変わることのない思い
テレーゼはじっと前を見つめていた。
両手両脚は縛られ、立ち上がることもできない状態。床のカーペットにへたり込んだ姿勢のまま、テレーゼは静かに目の間の令嬢の演説を右から左へと聞き流していた。
「……お分かり? わたくしは生まれたときから大公妃の最有力候補。ゲイルード公爵家という絶対的な力、お父様やお兄様たちのご偉功、そして妃になるべく育てられたわたくしの力。……おまえにその一つでも備わっていて? そもそも恥ずかしくないの? 名ばかりの貧乏侯爵家の分際で城に上がるなんて。なぜ辞退しなかったの? なぜそんなみすぼらしい成りでここまでやって来たの?」
椅子に腰掛け、べらべらと喋っては自分の言葉に酔っているのは、予想通りと言うべきかクラリス・ゲイルード公爵令嬢。
クラリスはテレーゼがノコノコとここまでやってきたことにご満悦らしく、手下の令嬢たちにテレーゼを縛らせ、自分は革張りのソファに腰掛けてだらだらと意味のない言葉を紡いでいる。
彼女の言葉に耳を傾ける価値はない。先日庭園でも感じたのだが、この公爵令嬢は「指輪の儀式」の意味と本質を大きく履き違えている。
美しければ、強ければ、金があれば、大公妃になれる。
何のために魔術掛かりの指輪があるのかと、頭から否定してやりたい。それをすれば扇で顔を引っぱたかれるのは分かっていたので、黙っていたが。
(わけが分からない……こんなことをして、何になるというの?)
テレーゼの斜め後ろには、数名の令嬢たちが団子状態になってへたり込んでいる。おそらくテレーゼと同じように「お茶会」に参加しようとしてまんまと引っ捕らえられた令嬢たちだろう。
彼女らはもはや生気も残っていないのか、虚ろな目でぼんやりとテレーゼを見ていた。いや、ただ単に眼球がこちらを向いているだけで、「見ている」ことにはなっていないのかもしれない。
彼女らは自分たちと同じように言葉で責められるテレーゼを、どのような思いで「見ている」のだろうか。
「テレーゼ・リトハルト。おおよそ、レオン大公の名が記された小切手に食いついたのでしょう、この貧乏人。ああ、なんて浅ましい、愚かしいこと。お金に釣られて身の程もわきまえず入城するなんて、貴族の誇りはないの? ……ああ、誇りがないから、泥にまみれた生活を送っているのでしたっけ?」
芝居がかった仕草でクラリスが嘲ると、周りに侍る取り巻きたちもくすくす笑う。その中にはテレーゼを騙したマリエッタもおり、その顔を見ると思わず顔に青筋が立ちそうになる。今はクラリスよりもマリエッタの方が、憎らしかった。
「ねえ、テレーゼ・リトハルト。恥ずかしいと思わないの? わたくしだったらあんなボロの屋敷に住むくらいならば潔くこの命を捨てるわ。潔い判断こそ、わたくしたちに必要なもの。それを、藁に縋って泥を啜り、平民共と同じ環境で生き延びるなんて、恥さらしよ。アクラウド公国の膿、ゴミよゴミ。よくもまあ、一月もここに居座ったものですわね。さっさと尻尾を巻いて帰っていれば見逃してやったものを。そうしたら、あなたの大切な大切な可愛らしい付添人も、痛い思いをせずに済んだのかもしれないのにね?」
きゃはは、とマリエッタたちが狂ったような笑い声を上げる。思わずテレーゼは引き結んだ唇の奥でギリギリと歯を噛みしめた。怒りを堪えるテレーゼがおもしろいのか、それともただ単にクラリスに媚びを売りたいのか、マリエッタたちもそうだそうだと囃し立ててくる。
やはり、クラリスはテレーゼの脅しにリィナを使ったのだ。おそらく、官僚棟に呼びだされたリィナを拉致して――
「そうですわね、クラリス様! 落ちぶれ侯爵家なんて、レオン大公の治世を害する膿ですわ!」
「どうしましょう、クラリス様。このまま放置すると、レオン大公のご名誉にも傷が付くかもしれませんわ」
「まあ、なんてこと!」
クラリスは片手を振って取り巻きたちを黙らせる。公爵家の令嬢というよりは、下町のチンピラの親玉のような仕草だ。
「まあ、待ちなさいな。ゴミにもゴミなりの行く末があるでしょう。わたくしはゲイルード家の長女。ゴミだからといって放置したりはしませんわ」
