

 思わず、声が出た。おかあさんが、すごい形相で私を見る。

 私の心臓は一度止まったのではないかと思うくらい、ぎゅうっと痛んだ。

 それでも。

「私……ここで、暮らしたい……っ」

 私は言った。

 声は掠れてしまったけれど、それでも言った。

「おかあさんが、引き取りたいって言ってくれるの、うれしい」

 誰かが自分と一緒にいたいと言ってくれることは、嬉しいこと。

 だから、今回のことも少し嬉しかった。

 例え、私を学校に行かせるためでも、もっと『ちゃんとした』人間にするためでも、おかあさんが私を一度引き取ると言ってくれて。

 怖いけど、悲しいけど、苦しいけど、……私は不出来で、おかあさんの理想の子どもにはなれなかったけど、でもやっぱり、

「おかあさんのこと、大好きだから」

 どうしたって、そうだから。

 でも、苦しいのも、本当だから。

「けど、ここにいる人たちも、みんな、みんな好き。みんな、いい人たちで、たくさん、知らなかったことを知れて楽しい。ぜんぶ、すてきで、好きで、だから、だから……」

 私は、もう一つの、私が好きだと思う、私といたいと思ってくれる人たちと暮らしたい。

 決して、おかあさんが嫌いなわけじゃない。

 両方好きで、ただ私が息のしやすい場所にいたい。

 それだけなんだって。

 どうか、伝わって欲しい。

 どうか。

「──甘やかしてくれるからでしょ」

 おかあさんの声が、冷たく私の願いを両断した。

「甘やかされて、好き勝手出来るからそう思ってるだけでしょうが。でも、そんなの、ここの人たちはあんたに責任がないから出来るのよ。あんたがどうだっていいから、あんたがこれからどうなってもいいから、そんな勝手にさせてるだけ」

「ち、ちが……」

 私は慌てて否定した。

『未来のコトリちゃんが困らないため』

 ここの人たちが、悩んでくれたことを私は知っている。

「ちがうよ、おかあさん。だって」

 けれど。

「だってじゃない! あんたは、楽な方に流れていってるだけなんだから! あんた、そのまま行ったら駄目になるよ」

 ぴしゃりと言葉で打たれて、私は何も言えなくなる。

 駄目になる、そう言うおかあさんの眼は本気だった。

 ──届かない。

 手が空を掴む感触。底へ落ちていっているのに、何処にも手が引っかからない感じ。

 私は、もう何も言えなくなって……あれだけ優しさをここの人たちにもらっているのに、それを説明することさえ出来なくて、そんな自分が嫌で、俯いてしまう。

 ハア、とおかあさんの大きなため息が聞こえた。

「あんたがちゃんとした人間になれるように、一人前の人間になれるように、私は厳しく言ってるのに。それなのに、あんたは、そうやって楽な方に行こうとする。私を悪者にして」

 そうじゃない、と言うように首を横へ振っても、おかあさんは続けて言う。

「そうだよね。いつもそうやって私ばかり悪者にして。私の気持ちも知らないで。……本当はおかあさんなんか嫌いなんでしょ。いらないんでしょ。そうやって突き放して、もう二度と会えなくなっても知らないからね」

「っ」

 違う、ちがうの、おかあさん!

 私はもう、言ってしまおうかと思った。

 わかった、ぜんぶおかあさんの言う通りにする。もうわがままは言わない。苦しいのもがまんする。次こそ、次こそちゃんと上手くやるから……。

 お願いだから、そんなこと言わないで。

 けれど。

「……それは、言うたあきません」

 ぐっと私の肩を押さえる温かな手があった。

 言おうとしていた言葉が、すっと押し戻される。

「そんなん言うたら、どんな子どもでも、自分の望みや願いを捨てておかあさんの方に行ってまいます。それが、どんなに辛いことでも選んでまいます。……ましてや、コトリは」

