112.お弁当
黒い雲。
バチバチと音が聞こえそうな程に機嫌の悪い空を見上げて、僕は大きく息を吐く。
「これは……一雨くるかな」
グレイジィ・ブラックリストとの邂逅から一週間。
彼の言った通りあの金髪はかなりの悪名を轟かせていたらしく、ニュースでは連日に渡るトップを飾り、それを捕縛したとされる黒棺の王――つまりは僕の名もまたニュースでよく聞くようになっていた。
「ま、実名が出ないだけいいんだけど……」
言いながらも思い出すのは、グレイジィ・ブラックリストの告げた『僕の実名』。
――南雲巌人。
つまりは他でもないこの僕が、黒棺の王であるという事実を奴らの組織、六魔槍とやらが突き止めているということ。
そして僕の家の付近で待ち伏せていたこともあり、酒呑童子の娘――つまりは鬼っ娘、そして僕を例の組織が捕縛……いや、殺害しようとしている事実には変わりがないわけで。
「……もうそろそろ、来てもおかしくないと思うけど」
言いながらも振り返った僕は、ソファーの上で規則よく寝息を立てる白髪の少女の姿があり、彼女の前にしゃがみこんだ僕はその髪をゆっくり撫でてやる。
するとくすぐったそうに体を揺すった彼女は、僕にはきっと、一生見せてくれないのだろうな。そう思えるような笑顔を見せて一言。
「お父、さん……」
その寝言に、心がチクリと痛みを告げる。
……まぁ、僕らの距離は少しずつ。少しずつ縮まりつつある。
けれども他でもない、彼女の父を僕は殺した。
その前に誰かによって致命傷を与えられていた? トドメをさしただけだから悪くは無い?
――否、そんなことは思いたくもない。
彼女の父を殺したのは他でもない、僕だ。
いくら前提が変わろうと、いくら状況が一変しようと。
この手で、あの命を散らした事実には変わりない。
だから、さ。
「……頼むから、恨むなら僕を恨んでくれよ」
間違っても、彼女は事実を知るべきじゃない。
どんな事があっても、第二の『仇』を生み出しちゃいけない。
なにせ、もしも彼女が父を打ち負かし、自らを攫った張本人。僕と酒呑童子を巡り合わせることとなった元凶たる電脳王の存在を知ってしまえば――
「……頼むから、僕を許すな」
そう、力なく笑って立ち上がる。
辛い、たしかに辛いよ。
誰かの父親を奪った事実。それは逃げ出したくなるような重圧となって背中にのしかかり、心をジワジワと蝕んでゆく。気が狂いそうになる時がたまにある。
でも、最近さ。
たまに、彼女が笑ってくれるようになったんだ。
昔は憎悪に顔を歪めて、自分の身を削ってでも僕を殺そうとしてばかりだった。
きっとその憎悪が消えたわけでも、殺意が失せたわけでも決してない。
それでも、笑えるようになったなら。
「お前は、いつもみたいに笑ってたらいいさ」
かくして僕は歩き出す。
さて、今日も今日とてバイトの時間だ。
いつくるかも分からない敵を待ち受けるなんて出来ないけれど。無能の僕に出来ることなんて限られてるけれど。
それでも、誰かが彼女へ残酷な事実を突きつけようというのなら、僕は全力で嘘と恥を塗り重ねよう。
知らない方がいいこともある。
知らせない方がいいことも、きっとある。
だからこそ、僕は善意で嘘を飾ろう。
「それじゃぁ、行ってきます」
彼女の寝顔にそう告げて、僕は曇天の下に歩き出す。
☆☆☆
『な、何者だ貴様……ッ!』
懐かしい声が聞こえた。
太く、強く、そして優しい声は、少し怒っていた。
恐怖していたと言ってもいい。
焦ったように、恐れたように。
それでいて、怒っていた。
『おや、戻ってきてしまいましたか酒呑童子。出来れば貴方の居ないうちに済ませてしまいたかったのですが……』
『……質問に答えよ』
その言葉とともに――熱気が吹き荒れた。
私の視界は未だに暗い。
ただ、私の体を担ぐようにしていた……声からして女の人は、少し焦ったように呻き声を漏らした。
『我が娘をどうするつもりだ。応えようにようっては――』
『……答えようによっては?』
そう、同じような言葉で問い返した彼女。
そんな彼女に対してどこからか、失笑混じりの声が聞こえる。
『フッ……、腕の二本や三本、覚悟してもらう他なかろうさ』
『……へぇ』
その言葉に小さくそう返した彼女。
その言葉にはどこか失望したような色が含まれており。
『今、【殺す】と断言しなかったこと、後悔しますよ』
かくして私の記憶は、ここで途切れた。
その光景が何だったのか、よく分からない。
ただ、目が覚めれば少し見慣れ始めた天井と、感じたこともない柔らかな椅子の感覚。
そして、頬を伝う涙だけが、残るばかり。
「……お父さん」
そう呟いて、ぐっと涙を拭う。
一体これがなんの夢なのか、やっぱり分からない。
あの男が私のお父さんを殺した。
その姿を私はこの目で見ていたのだから。
それはきっと間違いないことなんだ。
……そう、間違いない、はずなんだ。
「なのに」
あの男が憎い、殺してやりたいほどに。
それは変わらない、変わるはずがない
でも、それでも……。
「なのに……」
脳裏を過ぎる、あの光景。
自分がこの家に来て、しばらく経ったある日のこと。
たまたま扉の空いたあの男の部屋を覗き込んだ時、目にした光景は、きっと一生忘れない。
いつもは私の気配なんてすぐに察して動いているあの男が、まるで子供のようにシーツを握りしめ、拳を胸へと叩きつけ、声を押し殺して……泣いていた。
ざまぁみろ、と。
そう思った。思わずにはいられなかった。
けれど、それと同時にその姿が、父親の姿とどうしようもなく重なって見えた。
「……っ」
あの男と父さんが似ている。
そんなこと、思いたくもなくてそこから逃げた。
足音を隠すこともなく、頭を振って逃げ出した。
なんで泣いてるんだ。
なんで、なんで加害者なのに。
なんで、悪いヤツが、そんなに泣いてるんだ。
なんで、私のお父さんを殺しておいて。
なんで……
「……えんぎ、だ」
あれは演技に違いない。
あいつはきっと分かってた、私が扉の前にまで来ていたことにも、私が自分の泣いている姿見て動揺することも。
全部わかってるんだ。
全部分かってて、計算してて、なにもかも理解した上で、私を油断させようとしているんだ。
そうに違いない。そう、思おうとして――
『なぁ、鬼っ娘』
その笑顔を思い出して、頭を強く掻きむしった。
なんで、なんで何で……なんで笑ってる。
なんで私を殺さない、私はお前を殺そうとしてるんだ。
なら私を殺せばいい、私をお父さんみたいに殺せばそれで全部が上手くいく、なのになんで……っ!
