76.平和の崩壊
今回からこの章のメインに入ります。
それは、時計の短い方の針が天辺を周り、太陽が少しずつ落ちてき始めた頃。時刻にして午後の二時前後。
バスの中には、三つの寝息が響いていた。
バスの運転手が彼女らを起こさないように気を使っていたこと、向こうを出るのが少し遅くなったこと。それらが合わさって未だに彼女らは自宅へとつけてはいなかった。
そんな中、バスの中で巌人の予想通り眠りについていた紡は、ふと、何か嫌な気配を感じて目を開いた。
「……ん?」
彼女の視線の先には、ここからでも見えるような大きなその壁――防壁だ。
二〇一九年、歴代最強と謳われた『絶対化』の異能力者。その人物が人々によって作り上げられたその壁に異能を使用し、絶対に壊れず、絶対にアンノウンの侵入を許さない、という能力を壁そのものへと付与させた。
その結果、今やその壁は世界中の人々を守る絶対の盾であり、平和の象徴でもある。
かつて巌人にさえ『あの壁は流石に僕でも壊せないよ』と言わしめたその壁。
紡はその壁をジィっと見つめて――
ドゴォォォッ!
「……へ?」
その壁が、ごろりと抉り取られた。
その鈍い音は離れたこのバスの中にまで聞こえてきて、その音に呻き声にも似た声を上げながら、カレンと彩姫も起き出した。
気がつけばここからでもはっきりと分かるその穴に気がついたのだろう、周囲の車は皆その場に停止しており、紡の頬をタラーっと冷や汗が伝った。
「ま、まずい……」
紡は思わずそう呟いた。
その切羽詰まった声には、寝ぼけていたカレンと彩姫もその窓から外を見て――目を見開いた。
「なっ!? か、壁が……」
「防壁が壊れた!? い、一体なんで――」
けれども、紡は彼女らへと焦ったように口を開く。
「それ、どころじゃないっ! 二人ともっ、兄さんに連絡っ! バスのおじさんっ! 行ける限りでいい、私たちの家まで近づいて欲しいっ」
「へ? わ、分かった! ば、場所を教えてくれ!」
こう見えてもこのバスの運転手は陽司が手配した政府の手の者だ。もちろん紡の正体は知らないが、それでも彩姫がA級隊員だということは気づいていた。
そんなA級隊員よりも先に判断を下せた紡に反論する余地はない。彼はググッとアクセルを踏み込むと、そのバスを発進させた。
それを見て紡は再びその壁の方へと視線を向ける。
そこには先程よりも少し広がったその穴と――
「これは……、兄さんじゃなきゃ、手に負えない」
その穴の隙間からこちらを覗いている、竜の瞳が窺えた。
☆☆☆
一方その頃。
サッポロの都心では特務隊員を含めた警察の関係者たちが慌ただしく動いていた。
そんな中、彼女――月影の執務室へと一人の男が駆け込んできた。
「月影っ! 現状はどうなっているんだい!?」
その男の名は南雲陽司。
巌人をして『敵に回したくない』と言わしめるほどの天才である。
その姿を見た月影は少しホッとしたような表情を見せたが、すぐにキッと口を結ぶと現状を淡々と説明し出した。
「一言でいうと『最悪にかなり近い』わね。防壁に穴を開けられてその隙間から数多くのアンノウンが壁の中へとなだれ込んでるわ。今は非番だった入境学A級隊員と、長期休暇中の中島智美A級隊員。その他にも芦別隼人B級隊員を筆頭としたB級、C級の隊員も向かわせてる。それにさっき、入院していたあの子――『死の帝王』が向かったとも情報が入ったわ。今この街に数多くの戦力が集中していたのは不幸中の幸いだったわね……」
「けれど、不幸なことには変わりない、って感じだね……」
月影の言葉に陽司はそう返すと、月影はコート掛けにかけてあったその黒いローブを手に取った。
それは彼女――特務の長たる鐘倉月影の戦闘服。
それを着るということは――
「君も……行くのかい?」
「そうね。私は戦闘向きの能力を持っているから、みんなに任せて後ろでふんぞり返ってるわけにはいかないのよ」
そう言って彼女はコートに手を通すと、そのままツカツカと陽司の横を通り過ぎてゆく。
「問題は山積みよ。現状をどう対処するか。どうして壊れないはずの壁が壊れたのか。住民にどう説明するか……」
その言葉を聞いて陽司は考える。
ならば逆に、どうやったら壁が壊れるのか、と。
けれども少し考えれば分かることだ。そんなことを出来る人物など陽司は二人しか知りはしない。
一人はかつて全ての壁にその能力を付与した『絶対化』の異能力者。彼がその能力を解除したと考えれば辻褄があう――だが、そんな昔の人物が現代に生きているはずもない。
ならば、もう一人の人物なのだが――
「……黒棺の王は、今は休業中だからね」