 父が、おかあさんを真っ直ぐに見て言う。

「優しい子です。まじめな子です。おかあさんにそんなん言われたら、何でも我慢します、言うこと聞きますって……なってまうやないですか」

 それはあかんでしょう、と静かに言った父を見上げて、私は目を瞬いた。

 ……どうして、私の思っていることがわかったのだろう。どうして。

「どこに出しても恥ずかしくないように育てたつもりなのに。何が間違ってたのかしら……」

 そんな私を見て、おかあさんが苦々しげに、そう言った。

 やっぱり、私は駄目なんだ。

 わかりきっていたことなのに、私の胸はまたずきんと痛んだ。

 と。

「……ずっと気になっていたのだけれど」

 そこへ、何でも無いような口調でももさんが、すぅっと割って入った。

 それは、ぼこぼこと湧き上がったお湯に水を差すような感じだった。

 この部屋の空気が、しんと一旦リセットされる。

「あなたの言う『どこに出しても恥ずかしくないように』とか、『ちゃんとした人間』とか、それは『誰』の、『どこ』の基準なのだろう?」

 心から不思議そうにももさんが問う。

 空気を変えようとか、話題を変えようとか、そういうものではない。

 たぶん、本当にももさんは不思議に思った。だから、今聞いた。そんな感じだった。

 それは、授業中、不機嫌な先生がお説教していても、疑問に思ったことはつい聞いてしまうクラスの男子のようだった。

 きょとんとした顔で。

「そんなの、世間一般的に当たり前のことで」

「うん。だから」

 ももさんが、小首を傾げる。

「どこの『世間』のことを言っているんだいって聞いたのだけど」

 父も、猫山さんも、みんながももさんを「え?」という視線で見つめていた。

「『世間』なんて、自分がいる場所によって違うものだろう? 国や、地域でも違うように。もっと言えば、会社や、それこそ『家』単位でも違う」

 じ、とももさんがおかあさんを見る。

 何かを透かして見るように。

「……ねえ、あなたは『誰』にコトリちゃんを見せて、『恥ずかしくない』って言ってもらいたいんだい?」

「……!」

 おかあさんが、目を見開いた。


 *


 百さんが、淡々と続ける。

「コトリちゃんみたいな子を、私は職業柄、何人か知っているよ。……ここは古いまちだから、古くからある家がごろごろある。それで、そういう家に話を聞きに行ったりすることも多くてね。よく見るんだ」

 母親が、訝しげに百さんを見た。

「ここにいる鳥田百太さんは、古都に関するエッセイスト、けっこう有名な人ッスよ」

 知ってる、と母親の口が声には出さずそう言った。

「年の割に、いい子で大人しい。いい子過ぎるほどに。何か、抑圧的な感じで。……いい家に生まれて、その家が出して来る条件、例えば、いい学校に行けだとか、良いお友だち……ま、お家柄の『良い』お友だちだね……を作れだとか、そういうものを満たさなくちゃ、そこで生きていくこともままならない子どもたち。そういう子に、コトリちゃんはよく似てる」

「……」

 百さんは「言っておくけど」と前置きする。

「私はそれを悪いとは思ってないよ。良いとも思ってないけど。それは、それぞれの家のものだから、勝手にしてというところかな。はたが口を出すことじゃあない。でも」

 百さんの眉が寄せられた。

「人によって向き不向きがあるな、とは思っている。そして、不向きな人は、そこを出てもいいのではないかと正直、私は思っている。その方が、すべてうまく回る気がする。本人も、その家も。……そういう関係もまた、あるものだと」

 奥さんが、思案気にうなずく。

「勝手な想像で悪いと思うし、それこそ人の家の事情に口を突っ込むみたいで嫌なのだけど、あなたが嫁いで離れた家、コトリちゃんのお父さんのお家は、そういうお家だったんじゃないのかい」