ゴミゴミうるさい、とテレーゼは内心吐き捨てる。
「……そういうわけで、おまえには選択肢をあげるわ、テレーゼ・リトハルト。おまえが明日の儀式に欠席し、身分をわきまえて城を辞するようならばわたくしが大公妃になった暁に多少の支援をしてあげましょう。そうですわね……一月に二十万ペイル、はどうかしら?」
まあ、と取り巻きたちがため息をつく。
「二十万ペイルを貧民に寄付するなんて、お心の広い方ですわ……」
「二十万ペイルあれば、リトハルト家の家計も助かるでしょう? クラリス様に感謝しなさい」
二十万ペイル、とテレーゼは唇に乗せる。
その額、レオン大公から頭金としてもらった小切手の約二倍。
月に二十万ペイルあれば、極貧生活からも脱却できる。
しかし――
(……無理。ちっともいい響きじゃない)
クラリスの命令に従うことで手に入れられる二十万ペイル。その響きに、これっぽっちの魅力も感じられない。
それは、二十万ペイルがテレーゼの望む形で手に入るわけではないから。
正統な報酬として、賞金として手に入れられるならば非常に胸のときめくような金額だが、クラリスの足元にひれ伏し、彼女の命令に従うことで手に入れられる二十万ペイルより、城下町でパッチワークを売った際に手に入る二十ペイル程度の方がずっとずっと、尊くてすばらしい。
テレーゼは唇を噛む。
(悔しい……)
二十万ペイルで喜ぶ女だと貶されたことよりも何よりも、テレーゼたちが必死で稼いだ二十ペイルを、レオン大公が頭金で授けてくれた十二万ペイルを、馬鹿にされたことが何よりも悔しい。
テレーゼは顔を上げた。引き結んでいた唇を、解く。
「……お金は必要ありません」
「……何?」
「クラリス様からお金を受け取る謂われはありません。二十万ペイルを受け取ることはできません」
思っていたよりもはっきりした声が出て、内心安堵する。
クラリスは月二十万ペイルを辞退したテレーゼを見、にやりと扇の向こうで微笑んだ。おそらく、テレーゼが無償で命令に従うと思ったのだろう、が。
「それに、儀式も欠席しません。明日、レオン大公の指輪に触れます」
「おまえっ……!」
取り巻きの一人がカッと目を見開き、テレーゼを射殺さんばかりの眼差しで睨み付けてくる。クラリス以上に彼女の方が激昂しているようだ。
「クラリス様のご厚意に背くつもり!? 薄汚い貧乏人のくせに!」
「わたくしはレオン大公から、頭金として十二万ペイルを受け取りました。わたくしは小切手を受け取ったときに、これを『契約』と見なしました」
テレーゼは負けじと言い返す。
ここで黙ってはいられなかった。
黙っていれば、他の者も――レオン大公をも、冒涜することになるから。
「十二万ペイルをわたくしはこのように捉えました。このお金は、レオン様のご要望を叶え、花嫁選定の『指輪の儀式』にちゃんと参加するという『契約』の証なのだと。わたくしは十二万ペイルを喜んで受け取りました。だからわたくしには、誰に何を言われようと儀式を受ける義務があるのです!」
テレーゼごときが「指輪の儀式」に参加するのに報償十二万ペイルは高いと思っていた。
だからテレーゼは十二万ペイルに見合うだけの価値を発揮したいのだ。
約束通り儀式を受け、選ばれなかったなら潔く身を引いて次なる就職口を探す。そうして、成り行きとはいえ貧乏侯爵家に再起のチャンスを与えてくれたレオン大公に報いたかった。
(ジェイド、私の決意は変わっていないよ)
先日想いを確認させてくれた専属騎士にそう呼びかけ、テレーゼはクラリスを見つめる。クラリスだけを、見つめる。
「そういうわけで、クラリス様。ご指示を受けることはできません。わたくしは誰に何を言われようと、雨が降ろうと槍が降ろうとブタが空を飛ぼうと、明日の儀式に参加いたします」
言った、言えた。
(お母様のメソッド集より、『ここぞというときは決して引くな』……ちゃんと達成しました、お母様!)
ちなみに一ペイルはだいたい五十~百円程度ですが、ものによって値段は全然違うので参考程度に。