「……っ! いらいら、するっ!」
思い出すのは、アイツの姿ばっかりだ。
最初、私を迷うことなく殺そうとした冷たい瞳。
あの冷たく、恐ろしい狂気こそがあの男の源泉だってわかってる。あの男は誰かを殺すことに一切の躊躇いがない。やろうと思えば私のことだって殺せるだろう。
なのに、最近のアイツは、笑ってばかりだ。
私が馬鹿にしても、私がいくら貶しても、蹴っても殴っても笑って頭を撫でてくる。
それがどうしようもなく嫌で、泣きそうになる。
私を子供扱いしないでほしい。
お前も子供だろうが、そう言ってやりたくなる。
けど、いっつも言えない。
言いそうになって……はたと、これじゃあ拗ねてるみたいじゃないかって、そう思うから口を閉ざすのだ。
「……きらい、だ」
結論としては、私はあいつが嫌いなのだ。
感情なんて関係なく、父を殺したあの男が嫌いだ。
好きになれるはずがない、いい奴だなんて思えるはずもない。兄だなんて思えるはずがない。
……たまに、楽しいだなんて思うはずがない。
人殺しと一緒にいたせいでおかしくなったんだ。
そうだ、私はおかしくなっただけ。
きっと、ここから逃げればまた、元の私に――
そう立ち上がって……ふと、テーブルの上へと視線が行く。
見れば――忘れていったのだろうか、いつも朝早くに起きて楽しそうに作っているあの男の弁当が置かれており、その弁当箱を見て思わず鼻で笑った。
ざまぁみろ、自分で作って言ったものを忘れて、どこかでお腹をすかせて困ってればいいんだ。
あの男の困っている顔が浮かんだがどうだっていい。
私はここから逃げるんだ。
もう、あの男とは関わらない、関わったらおかしくなるから。
だから、あんなものはどうだっていい。
「もう、わたしは関係ないから」
ふっと笑って、私は家の外へと歩き出す。
宛もない、行く場所もない、居場所もない。
けれど、きっとここより酷い場所なんてどこにもない。
そう、私は歩き出して――
『ねぇほら! 見てくれよ! 今日の弁当めちゃくちゃいい出来じゃないか!?』
その言葉が脳裏を過ぎり、私は大きく歯を食いしばった。
☆☆☆
「うっわ……雨降ってきた!」
曇天の空。
そろそろ来るか、いや来ないで欲しいんだけど。
そう思いながら家へと走っていた僕は、ポツリと手の甲に当たった雨粒を感じて思わず頭上へと視線をあげる。
同時に降り注ぐ雨の糸。
ぽつりぽつりと降り始めた雨は一瞬にして無数の糸のようなスコールへと変貌し、そのあまりの雨量に咄嗟に両手で頭を覆う。
「や、やば……っ! 白髪染めが落ちる!」
これでもかなり強力な染料を使っているらしいが、それも長時間の雨に晒されれば落ちるとの情報を白髪染めパッケージの裏から学んでいた僕は、ぐっとスピードを加速させて一直線に自宅へと走り出す。
――まぁ、端的に言えば弁当を忘れた。
今朝から『いやー、今回の出来は今まででピカイチだな』とか思いながら作っていたわけだが、色々考えることもあってすっかり持ってくるのを忘れてしまったのだ。
「なんとか休憩時間内に戻りたいけど……」
これはもう一回白髪染めしないと不味いかな。
そう思いながらも自宅の庭に降り立ち、駆け足で玄関のひさしの下へと避難すると――はたと、玄関が空いていることに気がついた。
「……あれっ、鍵閉めてかなかったっけ」
一応今朝、あんな決意をしたばっかりだから鍵はしっかりと閉めてったと思うんだけど。
そう言いながらも扉を開き、どこかにいるはずの鬼っ娘へと『ただいま』と声を上げようとして――
「………………はっ?」
――気配が、感じられないことに気がついた。
「――ッ!」
馬鹿か僕は、完全に鈍っていた、怠けていた。
いつもなら家の近くに来た時点で中に鬼っ娘が居るかどうかなんて分かっていた、分かっていたはずなのだ。
なのに、なんで……っ。
「お、鬼っ娘!」
靴を脱ぐことも忘れて家の中へと駆け出し、居間へと彼女の名を呼びかける。
けれどもそこには誰の姿も存在せず。
――机の上からは、僕の弁当箱が消えていた。