世の中、知らない方がいいこともある
「なんなんだ、あいつ?」
俺が呟いた途端、覚えのある、くらっとするよい香りがした。
振り向こうとしたその瞬間、夕霧本人の声がっ。
「……なにかあの子が、迷惑かけた?」
「うっ」
音もなく並んだたおやかな姿を見て、俺は思わず呻いてしまった。
この子、俺より先に出たはずじゃないのか?
「い、いや」
かろうじて驚きを隠したつもりだ。
「なんか、挨拶に来てくれたらしいけど」
言われた通りに答えておいた。
普段、女の子のパンツかぶる趣味があるとか言われたら、立ち直れないしな。
関係ないけど、やっぱり妹とは全然似てない。胸の存在感はもちろん、鼻の高さまで全然違う。
夕霧は終始俯いていたけど、妹と似てない切れ長の目で、ちらっと横目を使った。
「……本当に?」
「あ、ああ」
この時、驚きを隠せたのは、俺にしては上等だった。
正直に言おう、横目で俺を見た時の夕霧の瞳……どう見ても普通の人間には見えなかった。
まあ……俺の勘違いに決まっているけど。
おねいちゃんは普段、ただの優しい姉だけど、本気を出すと途端に姉妹の立場は逆転する。
……いつもはただ、妹のあたしと同じ位置まで下りてきているだけ。
姉妹で過ごす時間が長かったせいで、多分あたしは、誰よりもそれを知っている。いざおねいちゃんが本気になると、あたしなんか猫の前に出たネズミも同然だわよ。
ゲームセンターの片隅で、あたしはつくづく思う。
まっすぐ帰るつもりだったけれど、今の姉に会うのはちょっと怖くて、思わず立ち寄ってしまったのだ。
水原誠司本人に会ってみようなんて、考えなければよかったかもしれない。
しかし、まさか姉が水原君の後から来るなんて思わなかった! ひょっとしたら、尾行する現場を見てしまったのかもしれない。
「そう考えると……余計にこわー」
「……なにが?」
「ひぎっ」
驚きのあまり、妙な声が出たっ。
やかましいゲーセンの隅っこも隅っこ、時代遅れの筐体が並ぶ奥の奥にいたのに、なぜかいつのまにか背後に立たれていたのだっ。
そういえば、昔から碧おねいちゃんと隠れん坊して、勝てた試しはなかった。
「今日は……うちの学校にきたのね」
断定口調の囁き声と同時に、あたしとは比べものにならない長くて細い指が、いつのまにか喉にかかっていた。背後から抱きしめられているような姿勢だけど、なぜか――今、おねいちゃんが本気になったら、自分は多分死ぬだろうなと、とんでもない感想を持ってしまった。
「……おまけに、ゲームセンターなんか寄ることがあるのね?」
耳元で囁かれてぞくぞくした。
背中に豊かな膨らみが当たっているものの、ぺったんこの自分と比べてしまうので、嬉しくはない。男の人は、多分大喜びするかも……状況によるけど。
「ま、まあ……たまたまかな、えへへ……」
「今日、うちの学校にきたのも、たまたま?」
「そ、そっちは気まぐれ。ちょっと水原君の顔が見たいなと。本当だよ?」
声が引きつったかもしれない。
「そうなの……ふぅん」
微妙に疑ってそうな声で、あたしは焦った。
しかも、喉に触れていた姉の手に、少し力が加わった。
「ほ、本当だってば! 本人にも妹だとしか言ってないから」
我知らず言い訳がましくなったが、返事はなかった。
このまま喉を切り裂こうかどうしようか、迷っているよう沈黙だった……もちろん、あたしがそう思っただけだけど。
無限とも思える時間が過ぎたが、実際は数秒だろう。
やがてふっとおねいちゃんが離れた。
「うん……今日のことは忘れるわ」
正直、死ぬほどほっとしたのは否定できない。
正面に立たれた時は、いつもの控えめな笑顔があたしを見つめた。
「ねえ? またセアラの機能で、追加して欲しいことがあるんだけど」
「い、いいけど? でもDL機能があるとはいえ、正式サポートじゃないから、お高いよ?」
「お小遣いなら、いくらでもあげる」
「前から思ったけど、おねいちゃんとあたしの小遣いって、そんな違わないよね?」
「理由を知りたいの?」
不意に姉の笑顔が消えた。
「……本当に?」
「よく考えたら、あまり知りたくないけど」
おしっこ漏らしそうな気分で、あたしはぶんぶん首を振った。
「そう! 良い子ね、美樹……好きよ? もちろん、愛する人の次になるけど」
また姉がいつもの笑顔に戻り、あたしは大きく息を吐いた。
パパとママは二番目ですらないらしいが、訊くのは控えた。
けど、世の中……知らない方がいいことが山ほどあるよね……特におねいちゃんの関連は、大概それだわ。