信じてくれない
その日の真夜中に、青葉は急に目を覚ました。辺りは静まり返り、窓の外も真っ暗だった。青葉は、灯りを付けて廊下に出て、トイレに向かった。青葉の部屋からトイレまで廊下の端から端まで歩かなければならない。青葉は、眠れない夜が来る度にそれを思い出していた。
トイレから出て青葉は、洗面台の前に立った。青葉は手を洗い、うがいをして鏡を見つめた。
真夜中に鏡の前に立つと、鏡の世界に行けたり、もう一人の自分に手を掴まれて鏡の中に引きずり込まれるという話を青葉は本で読んだ事がある。それを初めて知った時、怖がりながらも興味本位で真夜中に鏡を覗きに行った事があった。
青葉は学校の図書館にあった怪談話が好きだった、それよりも大好きな姉の観月が亡くなるまでは。
そういう話を読んでいるせいで、青葉は昔から霊や迷信などというオカルトチックな話に興味があり、信じてもいた。だが、千歳は興味がなく、信じてもくれなかった。
青葉は、そういう話を千歳ではなく観月にするようになった。観月は優しく、青葉のどんな話でもうんうんと頷いて聞いてくれた。
青葉が怪談話に関する考え方が変わったのは、観月が亡くなった日からだ。
六年前、青葉と千歳と観月は、父親の洋司が招待されたパーティーに一緒に行く事になった。綺羅びやかな洋館の五星館では、豪勢な晩餐会が開かれ、経済界の重鎮達が食事を取りながら喋り合っていた。
観月はその中で食事も摂らず、ずっと千歳と青葉を見守っていた。
「姉ちゃん、ご馳走あるのに食べないの?」
観月は、小さなお皿に少しの肉と野菜を載せていたが、一口も食べた気配がなかった。
「私にはこんなご馳走勿体無いわ…」
黒檀のよう黒髪に、月のレリーフが胸に飾られた純白のドレスを着た観月は、絵本の中から飛び出してきたお姫様のように美しかった。
「そうなの?みんな美味しいよ?」
「それじゃあ…、これだけ頂こうかしら」
観月は、小さな皿の上の食べ物をゆっくりと食べた。千歳と青葉はそれを不思議そうに見ていた。
晩餐会が終わり、三人は両親の元に行く為に廊下を歩いていた時だった。千歳と青葉の真上にあったシャンデリアが、突然音を立てて二人に向かって勢いよく落ちてきた。
「危ない!」
観月は、とっさに二人を庇った。観月の頭に、割れたシャンデリアがぶつかり、破片が突き刺さっていく。千歳と青葉は、突然の事で驚き、声を出す事も何も出来なかった。
そして、音が止んだ時、青葉は観月の顔を見た。
「姉ちゃん…?」
観月の頭からは血が流れている。青葉は観月が自分達の事に気づいていないと思い、肩を何度も叩いたが、観月が二人に気づく事は無かった。
「嘘、だろ…?」
「お姉ちゃん!」
二人は観月の胸の中から出て息を呑んだ。観月の後頭部は、シャンデリアが直撃して、破片が幾つも刺さっていた。
「そんな…、お姉ちゃんが…!」
ショックのあまり千歳は、観月の惨状を見るに耐えかねず、青葉を置いて大人達が居る所へ走っていった。青葉も慌てて千歳を追い掛けようとしたが、何かに躓いて転んでしまった。
青葉は、足元の物を拾ってみた。それは、月の模様が入った小さな珠だった。だが、シャンデリアの部品ではない。
青葉はそれを拾ってポケットの中に入れた。後で振り返っても、自分が何故そうしたのか分からない。普通なら、よその屋敷のものには手を触れない方がいいはずなのだ。だが、青葉は誰のものか分からないその珠を、まるで自分が落としたもののように拾った。
そして、立ち上がって千歳の所へ向かおうとした時だった。観月の前に、一人の青年が近寄ってきた。ここは晩餐会、男性ならモーニングやタキシードなどの正装をしているはずだが、この青年は、ラフな黒いパーカーを着ている。明らかに、この晩餐会に招かれた客ではない。
