149.憎悪
世界最高の医者は。
そう問われれば、だれしも口をそろえて彼を指す。
医療系異能の最高峰。
部位欠損すら日を跨がずに完治させる傑物。
そして、その裏の顔は――裏社会の支配者にして狂気の闇医者。
表では誰からも畏怖され。
裏では誰からも恐怖される。
名を、シルガ・デッド。
彼は今日も今日とて表面を貼り付けて、胡散臭い笑みと共に病院へと出社した。
――それが、数時間前のこと。
「――治せ。さもなくば殺す」
首筋に突き付けられた、冷たい剣の感覚。
全身から冷たい汗が噴き出してくる。
あまりに非日常。
前時代的な武器に驚くより先に。
命の危機に怯えるより先に。
まず第一に理解したのが――目の前の女が悪の天敵だということだった。
「き、君は――というか、その傷は……?」
「……」
彼女の全身は、傷に溢れていた。
あまりにも悲痛。
両足は裸足。
……いいや、履いていた靴の残骸が見える。
おそらくは走っていた途中で、その速度に耐え切れず――破損。破壊。靴が原型を留めなくなってもなお、裸足で異常な距離を走ってきた。
そう思わずにはいられないほど、傷ついた脚。
筋肉は既に断裂の限りを尽くしていて、血が滴る。
間違いなく、重症。
死んでも死なないと噂の彼女だ。
その程度の傷は軽傷なのかもしれないが、常人なら痛みだけで発狂。死に至るほどの傷だろう。
……だが、しかし。
世界最高の腕を持つ医者、シルガ。
彼が感じ取ったのは、目の前の女に逆らえば死ぬということ。
……だけではなかった。
英傑の王が背負っている、黒髪の男。
彼がすでに、死して長いということだった。
「治せ……と、それは君の傷のことか」
「殺されたいのかな。この子のことに決まってる」
首に突き付けられた刃が、肉に食い込む。
痛みが走る。
そして医者だからわかる――剣の位置は寸分たがわず、頸動脈のすぐ上だ。これ以上剣を押されれば人間は助からない。
そして同時に理解する。
この女は、平然とソレができる人間だと。
「……不可能だ」
しかし、彼は断言した。
自分が死ぬかもしれない。
その事実を踏まえたうえで、断言する。
「外傷しか診ていないが……その傷で生きているはずがない。すでに出血も止まっている様子。……死後硬直だって始まっているはずだ」
「……うるさいな」
「死ぬ直前ならば対処はできる。だが、死した人間を直すのは医者の領分ではない。それは神の――」
「うるさいっていってんだろうが!!」
女の叫び声が、病院に響く。
余波だけでガラスが砕ける。
周囲からは悲鳴もなく、ただ恐怖だけがその場を占めた。
シルガは限界まで目を見開く。
英傑の王。
冷血極まりない、悪の天敵。
それが、どうした。
どうして彼女は――悪の目の前で涙を流す?
「治せよ! 治してよ! この子を助けるためならなんだってするさ! 国境だって走り抜ける! 壁の外だって走ってきた! 星の裏側にだって駆け抜けた!!」
それが真実だと、理解するには実に容易い。
それだけの怪物だ。
絶対者の、序列2位だ。
そんな彼女が泣いていた。
それはあまりにも純粋な涙。
余計な感情の一切が含まれない、純情の結晶。
それを前に、シルガは思わず息をのみ。
そして、大きく息を吐き出した。
「無理を承知か」
「だから、私の知る限り最悪を訪ねた」
彼女は涙を流しながら、断言する。
その言葉には、さすがのシルガも苦笑い。
この女に認められること。
光栄に思うべきか――災厄と思うべきか。
「…………確約は出来ないぞ」
しばしの間。
やがて彼は、何とか言葉を絞り出す。
ありとあらゆる手を考えた。
手段を選ばぬと仮定した。
その上でも、どう転ぶかは分からなかった。
――死者の蘇生。
それは人類に許されぬ大禁忌。
人の身で神の域に手を伸ばすと同義。
最前を尽くすとは、確約する。
ただし、出来ると確約は出来ない。
というか……やはり、出来ないとしか思えない。
そう思っての言葉だった。
しかし、返ってきたのは拒絶の言葉。
「確約して治してもらう。仮に彼が助からなかったら……その時は、地の果てまで追いかけて、私がお前を殺すだけだよ」
本気の目だ。
彼女は、本気で死者蘇生を実現しなければ殺すと言っている。
なんという狂気。頭がイカレてる。
なるほど、噂通りだと苦笑しながらも、シルガは黒髪の少年へと目を向けた。
「……執着する相手は、少し異なるような気もするがね」
殺すべき相手は私ではない。
