母のこたえ
やがて母が、張りつめていた肩の筋肉をほぐし、小さく笑った。
「……なるほど、確か彼は一年前、あなたを城に呼びだした騎士ですね。……そうですか、彼があなたを捕獲したのですね」
「せめて心を捕らえた、とかって言ってくれませんか……」
「何を言っているのですか、テレーゼ。あなたのようなじゃじゃ馬を御すなんて、並大抵の殿方では成し遂げられません。そんなあなたに結婚を申し込むなんて……そう……もう、そんな時期になったのね……」
最後の方は呟くように囁く母。テレーゼはそんな母の顔を見ていて、やるせない気持ちになった。
テレーゼが女官として入城して約一年。一年の大半は城で過ごし、夜勤もあるので寝泊まり先も大概は城の自室。今日のように休暇をもらわないと実家に帰ってこられなくなったので、母の顔をまじまじと見ることもなかった。
(お母様、お年を召してらっしゃるのね……)
リトハルト家が貧しかった頃からしゃきしゃきと働き、数少ない使用人たちと協力して家事を切り盛りしていた母。元は裕福な貴族の娘で、理由はよく分からないが、父と結婚してからは贅沢もできなくなった母。
そんな母の顔をちゃんと見たのも、一年ぶりだ。一年の間に、母も歳を取った。
「……それで、あなたは相手のお方を呼ぶ前にわたくしたちに報告に来たのですね」
「はい。お父様は……やっぱりお留守のようですね」
「姉様。父様は土にかえられたのよ」
「せめて『農作業をしに領土に戻った』と言いなさい、マリー。……お父様は先日、最新型の鍬と鋤が購入できたということで、それはそれはお喜びで……」
「ああ、私のこの間のお給料で買った農具セットですね。お父様のお役に立てたようで何よりです」
「……そうですよ、テレーゼ。わたくしたちはあなたのおかげで、ここまで持ち直したのです。一年前は、領地の農具も買い換えるのも惜しいくらいだったのに」
母の言わんとすることを察し、テレーゼは頷く。
「お母様、私はリトハルト家、そして侯爵領の皆のために貢献できたことが一番の誇りです。もちろん、結婚などに至っても抜かることはしません」
「肩肘張らないで、テレーゼ。わたくしたちはあなたと……リィナ様のおかげで、これほどまで助かりました。エリオス、あなたもそうでしょう」
「はい。リィナ姉様とテレーゼ姉様のおかげで僕は学校を卒業まで過ごせそうです」
エリオスも真面目な顔で頷く。
エリオスは一年前までは進学すら危うかったのだが、進学費を賄うことができて、無事に学校に通えている。このままテレーゼや姉となった次期大公妃リィナが頑張れば、エリオスはもちろんマリーとルイーズも望み通りの学校に通わせてやれそうだ。国立学校まで通わせてやれば、それだけ彼女らの進路も開けるし、嫁に行く際にも大きな財産になる。
母と弟はまだ、次期大公妃リィナを家族として扱うことに慣れていないようだ。そんな姿に小さくくすっと笑いを零し、テレーゼは微笑む。
「いいえ、どんな方と結婚しようと、私は今の生活スタイルを変えるつもりはありません。それに……ジェイドは、私の考えを尊重してくれます。だから……今度、彼を連れて挨拶に参りますことを、お許しください」
アクラウド公国で貴族同士が結婚する際、当たり前だが両家への挨拶を済ませる必要がある。ただし政略結婚やら近親婚やらがざらにあった一昔前と違い、今は貴族でも恋愛結婚をする者が少なくない。
そういった場合、両家による政略結婚と違ってそれぞれの実家への挨拶はプロポーズの後になることが多い。恋人たちはそれぞれの実家に向かい、結婚の許可をもらう。その前段階として、結婚相手を連れてくることを実家に報告しに来ることになっているのだ。報告が家族に受理されてから、相手を連れてくる。いきなり相手を連れてくることをしてはならないという、一種のマナーだ。
だからテレーゼはジェイドをリトハルト家に連れてくる前に、自分の家族に「ジェイドを連れてきてもいいか」と許可をもらうのだ。ここで諾の返事をもらってから、また日を改めて再訪問する。
母はテレーゼの言葉を聞いて、完全に体の力を抜いたようだ。ふっと薄い唇が笑みを象る。
「……分かりました。お父様にはわたくしの方からも手紙を書いておきましょう。ジェイド・コリック殿の来訪を認めます、テレーゼ」
「あ、ありがとうございます!」
「そういうことでエリオス、マリー、ルイーズ。あなたたちも心の仕度をしておくこと。未来の義理のお兄様がいらっしゃるのですからね」
「は、はい」
エリオスたちも嬉しそうに頷いている。テレーゼはほっと、破顔した。
(私は、贅沢だな)
仕事は続けたい。お金はもっと稼ぎたい。でも、好きな人とも結婚したい。
だが、ジェイドはそれら全てを叶えてくれる。贅沢で我が儘なテレーゼをまるっと受け入れ、あの優しい笑みで包み込んでくれる。
それの、なんと有難いことか。
テレーゼは使用人が淹れてくれた茶を啜りながら、ほんわかとした幸福感に包まれていた。




