テレーゼ・リトハルトという侯爵令嬢
「テレーゼ! どこにいるの、テレーゼ!」
見てくればかり立派な侯爵家の屋敷に、侯爵夫人の裏返った声がこだまする。
普段は物静かな奥様が何事か、と数えるほどしかいない使用人たちがおろおろと見守る中、侯爵夫人という身分にしては質素すぎるワインレッドのドレスを纏った婦人がズカズカと廊下を横切っていく。
「テレーゼ! お客様よ! ……ああ、エリオスね。テレーゼはどこ!?」
「姉様はさっき、『いいことを思いついた!』って言って裁縫部屋に向かってらっしゃいました」
そう答えるのは、廊下で母とすれ違った侯爵家の子息。まだ十歳にも満たない少年だが、落ち着きはらった様子で姉の居場所を答える。
「大量の布を抱えてらっしゃったから、パッチワークでもしているのかと……」
「……何事ですか、お母様」
エリオスが話している間に、廊下の奥からひょっこりと小柄な少女が顔を出す。
髪は、母親と同じ桃色がかった金髪。眩しい日光の下では白っぽく、暗い廊下では茶色っぽく見える不思議な色合いだ。ぱちくり瞬きする目は春の小川に咲くスミレの色。シミソバカスひとつない真っ白な肌に良く映えた、優しい色をしている。
彼女は作業中だったのだろう、腕にはまち針で留めただけのパッチワークが抱えられている。弟の予想通り、端切れを集めてクッションでも作ろうとしていたようだ。
「裁縫部屋までお母様の悲鳴が聞こえました。虫でも出ましたか?」
「虫くらいわたくし一人で捻り潰せます! そうではなくて……あああっ! こんなに糸くずまみれ! 今日に限って一張羅を洗っているなんて……運の悪いこと!」
侯爵夫人は大股で娘に歩み寄り、その腕からパッチワークを取り上げてポンポンと粗末なドレスを叩く。そしてくるくるとその場で娘を回転させ、あちこちに付いていた細かい糸くずを取り払う。
なすすべもなくその場で回転していた娘は、はてと首を傾げる。
「随分興奮なさってますね、お母様。何か急用でも?」
「来客です! テレーゼ、あなたにお城からの使者が来たのです!」
ひっくり返った母の言葉に、さしものテレーズも事態を察して目を瞠る。
「お城って……大公様の使いってこと!? えええ、どうして私に!?」
「知りません! 騎士の方がお越しで、テレーゼ・リトハルト侯爵令嬢を出すようにおっしゃってるの!」
「私、何も悪いことしてませんからね!」
「分かってます! ……ああ、時間があればわたくしのお古を着せるのに。仕方ありません、すぐさま応接間へ!」
「え、もうですか?」
「へぇ……姉様、ついに城から呼び出しですか」
「滅多なことを言わないで、エリオス! と、とにかく行ってきます!」
テレーゼはわたわたと捲っていたドレスの袖も下ろし、まろぶようにして応接間へ向かった。
テレーゼが暮らすアクラウド公国は、緩やかな丘陵地帯に公都を構える歴史深い中規模国家である。
現在公国を治めるのは、昨年末に父親の跡を継いで即位した十九歳の若き大公レオン。即位したというのに人前に姿を見せない「変人大公」と呼ばれている彼だが、なかなかのやり手で父の代では改善できなかった税金問題や商業問題、治水や灌漑に関する工事など、さまざまな国内の問題に積極的に取り組む名君である。
一方テレーゼは、リトハルト侯爵家という名前と家だけは立派な侯爵家の長女として生まれた。数代前は城の長官も務めるくらいの人間を輩出したと言われているが、流れゆく時代と文明に付いていけず、リトハルトの名は見る見る間に廃れていった。幸い代々の当主は浪費癖がなく、質素ながらも慎ましく領地を治めていたので領土や身分を剥奪されることもなく、こうして家族全員で暮らしていけていた。
だが暮らし向きは決して豊かとは言えない。国の最低教育水準である幼年学校中等部までは卒業できるものの、名門公爵家の子息が通うような国立学院には進学できそうにない。テレーゼには妹が二人と弟のエリオスがいるため、せめて跡継ぎであるエリオスだけには国立学院まで通わせたかった。
テレーゼは幼年学校卒業後、侯爵家のお嬢様とは思えない仕事をしてきた。刺繍の代わりに裁縫を覚え、自ら炊事場に立って使用人と一緒に皿を磨く。曇りの日には母と一緒に庭に出て、草むしりと虫退治。薪割りだってお手の物だ。雑巾絞りの速さなら、そこらの使用人にだって負けない。
父は普段、領地で暮らしているため公都にいるのは母とテレーゼたち四人きょうだいだけだ。生活に関するあれこれは少ない使用人を駆使して母が上手くやりくりしているが、幼い弟妹たちのためにテレーゼも資金繰りに協力している。パッチワークも、きれいにできたものは街のバザーで売る予定だ。
そんなわけで、侯爵家令嬢でありながら夜会に行く時間も金もドレスも余裕もないテレーゼは、城で暮らす大公と一切の縁がない。今年十七歳になったテレーゼは通常ならデビューしても良い年頃だがそんなゆとりもないので、城に上がることもなかったのだ。