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第36話 エギルの銀 後編


 気付くと、周囲は厚い氷に覆われた洞窟で、その奥に氷漬けの少女がみえた。艶のある銀髪に、しなやかで白い手足は生けるがごとく、麻布のドレスを銀細工で飾られている。


「これは、まさかこれが……」


「さよう、この娘がエギルの銀ですな」


 僕の疑問に答えたのは、昨日の男だった。少女の傍らにひざまずくようにしている。


「警告を無視しおって。ここから生かして帰すわけにはいかぬ」


「おまえは何者なのだ?」


「聞かずともわかろう。この娘を護り続けてきた。狼の夜が来るその日まで。宵の狼は、秘密を知る者を許さぬ」


 洞窟の中に、轟々と氷雪が舞い始めた。宵の狼を名乗る男が四つ足になって牙をむき出しにする。


「貴様ら全員、ここを墓場と心得よ」


「誰の墓場だって?」


 ボスがぐいと前へ出た。両手に巨大な火球を持ち、宵の狼と対峙する。逆巻く氷雪が炎に呑まれては消えていく。


「なかなか楽しそうな相手じゃないか。エギル・スカラグリームスソン、古きヴァイキングの亡霊か」


 氷雪を捲いて飛びかかる宵の狼とぶつかり合う。火球が消え失せ、もうもうと蒸気が立ち込めた。

 蒸気の渦から弾き出されるようにして、宵の狼の頭が転がり落ちる。首だけになった男は、しかし、狂ったように哄笑をあげてみせた。

 千切れた首の端からは血の代わりに水が滴り、それがパキパキと凍って色が付き、衣装となり、わずかな時間で男の体となった。何事もなかったように立ち上がった男を見て、ボスが眉をひそめる。


「妖精は血の代わりに水が流れているというが、亡霊も同様か。面倒だな」


「私は、この娘を護るために存在する」


 宵の狼が再び四つ足になって吠え立てると、激しい吹雪が巻き起こり、その場にいる者を凍てつかせる。自分の体が凍りついてくるのがわかる。目を開けていられない吹雪の中、耳元で怠そうな声が聞こえた。


「へーい、だいじょうぶかぁ?」


 声に続いて、体が温まってくる。目を開けると、凍えたゲイルを抱えて、ピサールが吹雪を撥ねのけるようにしていた。

 白く氷雪に覆われた世界に、その周囲だけが熱を帯びて丸く浮かびあがっている。と、外周で猛り狂っていた吹雪が不意に治まり、視界が開けた。


 目に入ったのは、斜に構えて立つボスと、頭も体もばらばらに砕けた宵の狼の姿だった。


 ボスが手を振ると、砕けた欠片が溶けて蒸気となって立ち込めた。

 しかし、立ち込めた蒸気は寄り集まると人の形を取り、宵の狼を名乗る男の姿に戻っていくじゃないか。それを見たボスが舌打ちする。


「楽しいどころか面倒くさいだけか。氷漬けの死体に執着する亡霊ね。あの死体を燃やし尽くしてやれば、それで終わるかな」


 ボスが片手を突き出し、くるくると空気を掻き回してみせた。回すたびに熱気が増し、景色が揺らいで見える。はっきりと目には見えないが、ぐにゃぐにゃと丸い熱気の大玉を整えるようにすると、トンと片手を押し出す。歩くほどの速さで、ゆらゆら陽炎を立てながら熱気の塊が進んでいった。


