ジェイドとの時間
その日から、リィナは一時官僚職を休職してテレーゼの付添人になった。どうやら大公妃候補の付添人になるというのは官僚の中では非常に名誉なことらしく、同僚からは羨ましがられたり、励まされたり、応援されたりしながら送り出されたという。
メイベルと違って、リィナはお茶汲みや衣類の整理、手紙の管理をする必要はない。そもそも付添人は使用人ではなく、高貴な身分の女性の友人役になるのだから。
「テレーゼ様は、大変読みやすい字を書かれますね」
静かな図書館にて。
リィナが見る中で詩集の書き写しをしていると、そう言って褒められた。
なんとなく意外な気持ちでテレーゼはリィナを見返す。自分の字を褒められるなんて、思ってもいなかった。
「そう? 私、他のご令嬢みたいなきれいな字ではないと思うんだけど」
「確かに違います。しかし、テレーゼ様が女官になられるのでしたら十分なくらいです。女官や側近には筆記能力も求められますからね。彼女らが書くべきなのは、たおやかで細い字ではなく誰にとっても見やすい大きな字ですから」
そう言うリィナも、テレーゼと同じ箇所を書き写す。確かに、彼女の字はトメや払いがしっかりしていて、見やすい。官僚ともなれば、可憐な字よりも実用的な字の方が重用されるというのも頷ける話だ。
リィナが来てからは、テレーゼの一日のスケジュールもある程度整頓された。午前中は一緒に図書館に行って勉強をし、午後からは自室で読書や書き物の練習、夕方からは自由時間でリィナと一緒にお茶をしたり新しい楽譜の研究をしたり、エトセトラエトセトラ。
リィナは落ち着いた物腰の娘で、やはり今年で二十歳になるのだという。貴族の令嬢だったらとうに結婚している年齢だが、平民である彼女はそれほど意識していないそうだ。
先日の音楽会でもその腕前を披露したように、リィナは楽器の演奏が得意だった。「まるで地獄のオーケストラ部隊のようですね」とエリオスが例えるようなテレーゼの歌声と違い、リィナのアルトボイスの歌声もすばらしい。この前の夜会も、同僚に推薦されて渋々参加したのだという。
リィナは頭もよくて、とりわけ彼女の計算能力の高さにテレーゼは舌を巻いた。
「職場では、城の帳簿を管理する部署もありますからね。読み書き計算だけは徹底的に叩き込まれました」
テレーゼがリィナを褒めると、リィナはそう言って少し照れたように頬を赤くする。普段はツンと素っ気ない表情をすることが多いリィナだが、照れやすいのか顔が赤くなりやすい質なのか、恥じらうとすぐに赤面する。そんな意外な面がまた、かわいらしい。
テレーゼとリィナ、二人っきりの図書館は静かで、落ち着く。少々だったらお喋りしても迷惑にはならないので、時折雑談を挟みつつ、リィナと共に勉強をする。
ジェイドは、図書館の前で待ってくれている。最初の数日は彼も中に入っていたのだが、どうやら彼は図書館の埃っぽい空気が苦手らしく、ごほごほと咳き込んでダウンしてしまった。屈強な肉体を持っていてテレーゼよりも頑強そうな彼だが、気管支はそれほど強くないようだ。
「すみません、護衛でありながら……」
テレーゼはジェイドと二人、図書館から部屋への道を歩いていた。リィナにはテレーゼの勉強用の道具を取りに行ってもらっているので、テレーゼが選んだ本をジェイドが抱え、二人で廊下を歩く。
隣でジェイドが大きな体を縮めて詫びてきたため、テレーゼは笑顔で手を横に振る。
「ジェイドが謝ることはなくってよ? 誰しも苦手なものはありますし、体のことなら難癖も付けようがありませんもの」
今は他人の目もある廊下なので、テレーゼは「お嬢様言葉」でジェイドに応える。腕いっぱいに本を抱えたジェイドは、心底申し訳なさそうにテレーゼを見つめてくる。
「申し訳ありません……子どもの頃から、埃っぽい場所は苦手で。喉は痒くなるし、数日は咳も止まらなくなってしまうのです」
「ではやはり、体質の問題でしょう。わたくしも、口にすると喉が痒くなる食材がありますから」
「そうなのですか? 初耳ですが」
「ええ、といってもずっと小さい頃に食べた魚介類です。それも、お父様が捌いたものを生で食べた場合だったので。火を通したなら大丈夫だと、後々に分かりました」
そうしているうちにテレーゼの部屋に着く。ジェイドが先にドアを開けて中を確認してから、テレーゼを通す。部屋に戻ると、「お嬢様言葉」はお休みだ。
「おかしいでしょ? 普通のご令嬢なら、父親が捌いた魚なんて食べないわよね」
「いや、それ以前に侯爵が魚を捌くというのが珍しいかと」
冷静な突っ込みを入れるジェイド。
