119.筋肉と剣豪
筋肉が眼前にまで迫っていた。
――突進。
何のひねりもない肉弾特攻。
それがあまりにも馬鹿馬鹿しい威力を持っているから笑えない。月影は頬に冷や汗を流しながらその突進を回避すると、右手を構えて力を行使する。
「『影刺』ッ!」
途端、その筋肉――松原の足元から彼の体へと無数の剣が召喚される。それらは影によって作られた超硬質な刺殺攻撃。その光景に一瞬目を見開いた松原は、けれども次の瞬間体をぐるりと回転させて大きく叫ぶ。
「マアアッアアアアアアアッ、スルゥゥッ!」
日本語訳)筋肉。
どう訳そうが意味のわからない言葉を叫びながら両腕を振り回して叫んだ彼は、ニヤリと大きな笑みを口元に貼り付け月影を見据える。
その体には傷一つとしてついてはおらず、硬質なはずの影の剣はすべてその半ばからへし折られている。
「……化け物」
「おおなんという良き響きかな化け物とは! 化物がごとき筋肉がそれを為すのであればそれは詰まり筋肉に対する至高の褒め言葉なり! なんだオヌシ、案外いい奴なのか?」
どうにもこの男相手には調子が狂う。
なんだかその場のノリだけで生きているような筋肉野郎を前に大きく頬をひきつらせる彼女は、ぐっと体の底から大きな魔力を組み上げる。
「さてね。それじゃあそろそろ本気で行くわよ『百鬼夜行』!」
途端、彼女の足元の影が膨張する。
かくしてその影より顕現するは――正しく悪鬼。
全身を黒一色に塗りつぶされたその鬼……否、鬼たちは尽きることなく地上へと流れ込み、その光景に松原は驚いたように眉尻を吊り上げる。
「……むう、なんと面妖な」
言いながら、彼は拳を振り上げる。
重心を落とし、それらの鬼の群れへと駆け出そうと足へと力を込める中、月影の声だけが響いてくる。
「さて、と。六魔槍が六番槍。最高幹部の松原真。罪状、数多……それこそ数えるのが嫌になるほどの器物破損に殺人未遂、その他二桁以上に渡る殺人事件に関与、あるいはその実行犯として暗躍したとされる特級犯罪者。その異能の名は――『筋肉無双』」
何とも気の抜ける名前だが、その効果はあまりにも凄まじい。
その異能の効果は単純明快、筋肉の強化である。
通常よりも筋肉は大きく膨れ上がり、硬度も強度も性能も常軌を逸した段階へと進化する。
たったそれだけ、にも関わらず圧倒的なその力。
それを前に淡々とそれらの事項を読み上げた彼女は――次の瞬間、彼の背後へと現れた。
「――という訳で、処刑します」
まるで気負うことなきその言葉。
松原の背中にえも言えぬ怖気が走り抜け、とっさに彼は背後の彼女へと拳をふるう。
それは身体能力で大きく劣る彼女の体を確かに捉え――次の瞬間、その体は黒い霧となって霧散してゆく。
「む……ッ!?」
その光景に松原は唸る。
事前に電脳王から情報は受け取っていた。
電脳王の仕入れる情報は常に世界の最前線を行くもので、どれだけ重要に保管したデータであっても、それが機械に囲まれた中に存在するのであればそれは見てくださいと言っているようなもの。
そんな電脳王にかかれば巌人の正体を探ることだって可能であるし、攻め込んでくる英傑の王の襲撃にだってあらかじめ察知することで対応することが出来ていた。
――が、この女の力だけは分からなかった。
異能と言うにはあまりにもソレは多様すぎた。
影を用いた武器の召喚、操作。
加えて影の中から無数の眷属の召喚。
更には自身の分身まで出して見せたその力。
もしや幻覚……幻を見せるタイプの異能力か?
