はじまる前の物語・メイベル
その両手はふくふくとしていて、顔を近づけると甘い香りがした。
「この子がテレーゼよ。娘をよろしくね、メイベル」
「はい、奥様」
ふと、何かに指先を包まれる感触があった。
視線を落とすと、生まれて間もないお嬢様がメイベルの人差し指をぎゅっと握っている。
……絶対に、この方をお守りし、素敵な淑女に育てます。
意気込むメイベルを、「奥様」は穏やかな眼差しで見つめているのだった。
「メーイベールーーーー!」
庭の方から明るい声がする。
部屋に散らかっていた絵本を片づけていたメイベルはやれやれとばかりに額に手をあてがい、体を起こした。
「何でございましょうか、テレーゼ様」
「あのねあのね、すっごくりっぱなイモムシがいるの!」
「それはそれは……」
「ビンもってきて!」
「捕獲はいけませんっ!」
言うが早いか、メイベルはそれまでの億劫そうな態度から一転して驚くべき早さでリビングから飛び出し、庭に出た。
ちょうど玄関ポーチには、うねうねうごめく立派なイモムシを握りしめたお嬢様――今年八歳になったテレーゼの姿が。どうやら間に合ったようである。
「お嬢様! 何度も申し上げておりますように、泥まみれの生き物をお屋敷に入れてはならないのです!」
「そ、そうね……ごめんなさい。すぐにあらってきれいにするわ」
「そうじゃありません!」
そのまま庭の隅にある水道でイモムシを洗いにいきそうなお嬢様を全力で留める。このままだと、「猫でも何かの幼虫でもちょうちょでも、洗えば持ち込み可である」とお嬢様に間違った常識を教えてしまうことになりかねない。
自分の手の中でビッタンビッタン苦しそうにのたうち回るイモムシをきらきらの眼差しで見つめるお嬢様。彼女の前にしゃがみ込み、メイベルはきゅっと怒りの表情を作った。
「よろしいですか、お嬢様。今、ぼっちゃまがお休みになられたばかりなのです」
「エリオス、おひるねなのね。よくねている?」
「はい、奥様と一緒にお休みになってらっしゃいます。……お嬢様がお外で元気に遊ばれるのは結構なことでございますが、あれこれお屋敷の中に持ち込まれると、ぼっちゃまを驚かせてしまうかもしれません」
「エリオス、イモムシきらいなのかなぁ」
しょぼんとするお嬢様だが、いよいよ手の中のイモムシは動きが緩慢になってきている。
イモムシにそのまま触れる勇気のないメイベルは通りがかった庭師に頼み、テレーゼの手から救出したイモムシを庭の隅に放ってもらった。今度はおてんばなお嬢様に捕まることなく、イモムシ生を全うできることを願っている。
「まあ、大きくなったら変わるかもしれませんが、今のぼっちゃまはぬいぐるみや積み木、絵本がお好きでしょう? でしたら、イモムシを持って行って一緒に遊ぶのはまだ早いかと」
なんとなく、ぼっちゃまことエリオスは大きくなっても虫を愛でるような少年には育たないような予感がしている。その頃にはお嬢様もどろんこ遊びを卒業することを祈るばかりだ。
だがお嬢様は、「まだ早い」に納得がいったようだ。うんうんと頷くと顔をほころばせ、泥の付いた両手できゅっとメイベルのスカートに抱きついてきた。
「わかった! わたし、おおきくなったらエリオスといっしょにたくさんあそんであげるわ!」
「ええ、ええ。きっと旦那様や奥様も喜ばれるでしょう」
聞き分けのよいお嬢様にほっと安堵の息をついたメイベルはお嬢様を抱き上げた。
「さ、奥様がお目覚めになったらお勉強のお時間です。幼年学校に入学される前に、基礎教養を付けておきましょうね」
「んんー……おべんきょう、すきじゃないけど……がんばる」
「はい、メイベルも応援しております。では奥様にお会いする前に、手を洗って着替えをしましょうね」
「はーい!」
元気よく右手を挙げるお嬢様だが、その腕は同じ年頃の令嬢よりずっと細い。身長も平均よりはやや低めで、それでも元気いっぱい庭を駆け回り屋敷中の者、そして領民たちに笑顔を与えるお嬢様の姿に、メイベルの胸がつきんと痛くなった。
本当は、お嬢様にはもっとたくさんのおもちゃを差し上げたい。たくさん食べてほしいし、きれいなドレスもたくさん着てほしい。
だが、リトハルト家は金に余裕がないのだ。定期的に支給される国からの支援金はほぼ全て領地に回されている。お嬢様は自由奔放でちょっとおてんばすぎるところもあるが、実家の状況をよく分かっているし幼いながらに領民のことを思い、「わたしのごはんはへらしてもいいから、みんなにあたたかいふくをかってあげてね」と笑顔で提案することができる。
お嬢様も、もう四年ほどしたら幼年学校に入学する。そしてさらに五年も経てば、結婚を考えなければならない時期になるだろう。
それまでにリトハルト家の状況が改善されればよいのだが、十年程度で見違えるほど裕福になれるあてがあるわけでもない。となると、結婚もままならなくなってしまうだろう。
お嬢様が成人する頃には、メイベルもそろそろ体を動かすのが辛くなる時期になっているだろう。だが、この体が動かなくなるその日まで、メイベルはリトハルト家のために尽力する覚悟だ。
「おやつたべたいなぁ……ねえ、メイベル。このまえたべたリンゴのケーキ、おいしかったねぇ」
お嬢様は賢い子だから、普段自分が食べているおやつは普通ならば貴族の令嬢が食べる代物ではないと分かっている。この前食べたケーキも、リンゴは硬くて酸っぱい、水気のない格安品だった。だがそれに文句を言うことはないお嬢様はけなげで、優しい子だ。
メイベルは水道に向かいながら、ぎゅっとお嬢様を抱きしめた。
この泥まみれのお嬢様を、ずっとずっとお守りしていきたい。