「……」

 ふい、と母親が顔を逸らした。ビンゴだな、とたぶんみんなが思った。

「そういうお家のあれそれは、きっとコトリちゃんには不向きだろう。恐ろしい中で、よく彼女はがんばったと思う」

 コトリが、吃驚したように百さんを見る。

 ……せやな。自分のことを言い当てられたら、誰でも吃驚するわな。わかるよ。

「もちろん、おかあさんもね」

 奥さんが、優しく言い添えた。母親が、ぱっと奥さんを見る。

 その仕種は、先ほどのコトリの仕種と似ていて、やはり親子なのだなと知る。

「だから、その家を出たんだろう? あなたの為に、コトリちゃんの為に。……それは、私はとても正解だと思う。それなのに、何故だろう」

 百さんは心底不思議そうに言った。

「あなたは、まだその家の基準でコトリちゃんを見ているような気がする。その家の基準でコトリちゃんが育たなければいけないような、そんな強迫観念で動いているように見えるけれど」

「……」

 母親は息を呑み、反論しようと顔を上げ、しかし言うべき言葉を見付けられなかったのか、また俯く。

 ぐっと手を強く握り締めたのが、わかった。

「……あなたたちに、何がわかるというの」

 母親の、地を這うような声。

「そう育てなきゃ、あの人たちは小鳥を認めないの……っ。小鳥の個性がどうあろうが関係ないの、そうじゃなきゃ、私が小鳥をちゃんと育てていっていると認められないの。そんなこと、どうせわからないでしょう……!」

「うん、だから」

 百さんが、首を傾げる。

「どうして、もう離れた人たちの言うことを気にするんだろう? もう、終わったことじゃないか」

「!」

「せっかく、離れたんだから、別にかまやしないと思うんだけどね」

「それは……!」

 母親は声を上げたが、そのまま、唇を噛んだ。

 ……何となく、わかった気がする。

 確かにその家から離れた。けれど、その家に対する鬱屈はまだ何処か燻っているのだろう。

 けれどもし。もしコトリを、自分一人の手だけで、あの家が求めたような完璧な人間に育てられたとしたら? 誰も文句を言わないような……いや、むしろ誰もが褒めそやすような、わかりやすく典型的な才女としてコトリが成長を遂げたら?

 しかも、その間に自分は自分で、ずっとやりたかった仕事上の成功も手に入れる。

 それはとても、とても溜飲の下がる素敵なことではなかろうか。

 母親が、そう思ってしまったとしても不思議は無いな、と思った。

 でもそれは、コトリの個性からはかけ離れた夢だ。

 母親が叶えられるのは、自分の仕事で、自分の望むような成功を手に入れる、その一点だけなのだ。

「……なまじ、コトリちゃんがいい子で聞き分けのいい子だから……ギリギリまで我慢出来てしまう子だから、夢を見続けてしまったのかも知れませんね」

 奥さんが、ぽつんと言った。

 コトリが、困った顔になる。それを見て、慌てて奥さんが言い足した。

「違うの。コトリちゃんが悪いわけではないの。もちろんお母さんもね」

「へえ」

 何か言いたそうな猫山を視線で黙らせて、奥さんは言う。

「でもコトリちゃんはきっと限界で、がんばりすぎて今は休みたいときだと思うんですよ」

「……いつまで休むって言うの」

「そうですね……。お母さんも、きっとコトリちゃんを見ると、コトリちゃんが無理してがんばってくれていた頃を思い出して、もう一度そうなってくれたらと、今は思ってしまうと思うんです。悪いことでは無くて、人間って、きっと、みんなそうだと思うから。誰でも、そんなことがあるでしょう?」

 母親は、奥さんの言葉に黙って耳を傾けている。

「だから、一度、距離を置いてみるのがいいんじゃないかしら。それぞれが、それぞれのやり方で生きられるように。そばにいて、個性を潰してしまったり、悔しい思いに駆られたりするよりは、そっちの方がよっぽど穏やかに、温かに『親子』を感じられるだろうから」