そう松原は考えて、鬼たちへと向けて走り出そうとして――
「な……ッ!」
足が動かないことに、背筋が凍った。
視線を落とせば自分の足元にはピンポイントで真っ黒い沼が広がっており、ズブズブと音を立てて沈みこんでゆくその沼を見て『底なし沼』との言葉が浮かぶ。
これは……これは、幻覚なのか。
そう考えて直感が告げる、これは幻覚などではない、れっきとした現実である、と。
肌を突き刺す殺気が告げている。
うなじをピリピリと焼く危機感が告げている。
生物としての生存本能が告げている。
――気を抜けば、即、死ぬであろうと。
「う、おおおおおおおおおおおおッ!」
彼は叫んだ。
恐怖を押し殺さんとばかり声を上げる。
眼前には無数の鬼が迫り、いつの間にか月影の姿は視界から消えている。足元には沼だけが広がっており――はたと、足元以外の地面、つまるところこの建物本来の床へと視線を落とし、大きく笑った。
「……ふむ! よく分からぬがとりあえず! やれる所から壊して見せよう!」
かくして彼は拳を振りかぶる。
その光景に気配を消していた月影は困惑に眉根を寄せ――次の瞬間、嫌な予感に悲鳴をあげる。
「ちょ、ま――ッ」
待って、と。
そう叫ぶよりも先に、松原の拳が床を穿つ。
――かくして地面に亀裂が広がり、その階層は崩壊した。
☆☆☆
月影と松原の戦闘より少し時間は遡る。
彼女らの戦う階層より数階層下のその部屋にて、二人の剣豪が相対していた。
片や、異能を切り裂く壊れることなき由緒正しき普通の刀『無銘』を携えた中島智美。
そして、彼女に相対するは――
「――六魔槍が五番槍、九六尊。伝説の傭兵にして辻斬り。日本海外問わず力の強ぇ奴らを片っ端から辻斬りして回った伝説の享楽者がなーんでこんな組織にいるのかね?」
そこに居たのは、一人の女性。
白地に黒い紋様の刻まれた着流しに、腰に差しているのはかつてのアンノウン発生により失われたとされる伝説の名刀『雷切丸』。紺色の髪を後ろにまとめてポニーテールにしたその女性は正しく『侍』といった言葉が似合う。
そんな彼女は眠たげな瞳で智美の姿を見据えると、なんでもないと言ったふうに口を開く。
「……なに、この世界は腕を試すには狭すぎる。ああ、この人間の強さを確かめたい。あわよくば倒し、己が上位であると知らしめたい。そう思った時に即襲うことが出来て、罪に問われたとて逃げられる場所というのは早々あるまい」
「なるほど分かった、さてはテメェ屑だな?」
歯に衣着せぬ暴言に尊は少し言葉を詰まらせる。
けれどもすぐに息を吐いて落ち着きを取り戻すと。
「そんな挑発は無駄。そのような安い挑発に乗るような安い女だと思われても困る」
「……ん? 要はお前、強いヤツと戦いたいけど襲ったらサツに捕まるのが嫌でこの組織入ったんだろ? なにそれめっちゃ安いじゃん」
「……減らず口を。巫山戯たことを抜かすその頭蓋、この名刀『雷切丸』の錆にしてくれる」
「よくそんな言葉聞くけどよ、刀が錆び付いたらそれ一大事じゃねぇの? あとよく聞いたら今の、なんか日本語おかしくね? 頭蓋を錆にするとかなにお前馬鹿なの?」
「――ぶっ殺す!」
瞬間、圧倒的な殺意が周囲を包んだ。
銀色の閃光が走り抜け、咄嗟に目を見開いておりその場を引いた智美の眼前を雷切丸が走り抜ける。
バチリッ、とまるで雷が弾けたような音が聞こえてそちらを見れば、そこには大きく地面をえぐった雷切丸の姿があり、その光景に智美は驚いたように目を見開いた。
そして一言。
「あ、ごめん。自分でも薄々わかってた感じか? そりゃあ自分で言ってて『なんか変だな』って分かってたところ突っ込まれたら怒るのも分か――」
「黙れこのアバズレがああああああ!」
額に青筋を浮かべた尊が斬り掛かる。
それを無銘を居合切りの要領で抜き放ち、相殺して見せた智美へ、尊は怒りを隠すことなく口を開く。
「貴様好き勝手言わせておけば……ッ! これでも私は名家の生まれ! 間違っても日本語を文法的に間違えるなどあるはずもない珍事である笑止!」
「なぁ、『あるはずもない珍事である笑止』って、なんで最後に笑止付けたんだお前。やっぱり馬鹿だろおま――」
「黙れと言っているッッ!」
言いながら智美を刀ごと力ずくで押しのけると、荒い息を吐く彼女はギロリ物凄い形相で智美を睨み据える。
「こ、このッ! このクソ! クソ女! 先程から私のことを小馬鹿にして……ッ! 人を馬鹿にする者の方が馬鹿なのだぞ! お母様から教わらなかったのかこの愚か者! このバーカ、バーカ! このような屈辱を受けたのは初めてだ! 死んでしまえこの愚か者ぉ!」
「……………………ふっ」
思わず吹き出した智美。
彼女を前に、尊の頭からブチリと何かが切れる音が響く。
見れば彼女の顔は怒りから真っ赤に染まっており――
「も、もう良いッ! き、貴様、ぶっ殺して――」
「マッスルゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウウウ!!」
彼女が刀を構えた、次の瞬間。
粉々に砕けた天井上から奇妙な絶叫とともに、巨大な筋肉が二人の間へと転がり落ちてきた。