74.湯煙舞う露天風呂
カポーン。
そんな音が響いて、巌人はフゥと息を吐き出した。
ここは旅館にある露天風呂。
あの後、とりあえずやることもないのでこの宿の名物だという風呂に入ろうということになったのだが。
「暗くて……なんにも見えないな」
巌人は思わずそう呟いた。
彼の視力ならば頑張れば暗闇の中も見渡すことも出来るのだが、わざわざ風呂の中に入ってまでそんなことをしようとなど思いもしない。
温泉のお湯が入ってくる音のみがあたりに響き渡り、
そのため巌人は。
「そろそろ。兄さん、入った?」
「間違いないっすよ、これだけ間開けてるんすから」
「ふっふっふ……ここは貸切、堂々と巌人さまのいる男湯の中に入っていけるというものです」
そんな声が聞こえてきて、思わず額に手を当てた。
「何やってるんだアイツらは……」
巌人はそう呟いて、ボリボリと頭をかく。
男風呂の更衣室の方からキャイキャイとそんな声が聞こえてきて、巌人は――少しだけ、楽しそうに肩を震わせた。
「さて、どうなる事か」
直後、ガララっと引き戸が開くような音がした。
☆☆☆
これはそれから十分と少し前のこと。
紡たち三人は、巌人が着替えなどをもって部屋から出て行ったのを見て、そそくさと三人で顔を突き合わせた。
「どうする」
「どうするっすか」
「どうしましょう」
三人は示し合わせたようにそう呟くと、巌人が出ていったその扉の方へと視線を向ける。
既に紡の気配察知能力と彩姫の『天眼通』『天耳通』によりこの宿には女将と数人の料理人、そして自分たちしかいないことは理解できている。
しかもそれら全員が女性であり、今この宿の中は完全な巌人ハーレム状態であることも。
なればこそ。
「「「もしかしなくても、男湯に入れるんじゃ……」」」
酷い考えである。
もしもここにいるのが三人とも男で、彼らが男しかいないことをいいことに女湯に入ろうというのであれば、女性達から絶対零度よりも冷たい視線を送られるだけで済むだろうが、けれども彼女らはピッチピチの青春真っ盛り、そんな女子達である。
そんな女子たちが男湯へと入ろうというのだ。ここに巌人なり、衛太なり、委員長なりがいれば全力で止めたはずなのだが……。
「「「よし、行くか」」」
残念ながらここには、そんな常識人はいなかった。
三人は着替えとタオルを片手に抜き足差し足で部屋から出ると、巌人も驚きのスニーキングスキルを用いて一階の男湯へとやって来た。
正直彩姫の能力で浮かせばそんな労力は必要無かったのだが、これから犯罪に走ろうという変態三人にそこまで冷静な思考は残されていなかった。
残っているのは――煩悩のみ。
「……あ、鼻血でてきた」
「私もっす……」
「この先に巌人さまが……」
三人して鼻からたれてきたその鮮血を指で拭う。
その様はこれから戦場の真っ只中に送られる熟練の兵士のようでもあったが、その実はただの覗き野郎である。
三人は周囲に誰も見ていないのを確認すると、その暖簾をゆっくりと潜り抜ける。
そして、その先に待っていたものこそ、正しく彼女らが待望していた『男湯』であった。
「「「お、おぉ……」」」
女湯と少しだけ雰囲気の異なっているその一室。
あちらはどこかの甘いような、化粧品の匂いがこもっているが、こちらにあるのはただ純然たる『汗の臭さ』のみ。
その道の感覚に彼女らは圧倒され、思わず声を漏らした。
けれども焦ったように口を塞ぐと、モゴモゴと小さな声で話し始める。
「そろそろ。兄さん、入った?」
「間違いないっすよ、これだけ間開けてるんすから」
「ふっふっふ……ここは貸切、堂々と巌人さまのいる男湯の中に入っていけるというものです」
それについても巌人の着替えが置いてあるかどうか確認すれば済む話ではあったが、もちろんそんなことを考えていられる余裕など皆無である。
なにせ、この先には念願の『混浴』が待っているのだから。