 その方が、お互い倖せなんじゃないでしょうか。

 奥さんが言って、母親に笑いかけた。

「そりゃ、子どもを自分の手元ではないところに預ける不安は大きいと思います。……私も、二番目はそうしたものだから、わかるつもりです」

「だったら、何で」

「だってその方が、あの子も、うちの人も、みんな……ぎくしゃくしなくなったんです」

 百さんが、そっぽを向いて眉を顰める。

 ……二番目の息子さんは、そんな経緯があったのか。早くから家を出たことは知っていたけれど。

「あの子が、生き生きした顔になって、望んだところで生きているのを見たら、『ああ、良かったな』って素直に思えたんです。寂しさよりも、いつの間にか」

 ねえ、お母さん。

 奥さんの語りかけ方は、優しかった。

「別のところで……子どもさんが望んだところで生きるのを、ちょうどよい距離で見守るのも、いいんじゃないでしょうか」

「でも、世間は」

「……『世間』がどう言おうと」

 百さんが、そっぽを向いたまま言った。

「例えば、カッコウやホトトギスは、誰が何と言おうと托卵をするだろう。体温の変動が激しい自分よりも、絶対に卵を孵化させて育ててくれる他の鳥の巣へ。……我が子のために」

 淡々と、訴えかけるでもなく、ただ事実をそのまま読み上げるような、そんな口調で。

「確実に我が子が成長するために。それが、カッコウやホトトギス、托卵する生き物の『子育て』だよ。これも立派な『子育て』だと、私は思うよ」

 ちなみに、と百さんは付け加える。

「元の巣の雛を追い出す種が有名だけど、一緒に育つ種もあるから、一概に卑怯だの残忍だの言えないところもあるからね」

 どう思おうと自由だけど、一応言っておくと締めくくった。

 それはもしかしたら、二番目のお子さんを預けたことに対する葛藤の末、導き出された百さんの答えなのかも知れない。

 家を早くに出ることによって、自分の倖せと成長を得たお子さんを見ていて、思ったことなのかも知れなかった。

 勝手な推測だけれど。

「……帰ります」

 母親は、立ち上がって、こちらを見ずに、コトリを見ずに部屋を出た。

「おかあさん!」

 コトリが、まろぶように立ち上がって、それを追う。

 僕も慌ててそれに倣った。

 母親は立ち止まらず、振り向くこともなく、玄関へ真っ直ぐ進んで、靴を履いた。

「おかあさん……」

「小鳥」

 母親が、扉に手を掛ける。

「あんたは、もう家を出たの。あんたが望んで、私のところから今日巣立って、もう独立したの」

「おかあさ」

「帰る家は、もう無いと思いなさい」

 ガラガラガラガラ

 引き戸が開き、

 ざああああああああああああああああ、と雨の音がより大きく耳を打つ。

「あんたが選んだんだからね。……それを忘れないで」

 ガラガラガラガラ……ピシャン

 雨音が、また少し遠くなる。

 それに混じって遠ざかる靴音は、すぐ聞こえなくなった。

「おかあさん……」

 コトリの眼から、ぼたぼたと涙は落ちた。

 いくつも、いくつも、涙は零れた。

「おかあ、さん……」

 僕は、コトリの頭を優しくぽんぽんと叩く。

「あの……」

「うん。わかっとる。わかっとるから……」

 僕と暮らすのがやっぱり嫌になったとか、ここよりも母のもとが良いとか、そういうことではないこと。

「今は、泣きたいだけ泣いとき」

 ただ寂しくて、悲しくて、やるせないのだということ。

 大人の僕ではなく、子どもの僕がそれを知っている。

「うん……」

 泣きじゃくるコトリと並んで、ずっと玄関で閉まったままの扉を見ていた。

 雨音は、ずっとざあざあ鳴っていた。

 ひっきりなしに、鳴っていた。


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