セアラに罪はない
胸のぽっちが見えそうなシャツを前に、俺は激しく首を振った。
「と、特に知らないですね、はい」
変わった知り合いと言われ、反射的に夕霧碧の顔が浮かんだが、こういう怪しい人に教えるべきじゃないだろう。
タイミングよく、バスも止まったし、俺は蹴飛ばされたように立ち上がった。
「悪いけど、ここで降りるので」
言い置いて、逃げるようにバスを降りたさ。
しばらく歩いてからそっと振り返ったけど、あのお姉さんはついてきていなかった。
これほどほっとしたのは、久しぶりである。なんなんだ、一体。
うちは二階だが、アパートの階段を上り、奥の自分の部屋前で立ち止まるまで、背後が気になって仕方なかった。
でも、もうさすがに日も暮れ始めているから、大丈夫だろう。
「ふう」
緊張感がどっと抜け、俺は外に面した廊下の手すりに手を置く。
部屋に入るまでに、最後の仕上げとしてもう一度周囲を確認して――
「……げっ」
思わず声が漏れた。
なぜなら、アパートの近所に建ってる、建設会社の屋上……四階建てだったが、この近所では高い方だ。
その屋上にある看板をバックに、すらりとした女性が立っていた。
少し距離があるので俺にはもう確認できないが、なぜか一瞬だけ金色の目が光ったような気がした。
「あ、あの人かっ」
聞こえたはずもないのに、向こうがニヤッと笑った気がした。
そして――その場でジャンプして屋上の柵の上に立ち、次に気安く真下、つまり裏路地の方へ飛び降りてしまった。
「マジかっ!? 四階分の高さだぞっ」
呻いたが、あれが飛び降り自殺だとは、微塵も思わなかった。
いつの間にかあんな場所にいたのもそうだが、ビルからビルへと、ぴょんぴょん飛び移ったとしか思えない。
破天荒な推測だが、もし俺の想像通りだとすれば……俺は、あの人外としか思えない女性に、尾行されたということだ!
しばらく待っても騒ぎが起きないのを確かめ、俺はようやく部屋に入った。
逃げたいが、他に行くところもないしな。
「お帰りなさ~い。……なんだかいつもより遅かったですね?」
明るいセアラの声に、かなり救われた。
「ああ……クラスメイトの妹と会っていた。他にもちょっと、ヤバいことがあってな」
「え、どういう意味です?」
留守中の彼女の定位置、リビングのテーブル上で、セアラが目を丸くする。
「おヤクザさんに絡まれでもしましたか? セアラに教えてください!」
教えてどうなるよと思ったけど、心が弱っていた俺は、着替える前にテーブルに座り、セアラに話した。
もちろん、中坊のことやらレンタルスペースのことは言わず、あくまで尾行してきた謎女の話をしたわけだ。
セアラは笑顔で「大丈夫ですよ」などとは言わなかった。
むしろ、ガラスケースの端っこに張り付くようにして、俺の話を熱心に聞いてくれた。
この子……もしかして頼りになるのかっ。
などと、俺は一瞬、期待したほどだ。
「それは大変でしたね」
全部聞いてから、セアラは本気で心配そうに言ってくれた。
「だよなぁ? しかもあいつ、近所のビルから飛び降りやがったし。どういう女で、何を狙ったんだろう?」
「可能性は二つあります」
厳かにセアラが口にし、なにやら考え込むポーズをしていた。
この隙に、めげない俺はデフォルトの制服姿に戻っていた彼女のスカートを、しゃがんで覗いてたりする。自己嫌悪はあるが、そばに来るとやっぱり覗いてしまう。
特に、心が弱った今日みたいな日はな!
ちなみに本日は、青の縞模様だった。また昨日とチェンジしてるぞ、すげー。
「セアラに心当たりもありますが、まずは最も大きい可能性を考えてみました……セイジさん、センサーに捉えられないですが、聞いてます?」
名探偵が推理を披露するみたいな口調に、俺は慌てて覗きを中断し、椅子に座り直した。
こいつのセンサーは、眼前直下までは捉えきれないと思う。
「き、聞いてる聞いてるっ。心当たりもあるけど、最も大きな可能性がある、だろ? 聞こうじゃないか、その推測」
「ではお話しします」
小さくコホンと可愛い咳払いなどして、セアラは一気に述べた。
「多分、セイジさんがあまりに魅力的なので、その女性はくらくらとなって、尾行したんですよ。他の理由は全て言い訳! これが正解じゃないでしょうか?」
わたし、自信ありますっ、みたいな笑顔だった。
別にセアラに罪はないんだが……期待した俺が馬鹿だったらしい。
脱力したし、もう一つの心当たりとやらは、もうどうでもいいや。