青年は、観月の顔をじっと見つめたり、背中を触っていた。青葉の知っている限りでは、観月の知り合いではないようだった。
青葉は、その青年に違和感を覚えた。不審に感じるというどころではない。青年のなかにある得体のしれない何かを感じた青葉は、今すぐにでも青年から離れたかった。
青葉が、その場から立ち去ろうとしたその時だった。青年が青葉の事に気づき、腕を掴んだ。
「お前は、この人の事を知ってるのか?」
青葉は、恐る恐るその青年の顔を見た。青年は、黒髪で、鋭い目をしている。その目を見た時、青葉は、瞳の奥にある見てはいけない何かを見てしまった気がした。そして、身体全体が縛り付けられたように硬直し、声を出す事も出来なくなった。
青葉は震える身体を何とか動かして、頷いた。青年はそれに気づくと、青葉から手を離してその場から立ち去ろうとする。青葉は、その青年に何も言い出す事が出来なかった。言おうとして口を動かしても、見えない強い力に束縛されて動かせない。
青年が立ち去っても、しばらくの間、青葉は動く事が出来なかった。青葉は今も、その青年に会ったり、思い出したりする度にそうなってしまう。
姉の死や、青年のせいで、作られた怪談話であっても、自分の事のように捉えるようになり、興味よりも恐怖が打ち勝ってしまうようになった。
今でも青葉は、その日に拾った珠をお守り袋に入れて肌身離さす身に着けている。そうすると、不思議な事に、死んだ姉が今でも見守ってくれているような気がするのだ。
青葉は鏡に手を触れて、目を閉じる。真夜中に鏡に触れる度、青葉は観月が居るかもしれない"もう一つの世界"の事を考えていた。そして、観月の事を考えながらもう一度目を開けると、鏡には、今の青葉の姿ではなく、昔の観月の姿が映っていた。観月は、今の青葉と同じ身長だった。
「姉ちゃん!」
嬉しさのあまり青葉は、観月に触れようと鏡に手を伸ばしたが、見えない壁にぶつかってしまった。
「青葉…、私はこちら側には行けないの…」
「姉ちゃん、俺の事今も見守ってくれてるんだよな?」
鏡の向こうの観月は笑って頷いた。
「なら、良かった…」
青葉の顔を見て安心したのか、鏡の中の観月は消え、青葉の姿が映った。
「姉ちゃん…、居るんだよな?今もこうして見守ってくれている…」
青葉は、仄かに光るお守りを握りしめながら、寝室に戻った。
翌日、早速青葉は千歳に昨日の話をした。だが、千歳の反応は悪かった。
「ハァ…、またあんたのくだらない作り話に付き合わなきゃならないの?」
「だから作り話じゃないって!」
青葉は、千歳にその話をして喜ぶと思っていた。だが、目の前の千歳は、青葉に対して怒っている。
「どうせ嘘なんでしょ?!」
「嘘じゃない!本当だよ…」
青葉は、湧き上がる感情に任せて、千歳の前で泣き出してしまった。
「やめて…、二人とも…」
すると、観月の霊が二人にそっと近づき、二人の肩を持つ。だが、それに気づいたのは青葉だけだった。
「姉ちゃんだ…、姉ちゃんが、喧嘩しないでって…」
「何で…、何でよ!」
千歳は青葉を突き放し、二階に駆け上がって行った。
そして、自分の部屋に戻った千歳は、ベッドに飛び込み、掛け布団を抱きしめてこう叫んだ。
「青葉の話が本当なら…、何で私の所に来ないの?!私の所にも来てよ!私だって…、お姉ちゃんに会いたいのに…!」
今度は、千歳の方が涙を流していた。いくら青葉が観月の事を言っても、視えない千歳には、視えないのだ。
何故青葉だけ観月の事が分かるのだろう、千歳はずっと考えていた。生前、観月に何か酷い事をした訳でもないのに、何故自分には姿を見せてくれないのだろう。千歳は、視える青葉の事が羨ましかった。そして、腹立たしかった。今は青葉が観月や自分の霊感の事を話す度に嫌悪感に襲われる。
「千歳…」
観月の霊が千歳に近づき、そっと抱き締める。だが、千歳はそれに気づいていなかった。




