第7話 十ポンド札
いわくつきのロンドン塔を背に、ロッテを取り囲む妖しい影たち。ピサールが突撃の合図をするも、いくつもの影が消え失せた。
僕が消し去ってやったのだ。居合わせた連中の驚いた顔。人の期待や予想を裏切ることほど楽しいことはない。ほうけたようなピサールに言ってやった。
「僕を無視するんじゃない。ちょっと個人的な用があると言っただろ」
「おまえ、どうして……。何の力もなしに、影を消し去ることなどできるわけがない。何かあるのか?」
「あるともあるとも。聞きたかったのは、こいつに関してだ」
言って、僕は十ポンド札を取り出した。
「さて、お立ち会い。このお札、切ることも、破ることも、燃やすこともできない。例えばこう」
十ポンド札にライターの火を近付けて見せるが、燃えるどころか、くすぶることすらない。僕はちょっと火傷したが。
「な? さすがは、イングランド中央銀行発行のポンド札だろう?」
「そんなわけないじゃない」とロッテが笑う。
「ふむ。君の心の庭に忍耐を植えよ、その草は苦くともその実は甘い」
「なにそれ?」
「特に意味はない。とにかくだ。こんなお札の話を聞いたことはないか? 百枚ほどあるはずなのだ。蛇の道は蛇。教えてくれたら、それなりの礼はしよう」
「どんなお礼かしら?」
「僕の熱い抱擁とかどうだろう」
「絶対、教えない! 知ってても教えない」
「その様子じゃ、ハズレか」
「……俺も知らん」
ピサールが不機嫌そうに言う。「その話と影の消滅と、なんの関係があるんだ」
「それはだな、僕のように有能な骨董商ともなると、古今東西の名品珍品が手元に集まってくるわけだ。中には呪い付きのものもある。それこそ、おかしな影や幽霊付きのな。
そいつらを、このお札を縫い込んだ手袋をつけてブン殴ってやると消え失せるのだ。お札自体が呪いの産物だから、反発するのだろうな」
「面白いやつだな。だが、俺たちは忙しい。また暇のあるときにな」
「まあ待て。もうひとつ聞かせてくれ。この世に悪魔がいるとして、そいつを殺せるだろうか?」
「無理だね。人知を超えた存在をこそ、神だの悪魔だのと言うのだからな。人が殺せるとしたら、そいつは悪魔じゃない」
「なるほど、なるほど。仰せごもっとも。それでは、そちらのお嬢ちゃん。悪魔を殺せるかい?」
「お嬢ちゃんって。見たところ、あんたもたいして歳は違わないでしょう? あたしはロッテ、シャルロッテ・ハイネよ」
「では、ロッテ、聞かせてくれ。この世に悪魔がいるとして、そいつを殺せると思うかい?」
「どうして殺すの?」
心底、わからないというように首を傾げて言う。
「だって、いい悪魔かもしれないじゃない」
「ははは、そうかそうか。よし、わかった。僕は、この子の味方だ」
久々に愉快な気持ちになって、ゲイルを踊らせ続けていた影を消し去った。荒い息を吐きながらも、影から逃れたゲイルが何事かつぶやくと、その背中から滲み出すように、黒々とした大鴉と馬とが現れた。
しまった! と、ピサールの声が聞こえる。しかし、その時にはもう、ロッテは大鴉に、僕とゲイルは馬に飛び乗って風のように疾走していた。