話してみて分かったのだが、ジェイドは寡黙そうな見た目だが乗ってくると普通にお喋りになる。そして最近ではこうして、テレーゼの言葉にさくっと突っ込みを入れる役割も果たしてくれていた。リィナもメイベルもどちらかというとツッコミタイプのようで、テレーゼとしては会話が弾むので非常に有難い。
「そうかしら? ……あ、その本はテーブルに置いておいて。後でリィナと一緒に読むから」
「かしこまりました。……これは、どれも勉強の本ですね」
テレーゼの指示通りにテーブルに本を置いたジェイドが、興味深げに表紙を見つめている。
「地学に天文学……それにこれは、確か官僚登用試験でも使われる算術の参考書ですね。テレーゼ様の熱意がよく伝わってきます」
「えへへ、ありがとう。といっても、半分以上はちんぷんかんぷんだからリィナに教えてもらうんだけどね」
「リィナ殿を付添人にして正解でしたね」
ジェイドの言葉に、テレーゼは微笑みを返した。
あちこちに行くことの多いジェイドやメイベルに聞いたところ、他の令嬢たちは付添人や子分を連れて城内を練り歩いているそうだ。弱気な令嬢は既に数名、ライバルたちの攻撃にやられて意気消沈しているとか。
ジェイドが教えてくれたのだが、音楽会の日にリィナを虐めていた令嬢のボス格である金髪縦ロール令嬢は、ゲイルード公爵家令嬢クラリスというそうだ。
ゲイルード公爵家は過去に大公妃を輩出したこともある由緒正しい家柄で、公爵の母――つまり令嬢クラリスの祖母が先々代大公の妹だという。
ゲイルード公爵は娘クラリスが生まれたときからレオンの妃にと狙っていたらしく、クラリスは容姿端麗でカリスマ性も持ち合わせているものの、蝶よ花よと育てられたためにかなりの俺様何様クラリス様になってしまったそうだ。本人もレオン大公の妃候補筆頭を自称しており、実家の公爵家の権力も手伝って多くの妃候補は彼女にへつらい、ご機嫌をうかがい、攻撃されないよう息を潜めているとか。
そんなクラリスだが、幸運にもテレーゼは彼女の攻撃対象には入っていない。おそらく、あまりにもやる気がなくて引っ込んでばっかりだから張り合う気にもならないのだろう。先日ジェイドと一緒に廊下を歩いているとクラリス様御一行と鉢合わせになったが、廊下の隅に移動してしずしずと頭を下げると、フンと鼻息を鳴らせて通り過ぎていった。ここにリィナがいなくてよかった、とテレーゼはリィナの心配もしたものだ。
テレーゼはテーブルに両肘を乗せ、ジェイドの顔を見上げた。真っ直ぐで、真摯な彼の顔を。
「私はここに来て、本当によかったと思うわ。身の回りのことはメイベルがしてくれるし、リィナが勉強を教えてくれる。ジェイドはこんな私のお守りをしてくれる。それに十二ま――いえ、なんでもないわ。とにかく、お城でとっても有意義な時間を過ごせているから」
十二万ペイルの件が口を衝いて出そうになったが、なけなしのプライドで抑える。ジェイドはリトハルト家の財政状況もテレーゼの目的も分かってはいるが、がめつい女だと思われるのは嫌だった。もっとも、もう手遅れかもしれないが。
ジェイドはテレーゼを見、目を細めた。眩しそうな表情だが、テレーゼの背後に窓はない。むしろ、ジェイドが窓を背に立っているので彼を見るテレーゼの方が眩しいくらいだ。
そして彼はふっと、表情を緩めた。
――今まで見たことのない柔らかな笑みに、とくん、とテレーゼの心臓が鳴る。
「……私も、改めて思います。数ある令嬢の中から、テレーゼ様の護衛になれて光栄だと」
優しい、心からの想いに満ちた言葉。
(ジェイド、こんな風に笑うんだ……)
笑うと、厳しい面影が消えて暖かな日差しのような表情になる。それは、まるで窓から降り注ぐ日光のようで。
「……そんなことを言われても、私は何も返せないわよ」
ついつい、ひねくれた言葉が出てきてしまう。出てしまってから、後悔の念がじわじわ滲み出してくる。
(何言ってるの、私。こういう時は、「そう言ってくれて助かるわ」って、悠然と笑えばいいのに!)
母のメソッド集にも、『殿方に対しては優雅に、悠然と、穏やかに応えること。狼狽えると、甘く見られる』との項目があったはずだ。いつの間に、自分はこんな可愛くない言葉を吐くようになったのだろうか。
だがジェイドは複雑な心中のテレーゼを見つめてゆっくり、首を横に振る。
「私は何も求めません。強いて言うならば、あなたがご自分の願い通りの道を歩まれることを望むだけです」
「……。……随分とちっぽけなお願いね」
「それが私の一番の悲願とも言えますので」
「……分かったわ。それじゃ、ジェイドのためにもしっかり勉強しないとね」
ようやっといつものペースに戻れた。
テレーゼは微笑み、メイベルが淹れてくれた紅茶で喉を潤した。
いつもの茶葉のはずなのに、少しだけ苦く感じた。
Q テレーゼさんは、ジェイドさんのどんなところが素敵だと思いますか?
A ドン引きしないところです。