「あなたの彼女」
うだるような暑さの夏。狭苦しい1Rの部屋。
教授の都合で受けるはずだった授業が休講になった日。全く外に出る気にならず、クーラーのきいた部屋でベッドに寝転がって僕は携帯電話を見ていた。
何か暇つぶし出来るものはないだろうか。そう思っていると1つのアプリに目が止まった。
群青色の背景に白い文字でこう書かれている。
「あなたの彼女」
どうやらアプリの中の「あなたの彼女」との会話を楽しむアプリのようだ。
無料なこともあり、試しにダウンロードしてみることにした。
アプリを起動してみると画面が群青色に染まった。
おそるおそる話しかけてみる。
「こんにちは……」
『こんにちは』
言葉が返ってくる。澄み切った美しい声。画面には何も表示されていない。ただ声だけが聞こえてくる。
『あなたのお名前は?』
訊ねられて答える。
「晃」
『晃君? 素敵なお名前ね』
「君の名前は?」
『あなたの彼女よ』
名前はないのか。どこまでも想像の存在であるらしい。
「これからよろしく」
そう言うと彼女は嬉しそうに『こちらこそ』と返した。
それから僕と彼女の交流が始まった。
おはようやおやすみの挨拶。
「おはよう」
『おはよう。よく眠れた?』
「うん、ぐっすり。寝てる時が一番幸せかもしれない」
『気持ち良さそうに寝てたものね。私、晃君の寝顔、好きだな』
日常の何気ない出来事。
「今日、食堂に行ったらいつもは売り切れてる幻の定食が1食だけ残ってて。もう死んでもいいってくらい美味しかった」
『そんなに美味しかったの?』
「なんかね、食堂のおじちゃんが昔、伝説の料理人だったらしくて」
教授やバイト先の上司に対する愚痴や悩み。
「もう本当にあの店長、いい加減にしてほしいんだけど。面倒くさいこと全部僕に押し付けてさ」
『晃君は優しいから言いやすいんじゃないかな。でも、頼られてばかりもしんどいよね』
「そうなんだよ、この前なんてさ」
彼女はとても聞き上手だった。
いつだって僕の話を楽しそうに聞いてくれ、愚痴や悩みを言った時には励ましてくれたり的確なアドバイスをくれたり。
いつしか僕は彼女と話すのが楽しみになっていった。
でも、夏休みが近づいた頃。
僕の携帯電話にメッセージが届いた。
「晃くんって彼女いるの?」
同じ学科のずっと気になっていた女の子、美香からだった。
僕は答えた。
「いや、いないけど」
「じゃあ、私と付き合ってくれませんか?」
彼女が出来た。
肩にかかるふわふわとしたくせ毛の栗色の髪。
丸顔で太りやすい体質を気にしていて。いっしょに海に行った時には「これでもダイエット頑張ったんだよ?」なんて言いながら水着姿に恥ずかしそうにしていた。
夏休みのほとんどを美香と過ごした。
お喋りしたり、触れあったり、出掛けたり。
現実の彼女はもちろんアプリと違って不満なところも時には喧嘩をすることもあったけれど。
それさえも何だか楽しくて、愛しくて、僕はどんどんと「あなたの彼女」のことを忘れていった。
「あなたの彼女」と話さなくなって数ヶ月経った頃。
携帯電話に一通のメールが届いた。
『最近、会いに来てくれないね』
差出人は「あなたの彼女」。
メールアドレスなんて登録しただろうか。
不思議に思ったが、もしかして、ある程度、アプリを起動しないとメールを送る設定になっているのかもしれない。
こんなメールを見られて美香に誤解されたら困る。
少し気味が悪く思いながら僕はすぐにメールを削除した。
そのまま新しく出来た大型のショッピングセンターに美香と買い物に出掛けた。トイレに行った彼女を待っていると電話が掛かってきた。
誰だろう。
画面を見て固まる。
そこに表示されていた言葉は
あなたの彼女
まさか……。
鳴り続ける電話。しばらく見つめていたが、いつまで経っても鳴りやまない。