 間に入って止めようとした宵の狼が、また蒸気となって霧散する。元に戻る間もなく、その揺らぐ熱気が氷漬けの少女に迫るが、


「しょうがねぇなぁ〜」


と気怠げに、ピサールが熱気を撥ねのけた。


「ぐぅ、あっちぃぜ〜」


「おいおいおいおい、ピサール。なぜ、そんなことをする? あっちが襲ってきたんだぞ。恨みこそすれ庇う義理はないだろう」


「へへへ、ボス。あんたはやっぱり本当のボスにはなれねぇぜ〜」


「ふぅん、護るのは女子供だからかい」


「そうさぁ」


「死体でもか」


「死体でも、亡霊でも、妖精でもだぜ〜」


「そうかい。なら、一緒に死ね」


 ボスの指先が光ったと思うと、ピサールの左肩から鮮血が疾った。ぐぅと呻いて崩れ落ちる。


「おや、心臓を狙ったのに少し外れたな。今度は、大きな弾丸でいこうか。エギルの銀ともども消し炭にしてやる!」


 洞窟の氷壁が溶け始めていた。ボスの眼前には大の男を飲み込むほどの大きな火球が生じ、ごうごうと燃え盛っている。暗い悦びに満ちた笑みを浮かべて、ボスが手を振り下ろした。


 考える余裕もなく、僕は倒れたままのピサールを庇ってボスの攻撃に身を晒していた。燃え盛る火球が迫り、髪が焦げ、服が燃え上がる。

 やばい、やばい、死ぬ、死んでしまう。走馬灯が浮かんでくる代わりに、昨日、冷やしておいたジュースをロッテに飲まれたなんて下らないことを思い出しながら意識が朦朧としてきた。


「やばい、死ぬ。本当に死ぬ! レグバ、早く出てこんか!」


 叫ぶと同時に、熱気の塊が一瞬で凍り付き、ごとんと落ちて割れた。その影から、葬儀屋のように黒いスーツに黒いネクタイ、目を瞑ったままの若い男が姿を現わす。


「んー、不本意ですが仕方ありません。ええ、ええ、御客様、私こそが四辻の悪魔、レグバでございます。

 もう少し焦げてもらっても良かったかもしれませんね。本当に迷惑です。考えなしに突っ込むのは、やめてもらいたいですな。英雄的な死に方なんぞしようものなら、不味い魂になってしまいます」


 周囲を見回し、倒れ伏して肩の傷に喘いでいるピサールの姿を目に止めると、その頭を踏みつけた。


「またあなたですか。少しキツめに踏みつけておきましょう。風船みたく破裂しますかね」


「ちょっと待て、今回の原因はあっちだ」


 僕が指差した先には嬉しそうな表情のボスが立っていた。片手を竜の鉤爪に変えながら、


「四辻の悪魔だって? 面白いな」


と、つぶやいてレグバに向かってきた。

 鉤爪でレグバを捉えて締めつける。ぎりぎりと握り潰そうとするが、乾いた音がして、触れたところからぱきぱきと、鉤爪が枯れ落ちるように崩れていく。


「なんだと?」


「はっはっはっ、人間にしてはおかしな力を持っているようですが、相手が悪かった。分をわきまえなさい。貴方の魂は良い色合いですね。いやはや、なかなかに美味しそうだ」


 ちょろりと舌を出して細い目を開くと、枯れ落ちていく鉤爪から先、ボスの体が潰れ、圧縮されるように小さくなっていく。

 悲鳴と血溜まりを残してボスの姿が消え、代わりに、指先ほどの黒い塊が血溜まりに落ちた。長い指でそれを拾いあげると、レグバは、うっとりとした表情で、氷壁に透かすようにしてみせる。


「どうですか、この醜悪さ、どす黒い色味。魂というのは、こうでなければ。目覚めたら芋虫だったという小説があるでしょう? あれみたいにね、魂を芋虫に変えてやったのです」


 長い指につまみあげられたそれは、たしかに芋虫のようで、もぞもぞともがいていた。血に濡れて、暗く禍々しい美しさを撒き散らしている。


「ふふふ、美味しそうでしょう?」


 口を開けて、頭から芋虫をかじる。じゃりっ、砂を噛むような音がして頭半分を喰われた芋虫は、まだぴくぴくと動いていた。

 大事そうに、もう一口、もう一口とかじり、最後のかけらを口中にしまい込むと、満足そうに指先を舐めてみせた。


「ふぅ、美味しかった。私としたことが、はしたないところを見せました。悪い魂ほど美味しいのです。

 なかなかのものでした。これほどのものを出していただけるなら呼び出されるのも悪くありません。ではまた、いつでもお呼びください。……などと言うと思いましたか?」


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