紡は鼻血をたらーとたらしながらフッと笑みを浮かべると、バサァっとその浴衣を脱ぎ捨てた。
後に広がるは、布地一枚もつけていないその身体。
それには二人も驚きに目を見開く。
「ま、まさかツムさん!?」
「み、水着も無しに行くつもりですか!?」
その二人の叫びに紡は振り返る。
その顔には嘲笑が浮かんでおり。
「兄さんの前に、布は不要。自信がなかったら、隠せばいい。自信がなかったら」
紡は、そう言っててくてくと歩き出す。
手には何も持っておらず、身体を洗う時は巌人のタオルで、隠すときはもちろん手で、という覚悟が二人にも伝わった。
故に、二人もそれに対して対抗心を燃やしてしまった。
「な、なにをっ! ツムさんこそそんなちっちゃいのに良くそんな啖呵を切れたっすね! 後悔しても遅いっすよ!」
「ふっ、そんな無駄肉で何ができるというのですか! 巌人さまはスレンダーなモデル体型にこそ興味があるのです!」
そう叫んだ二人もまた浴衣を脱ぎ捨てると、何も持たずにザッザッと風呂場の扉へと向かってゆく。
それに対して紡は満足そうに笑みを浮かべると。
「さぁ、かんどうのご対面」
そう言って、その扉を開いたのだった。
☆☆☆
ふわっと。
大量の湯気が三人の顔に吹き付けられ、三人は思わず目を瞑ってしまう。
けれどもすぐにその湯気には慣れ、三人はパチパチと目を瞬かせながらも瞼を開いた。
そこに広がっていたのは、床が石で出来た一室であり、そのなんとも言えない湿気の帯びた空気に当てられた三人はゴクリと喉を鳴らした。
けれどもー
「……あれ? 兄さんは?」
紡は周囲を見渡して、そう呟いた。
その言葉にカレンと彩姫も同じように周囲へと視線を向けるが、そこには完全なる『無人』が広がるばかりで、こてんと首をかしげてしまった。
「おーい、師匠どこっすかー?」
「もしかして恥ずかしがって隠れてるんじゃ……」
そう言って二人がその浴室の中を探して周り、紡が逃がさないようにと出入口の前で仁王立ちする。
けれども探せど探せど巌人の姿はどこにもなく、困惑した様な表情を浮かべる彩姫とカレンが紡の元へと戻ってきた。
「どこにも、いない?」
「そうっすね……、椅子の下からお風呂の中まで確認したっすけど居なかったっす」
「サウナの中にもいませんでした。……一体どこへ行ったのか」
そうして三人は「うーん」と両手を組んで声を上げる。
あれからかなり時間が経っている。いつもの巌人の入浴時間からして、恐らく今は入浴中真っ只中。ならば何故居ない?
そんなことを考えた紡は――
「露天風呂……、そこは、調べた?」
その言葉を受けたカレンと彩姫は「はっ」と声を上げると、にたぁと笑みを浮かべた。
「なるほど、そこに居たっすか……」
「山奥の旅館の露天風呂、しかも夜ときましたか……」
「いい感じの、ムード感」
そう呟くと三人は露天風呂の方向へと歩いてゆき、迷うことなくギイッと扉を開いてゆく。
瞬間、暖かくなった身体に冷たい空気が吹き付けられ、三人は身を震わせてその露天風呂の中へと駆け込んでゆく。
「「「ふぅ……」」」
吐息が漏れる。
肩まで浸かってやっと体が温まってきたところで、三人は巌人の存在を思い出した。
あれだけ探していなかったのだ、この露天風呂には巌人が必ずいるはずなのだ。
だからこそ彼女らは巌人を探して視線を周囲へと巡らせた。
けれど。
「い、居ない……?」
彩姫が、思わずと言ったふうに呟いた。
そう、そこには巌人の姿はなく、あるのはただ三人が入った時の衝撃で揺れている水面と、少し濃すぎるのではないかというその湯気のみ。
どこかに隠れているのでは、そう思った彩姫は『天眼通』を使って周囲を見渡したが、けれども巌人の姿はどこに無い。
もしかして途中で入口から逃げられたのでは、とは思ったが、けれどもずっと入口には紡が待ち構えていた。流石の巌人でもあの紡の目の前を気づかれることなく通り過ぎることなど不可能だ。
ならば――