だからこそ、二つ目のその考えもきっと違う。
二つしか思いつかなくて、そしてその両方が違うのだとすれば、きっと自分の想像の更に上を行く答えが待っているに違いない。
陽司は困ったようにため息を吐くと、それを聞いた月影はピタリとその足を止めた。
「だからこそあの子には頼れないのよ。私が頼っちゃいけないの。だから、今回は私が身を張ってこの街を守ってみせる」
その言葉には確かな覚悟がこもっており、それを聞いた陽司は困ったように苦笑した。
「これでも、前に月影が死にかけたって時は、本当に死ぬかと思ったんだけどね……」
「あら珍しい。妻の心配かしら?」
「何を今更。君の心配をしてない時なんて一時もないさ」
陽司はそう言って月影の方へと振り返る。
彼女はコートをはためかせながらもその出口へと歩いてゆき、それを見送るしかない陽司は。
「死なないでね、月影」
その言葉に、月影はヒラヒラと手を振って見せた。
☆☆☆
「あー! クソッ! 次から次へと何だってんだ! 少しは俺に考える時間を寄越せってんだ!」
そのアンノウンの群れを一掃しながら、弟子屈は苛立ちを吐き出すようにそう叫んだ。
あの後――巌人に殴られて気絶した後。
さすがは絶対者、あれからスグに意識は回復し、前と大して変わらないほど自由に動き回れるようになるまで、あまり時間はかからなかった。
だからこそかなり早い段階で退院することが出来たのだが――
「クソッ、俺はあの黒髪に用があるってのに……なんでこんな時に防壁が壊れてんだよ! 使えねぇなオイ!」
「あらあら、相変わらず口が悪いのね、弟子屈君」
するといつの間にか隣へと来ていた彼女――月影が弟子屈へとそう声をかける。
あの後に影の中へと潜り込んで高速移動していた彼女は、その壁の穴の現状を見に行く途中に弟子屈の姿を見かけ、そのまま地上へと浮上してきたというわけだ。
弟子屈は彼女の声に少し驚いたような様子を見せたが、すぐにキッと彼女を睨みつけた。
「ったりめェだ! 何なんだよあの巌人って奴は!? どんな馬鹿げた闘級をしてやがるんだ!」
「うーん……、前回測った時は貴方の四倍はあった気はするわね〜、あんまり覚えてないけど」
「よ、四倍――ッ!?」
弟子屈雄武。
彼の闘級は百と少しである。
以前の紡の闘級、九十一よりも更に上のその闘級、その四倍である。単純に計算しても――
「と、闘級――四百だと!?」
「まぁ、三年前の話だけどねぇ〜」
正確には、彼が『力』を失った直後の闘級。
『全盛期』と離別した直後の闘級。
下手に全盛期のときの闘級を知っているだけ彼女としては『もう生きてる世界が違う』と思うだけで済んでいるが、それを初めて聞いた弟子屈の驚きは少しばかり哀れになるほどである。
けれどもそれを許さないのが現状で。
「うっふーん♡ こんな所に好みのオトコノコがぁっんっ〜!」
瞬間、周囲にそんな気色の悪い声が響き渡り、弟子屈と月影は思わず構えをとった。
周囲へとカツカツとヒールの音が響き渡り、二人は冷や汗を書きながらもそちらへと視線を向けた。
そこにはクネクネとモデル歩きをしながらこちらへと歩を進めてくる、全身ピンク色の全身タイツの姿があり、背中からはピンク色の羽が生えている。
見た目だけならば『人型』に見えなくもないが、けれども身長はゆうに二メートルを超えている。
その上――
「そんな化物……人間なわけがないわよね」
そう、こんなのは二足歩行なだけの化物だ。見た目も強さも、人間とはかけ離れている。
「あらぁん、オバサン嫉妬ぉ? BBAの嫉妬は需要ないわよぉん?」
「あらあら、人間でもなければ女でもない化物に何を嫉妬するのかしら? ちゃんと考えてから言いなさいな」
そのアンノウン――心壊王マカオの言葉にそう返した月影。お互いの額に青筋が浮かび、二人の間にバチバチと火花が散る。
けれどもその時、彼女の前に弟子屈が一歩踏み出した。
「おい鐘倉さんよ。アンタの方が俺よりも移動能力が長けてそうだから頼みたい。戦場全体を見て回って、一番重要な『戦い』に力を貸してやってくれ」
「……大丈夫なの?」
その月影の言葉に「ククッ」と笑みを浮かべた彼は、その右手を前に構える。
その手からブオォッと黒色のオーラが吹き出し、それを見たマカオが眉を顰める。
「あら? ヤンデレは私ってばあんまり好きじゃないんだけどぉ?」
そのマカオの言葉に笑みを浮かべた彼は。
「そりゃ良かった。俺もお前は生理的に受け付けないから、これで俺たちゃ意外に気が合うんじゃねぇか?」
そう言って彼の――『死の帝王』の戦いが始まった。
次回、鬼の刀。