あなたに逢えて、幸せです
帰宅時は、歩いている間も地下鉄に乗っている間も、終始、気が重かった。
ただ、少なくともアパートで少し考える時間はあるだろうな、とは思っていた。
だがしかし――自分のアパートが見える近くまで帰ると、俺は見慣れた剥き出しの廊下を見て、内心で呻いた。
ゴシックドレスに近いような華やかなドレスを着込んだ夕霧が、二階の廊下にいる。
もちろん、俺の部屋前に立っているのだ。
しかも、向こうは既にこっちに気付いていて、遠慮がちに小さく手を振っているわけで。掃き溜めに鶴とは、よく言ったものだ。うちのアパートに全然似合わん。
ていうか、もうこの状況では回れ右もできない……これはもう、覚悟を決めて話すしかないようだ。
「や、やあ」
廊下を上がってそばまで行き、俺はおずおずと挨拶した。
尾行の件はなにか言うかな? と思ったけど、夕霧は低頭して挨拶しただけだった。
「こ、こんにちは……土曜日なのに、ごめんなさい」
「いやいや、そんなことはいいんだよ。……それで、なにか急用?」
一応、先に尋ねてやると、夕霧は晴れやかに微笑した。
「一日一つだけ質問するということで、今日の分をお尋ねしようと」
「あ、あぁ、はいはい」
いや、その発想はなかった!
俺は密かに驚いたが、元々の提案者は俺である。
ただ、本当に毎日実行されるとは思わなかっただけだ。
「じゃあ……立ち話もなんだし、入る?」
「は、はい」
「ちょうど、俺も話があったんだ」
鍵を出しながらさりげなく告げると、夕霧が微かに息を呑む気配がした。
今更思い出したが、寝室にしている部屋には、セアラが置いてある。
ログアウトしたままだから、ガラスの容器にしか見えないかもだが……それでも俺はそちらの襖が閉まっているのを確認し、キッチンへ夕霧を案内した。
まあ、小さいながらもテーブルあるしな。
「コーヒーと紅茶と、どっち?」
「あ……それでは紅茶をお願いします……ありがとうございます」
「いえいえ」
手早く二人分の紅茶を入れ、俺は角砂糖の容器と一緒に彼女の前へ置いた。俺は自分の紅茶を早速一口飲み、夕霧が何か言う前に口火を切った。
「飲みながらでいいから、少し俺の話を聞いてくれ」
う……夕霧の肩が少し震えたな。
やはり、撒かれた後のことを気にしてるらしい。ならば、早く話しちまおう。
「最初に訊くけど、人殺しの経験とかなかったんだよな? 遠回しにそう聞いた気がするけど」
「あ、ありませんっ」
夕霧はぶんぶん首を振った。
「そうか、なら大した話じゃないさ」
俺はわざと明るく告げてやった。
――すぱっと全部話した。
ただし、妹の美樹? とにかくあいつから倉庫のことを聞いたことのみは隠し、その他は全部。倉庫を見つけた件については、「まあ、匂いに敏感な奴も世の中にいるわけで」と曖昧にごまかした。
これだと、さりげなく涼子が疑われるかもしれないが、ホントに疑われたら、俺が違うと明言すればいいさ。
というわけで、そこだけ外して後は謎の二人組のことも含めて語って聞かせ、俺は「や。俺はなんとも思ってないけどね」的な、極めて平静な表情で言ってやった。
「血液は必要なんだろうから、いまのうちに移動した方がいいかもなあ」
などと、穏当な意見のみを、最後に付け加える。
人殺しはしたことないと前に聞いてるので、バラバラ事件の犯人が彼女だとは、最初から思ってない。
とはいえ、もう彼女がヴァンパイアなのは隠しきれないだろうから、さすがに夕霧も思うところがあるかも……とは考えたが。
彼女自身は俯いたまま紅茶を飲み干しから、くわっと顔を上げた。
……うわ、瞳が真紅に染まっている!
最初に俺が、校門のところで見た瞳だっ。
ヴァンパイアの怒り→襲いかかる夕霧→惨劇の血まみれアパート――コンマ数秒の間にそんな妄想が駆け巡ったが、彼女は思い詰めた目つきでこう尋ねただけだった。
「……わ、わたしがヴァンパイアだと……せ、誠司さんは気にしますか?」
声が震えているし、なぜか前にも似たような質問受けた気がするけど、これに関する俺の答えは、決まっている。
あらかじめ予想済みの質問だしな。
「いや、全く。むしろ最初聞いた時、すげーっと思った」
「……それは本当に?」
「疑うなよ」
苦笑して言ってやった。
「人殺しの経験ないんだろ? その言葉を俺は信じる。血液はどうせ保存されてたのを、病院とかからもってきたんだろうけど、俺はそれだって責める気ないね。ヴァンパイアにとっちゃ、死活問題だもんな」
わざと力強く言った。
実際俺は、これまでのところ、夕霧を責めるようなことはなにもないと思っている。
ヴァンパイアの存在を公言するわけにもいかないし、やむを得まいと。
さて……これで彼女が信じてくれれば……と思ったが。
夕霧はそのまま静かに立ち上がり、俺の横に立った。
「……誠司さん」
掠れた声で俺を呼ぶ。
呼ぶだけじゃなくて、頭上から覆い被さるように抱かれて、こっちが焦る。
「う、うん」
「わたしは……あなたに会えて幸せ……です」
辛うじてそう口にすると、彼女はしばらくそのままの姿勢で俺を離そうとはしなかった。
小さく啜り泣く声だけが、長く長く続いた。