彼をこうした、何者かではないのかな。
そう一言呟き、歩き出す。
「総員! 今すぐ緊急手術に入る! とりあえずは輸血用の血液をありったけ! 必要になるかもしれない道具は全て使う!」
静まり返っていた病院が、動き出す。
慌ただしい声が方々から響き始める中、シルガは最後に振り返る。
「私は最前を尽くす。その結果……たとえ、その青年がどういった蘇生を果たそうとも――それだけは文句は言わせない」
たとえ機械仕掛けになったとしても。
たとえ脳だけ生きる生命体になったとしても。
――もう一度、面と向かって話せる。
そういう状況まで持っていく。
少なくとも、彼は『蘇生』をそう捉えた。
対する英傑の王。
彼女は歯を強く噛み締めたが……結局は、何も言わずに顔を伏せた。
「……よろしい」
救急搬送用の移動ベッドがやってくる。
重傷……と呼ぶにはあまりにも過ぎる。
そんな青年を横たわらせて、シルガは見下ろす。
さて。
見たことも無い青年だが……この英傑の王がここまで執着する人間だ。大方、顔こそ表に出ていなくとも、その名は多方面に売れた人物だろう。
例えば――そうだな。
黒棺の王様とか。
「……ま、考え過ぎか」
彼は、手術室へと歩き出す。
その背中を、傷だらけの英雄は見送るしか出来なかった。
☆☆☆
南雲巌人が死んだ。
その事実は、そう易々と受け止められるようなものでは無い。
「……はぁ」
英傑の王……枝幸紗奈は、病院の椅子に座って頭を抱えていた。
自分を慕ってくれた白髪の子。
自分を拾ってくれた恩人の子。
大切だった。
そう、大切だったさ。
だから、柄にもなく取り乱して……星の反対側まで駆けてきた。
あの南雲巌人と言えど……あんな状態から立て直すだなんて、世界を探してもここの闇医者以外にできっこないだろうから。
だから、彼を託した。
あの医者に、あの南雲巌人だ。
治す方も、直される方も常軌を逸してる。
たとえ……もうベッドから立ち上がれなくなったにしても、彼は必ず目を覚ます。
……そう思い込まなければ、心配でどうにかなってしまいそうで。
だから彼女は他のことへと意識を回す。
そして思考が回るにつれて、色々な悩みが頭の中を駆け巡った。
ひとつ、南雲巌人を倒せる生命体が存在すること。
ひとつ、図書館の地下空間の謎が解けてないこと。
ひとつ、異能力者の突然死について、何ひとつ判明していないこと。
ひとつ、絶対化の異能が掛けられた防壁がいとも簡単に消失したこと。
……考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうで。彼女は大きく息を吐いて、天を仰いだ。
「……どうして、ボクを頼ってくれなかったのかな」
枝幸紗奈は無敗である。
生まれてこの方、負けたことがない。
死んだことなら沢山あるけど、最後は必ず勝ってきた。
不死の勇者。
相手がたとえ……どんなに強くとも、時間さえあれば絶対に勝てる。それが英傑の王だ。
だって言うのに。
「君は……そんな場面に至ってなお、ボクを心配したってのかな」
死しても蘇る。
それは、死なないとは別の事実だ。
死の痛みは残るし、死の恐怖も覚えてる。
それを南雲巌人は知っていた。
つらいだろうなぁ、って思ってた。
だから、あの局面。
枝幸紗奈が幾百、幾万度死んでも、届くか分からないような強敵を前にして。
青年は、枝幸紗奈を気づかった。
枝幸紗奈の絶対に消えない命を。
たった一つしかない自分の命より優先した。
馬鹿だ。
「馬鹿だよ君は」
思っていた言葉が、そのまま口に出た。
ふと、覚えのある気配がした。
病院の入口へと視線を向ける。
そこには急いで病院内へと駆け込んでくる二人の少女の姿がある。
「……ったく、謝罪云々は、自分自身で、ちゃんと起きてからするんだぞ」
限りなく白髪に近い少女と。
栗色の髪をした、ジャージ姿の少女。
もう一人の女の子は、今もまだイングランドに留まってるはずだけど。
「……やぁ、こんな所で奇遇だね」
「――兄さんは?」
そして、枝幸紗奈は苦笑を漏らす。
はてさて。
史上最強の黒棺の王。
彼が唯一恐怖した、鬼の純血種。
彼が恐怖したのは、その在り方か。
あるいは鬼の奥底に眠る――力の源泉か。
目の前で溢れる怒気に、思わず冷や汗がこぼれ落ちる中。
その少女――南雲紡は、背筋が凍るほどの無表情で、口を開く。
「とりあえず――兄さんをやった人。私が殺す」
その瞳の奥には、憎悪の炎が揺れていた。