「ま、まさか――っ」
彩姫は到底信じられない、けれどもそうとしか思えないその結論へと至り、その視線をそちら――『女湯』との仕切り壁へと向けた。
思い出すは、巌人が浮かべていたあの胡散臭い笑顔。
あれを見てしまえばもしかしたらと、そう思ってしまうその考え。
それを、彩姫はポツリと口にした。
「私たちの考えを読んで……敢えて女湯に入って……?」
「「なっ!?」」
その考えに、二人は戦慄した。
女が男湯に入るのも犯罪といえば犯罪なのだが、男が女湯に入るというのは、その比にならない程の犯罪臭を感じさせるものである。
それを、まさかあの巌人がするだろうか。
けれども。
「巌人さまの気配察知能力は、私たちの想像を遥かに超える精度なのだと思います。それこそ、タオルと着替えを持って風呂場に向かって来ている存在をすぐに察知できるほどに……」
そこに本人がいれば『なんだその怪物は』とでも言いそうだが、傍から見ればそれくらいやれそうだな、という感想を抱いてしまうので笑えない。
その言葉にガバッと女湯の方へと視線を向ける二人。
全く音は聞こえないが、それでも何となく、居るような気がする。勘違いかもしれないが、それでも彼女らの勘は告げていた――巌人は今女湯に入っている、と。
「に、兄さん? ほ、本当にいるの?」
「師匠! そこに居るんっすよね! 返事をしてくださいっす!」
けれども返事はなく、代わりにぽちゃーんと、そんな水が弾けるような音が向こう側から聞こえてきた。
間違いない。そう確信した紡とカレンはその竹の壁にへばりつき、どこかに覗けるような穴がないか探し始める。
けれどもかなり分厚く作られているのだろう。全くそれらしい穴が見つかる気配はなく――二人は、動く気配のない彩姫の存在を思い出した。
疑問を覚えてそちらへと視線を向けると――
ボタッ、ボタボタッ……。
そこには、瞳を爛々と赤く輝かせている彩姫の姿があり、彼女はジィっと『壁の方』を見つめて鼻血を流していた。
「あ、彩姫……? 何をしてるの?」
「ちょ、お湯に入りすぎてのぼせちゃったっすか?」
二人は心配そうにそう問いかけるが、どうやら彼女の耳には届いていないらしく、彼女はグッとその鼻血を手で拭った。
いよいよ怪しくなってきた彩姫。その様子を首を傾げて見ていた二人は――その瞳が纏っている、その赤い光を視認した。
「「ま、まさかっ!?」」
――『天眼通』。
それはありとあらゆる障害物を見透かし、対象を視認するという能力。
普段の南雲家では『それはズルになる』という理由からその能力を使っての覗き行為はしていないが……残念ながら、この状況下ではズルにはならない。
二人は一斉に彩姫へと襲いかかると、彩姫の顔をぐいっと違う方向へと向けた。そして、突如として暴れ出す彩姫。
「な、何やってるんですか!? 今やっと湯気の隙間から肌色が見えたところなのにっ! もう少し! あと数秒でいいですからっ!」
「だ、ダメッ! ず、ずるすぎその能力っ!」
「何なんすかその覗き能力は! それはカンニングとかもっと素晴らしいことに使うべきっすよ!」
そうして二人は彩姫を地面へと組み伏せると、彩姫はうぐっと呻き声を上げたが。けれどもすぐに、彼女の抵抗はぴたっと止まった。
それに疑問を覚えて彩姫の見てている方向へと視線を向けると、そこにはこの旅館の壁があるばかり。
けれどもこの方向は自分たちの部屋の方向で――
☆☆☆
「……ん? この視線は……」
そう内心で呟いた巌人は、片手に持っていたその牛乳瓶を机へと置くと、布団の上に座りながらそちらへと視線を向けた。
方角としては斜め下。恐らくは一階の風呂場からだろう。
巌人は多分彩姫だろうなと思いながらも。
「悪い、部屋に取り付けられてる露天風呂もらったわ」
どこからか、聞き覚えのある絶叫が巌人の耳に聞こえてきた。
彩姫の見た女湯の『肌色』は腕まくりしながら掃除していた女将さんです。