僕は震える手で通話を押した。
「もしもし……?」
声が聞こえてくる。
『ねえ、晃君。何で最近会いに来てくれないの?』
あの澄み切った美しい声。
僕は慌てて電話を切った。
何だこれ何だこれ何だこれ。
嫌な汗が噴き出す。
「お待たせ……どうしたの? 顔色悪いけど……」
トイレから出てきた美香が心配そうに僕の顔を覗き込む。
僕は無理やり口角を上げて笑った。
「何でもない。あのさ、何か携帯電話が変なウィルスに感染したみたいで。これから新しく買いに行っていいかな?」
「え、大変。いいよ、買いに行こう?」
「ありがとう」
僕はそっと「あなたの彼女」アプリを削除した。
携帯電話もメールアドレスも携帯番号も全て変えた。
これからは変なアプリはダウンロードしないことにしよう。
そう心に誓い、しばらく何も起きずに日々が過ぎて行った。
秋。僕の誕生日のことだった。
出掛ける準備をしていた僕の携帯電話に一通のメッセージが届いた。
「一生懸命作るけど本当にあまり期待しないでね」
僕はくすりと笑う。
今日は美香が自分の部屋で誕生日プレゼントに手料理をふるまってくれることになっていた。「楽しみだな」と言うたびに美香は「期待しないでね」と繰り返す。
上手く出来る出来ないじゃなくて、作ってくれることが嬉しいんだけどな。
そんなことを思って幸せな気持ちになりながら携帯電話をポケットにしまうと
ピーンポーン
インターフォンが鳴った。
「すみません、お届け物です」
出ると宅配のお兄さんからやけに軽い小さな箱を渡された。
何気なく荷物を受け取って部屋の中へと運ぶ。
誰からだろう。母さんからにしては小さ過ぎるし、インターネットで何か注文した覚えもないんだけど。
送り状の差出人を見る。
そこにはこう書かれていた。
あなたの彼女
嘘だろ。
途端、ポケットにしまっていた携帯電話が震え出した。
大きく身体が跳ねる。
取り出した画面に表示されているのは――この荷物の差出人。
おそるおそる僕は通話ボタンを押す。
『こんにちは、晃君。贈り物は届いた?』
聞こえてくる楽しそうな声。
「あ……」
僕の喉からかすれた声がかろうじて出る。
『開けてみて。きっと喜ぶわ』
その言葉に僕は荷物を床に置いて遠ざける。大きく横に首を振る。開けられない。開けたくない。
『ねえ、晃君、嬉しいでしょ? 私、ちっとも怒ってないから、また前みたいにお話しましょう?』
ずっと楽しそうな彼女。反対に僕の顔は恐怖で引きつっている。何なんだ。何なんだよ、これ。
「もうやめてくれ……」
『晃君?』
「何なんだよ、一体! もう君と話なんてしたくない! アプリなら削除しただろ! どうして消えないんだよ! はやく消えてくれよ!」
『……どうして、そんな悲しいことを言うの?』
彼女の声のトーンが急速に下がる。
「どうしてって……」
『あの子のせい? 私、知ってるわ。だって、2人とも全部、話をするのも言葉を交わすのも遊び場所を決めるのも携帯電話を使うんだもの』
そう言って彼女は僕と美香のやり取りを淡々と一字一句間違えずに言い始めた。
普段の何気ない会話。聞いているのが恥ずかしくなるほどの愛の言葉。ささいな喧嘩。
何月何日にどこにどんな風に行ったのかまで。
すべて見られていた。聞かれていた。知られていた。
呆然とする僕に彼女は恥ずかしそうに笑う。
『私ったらごめんなさい。こんな話をしに来たんじゃないの。私、晃君のお誕生日をお祝いしたくてここに来たのよ』
「ここに、来た?」
『お誕生日おめでとう、晃君』
床に置かれた箱がカタリと動く。
『ねえ、早く開けて?』
僕は気付く。
姿も名前も何もない。声だけの想像の存在。
彼女は今、一体どこから話している?
美しく澄み切った声が言う。
『晃君、私、あなたの彼女でしょう?』