リィナとノエル
リィナのターン
――夜。
(……こんな魔界のような場所に、テレーゼ様がいらっしゃるなんて)
リィナ・ベルチェは薄暗がりの中に佇んでいた。手には、投擲用の洗練されたフォルムを持つ、ナイフ。
投擲練習用なので刃は潰しているが、急所を狙ったら敵の片目くらいは奪えるだろうそれを構え、リィナは闇に向かって放つ。
どかっ、と鈍い音を立て、ナイフは的であった丸太に刺さる。最初の頃に比べるとだいぶ命中率は上がったが、まだまだだ。
(いつ、テレーゼ様が狙われるかも分からない。相手がご令嬢ならともかく……)
丸太に刺さったナイフを抜き、いくつもの傷が付いた丸太を眺める。
相手がもし、俊敏な暗殺者だったら。テレーゼが闇討ちのプロに襲われたならば。
リィナは、何があってもテレーゼを守らなければならない。
(レオン大公は、こんな有り様でも放置……いつ死者が出てもおかしくない)
ジェイドやメイベルに聞く限りでは、クラリス・ゲイルード公爵令嬢の妨害は現在のところ、陰湿な嫌がらせや今日のような軽い暴行で済んでいるという。だが、いつ彼女がより横暴な手に出るか分からない。刃物を持ち出されたら、テレーゼには戦う術はない。
テレーゼは賢い。頭の回転が速く、考えが柔軟だ。非常に逞しく、そして正義感が強い。
だが、彼女の運動能力は常人程度。組み手でもすれば間違いなく、リィナが勝つだろう。
テレーゼを危険な目に遭わせたくない。ジェイドは優秀な騎士だが、彼は男。四六時中テレーゼの護衛に付けるわけでもない。
(私がしっかりしないと……)
闇に向かってナイフを構え、鋭く投げる。今度も、ナイフは鈍い音を立てて丸太に突き刺さる。
まだだ。相手が動かない丸太だから命中したに過ぎない。
元々リィナも戦闘能力があるわけではない。反射神経はいい方だが、騎士剣なんて持てるはずもない。
それでも、少しでも足掻きたかった。
泥にまみれた自分を助けてくれたテレーゼのために。
夜の裏庭は風通しもよくて涼しいが、運動をするとさすがにうっすら肌が汗ばんだ。テレーゼはもう眠っている頃だろうが、このままテレーゼの部屋に向かうわけにはいかない。こっそり事情を言っているメイベルにも、汗は流してから上がるように言われていた。
ナイフを鞘にしまったリィナは、シャツのボタンを開けて胸元を大きく開き、井戸に向かった。このエリアは見習の騎士たちが特訓する訓練場に近く、あちこちに水浴び用の井戸や水場が設置されている。夜間も許可さえあれば利用できるので、リィナもこっそり管理棟で許可をもらっていたのだ。
井戸の縁に腰掛け、滑車を引いて汲み上げた水にタオルを浸す。騎士見習の少年たちは上半身裸で思いっきり頭から水を被るそうだが、さすがにそんな度胸はない。第一、着替えもないのだから。
桶にタオルを浸し、よく絞ってから体を拭く、を繰り返していたリィナはふと、背後から近付く足音を耳にした。ひょっとしたら自分の他にも夜間訓練している騎士がいたのかもしれない。
「……リィナ?」
慌てて胸のボタンを留めたリィナだが、背後から掛かってきた声に、はっと息を呑む。
まだ若い男性の声。
自分の名をそのものずばり当てられ、リィナは怪訝な顔で振り返る。
「……どちら様?」
「……ああ、やっぱり、リィナだ!」
警戒心丸出しのリィナに対し、謎の男は嬉しそうに声を上げる。
若い男だ。月光を浴びて輝く髪は金色で、辺りが暗いのではっきりはしないが、おそらく目は青。
城内で身分の高い男性を見かけることの多いリィナも今まで見たことのないような、怜悧な美貌の青年に、リィナは数秒、言葉を詰まらせる。
(……金髪に青い目……え?)
「まさか……ノエル?」
「覚えていてくれたんだね」
そう言って彼は笑い、井戸に座ったままのリィナに歩み寄ってきた。
ノエル。七年前に城の中庭で出会った、謎の少年。
確か年はリィナより一つ下だったはず。記憶の中ではまだちいさかった少年は今、立派な大人の男となってリィナの前に現れた。
金髪に青い目。レオン大公と同じ色合いだが、一度だけ見たことのある彼よりもずっと美しく、ずっと格好いい。
リィナの初恋の人。
どくん、と心臓が大きく脈動する。リィナの手から、タオルがこぼれ落ちる。
「……まあ……七年も、ずっとどこにいたのかと……」
「僕のこと、探してくれていたの?」
ノエルの声は大人の男のそれになっているが、口調は昔と変わらず優しい。
彼はリィナの前にしゃがみ込み、足元に落としてしまったタオルを拾い、井戸の水で洗ってリィナに渡してくれた。
「それは嬉しいな。……僕もやっと、まともに城で働けるようになったんだ。僕もずっとリィナに会いたかったけれど、なかなかそれだけの力が付かなくて……」
「……そうなの。あっ、実は私も官僚として働いていて……ただ今は、別の仕事をしているけれど」
「そうなんだ? 何の仕事?」
ノエルは微笑む。見ている方がうっとりと夢見心地になるような、甘い笑顔だ。
(……ノエルになら、言ってもいいかな)
不思議と彼になら、何でも話をしたいという気持ちになってしまうのだ。
「私は今、レオン大公のお妃候補の一人にお仕えしているの」
「妃候補……へぇ、僕はあそこ、とんでもなく恐ろしい場所だって聞いてるけど」
ノエルの顔が歪んでいる。平民であるリィナが妃候補に虐められているのではと思っているのかもしれない。
リィナは笑い、首を横に振る。
「そうね、よそはとんでもなく大変らしいけれど、私がお仕えしているお嬢様はとてもお優しくて、私にもとてもよくしてくださるの」
さすがにテレーゼが「大公妃より女官!」と言っていることは伏せておいた。
ノエルはリィナの言葉に安心したのか、表情を緩めてリィナの隣に移動する。ふわりと、隣に座ったノエルの体から甘いコロンの香りが漂う。
「そうなんだ……リィナは、そのお嬢様に大公妃になってもらいたいの?」
「……いえ、それはお嬢様とレオン大公、それに指輪次第でしょう。でも、お嬢様はどんな未来を辿ろうと、必ず幸せになれると……そう信じているわ。私は、お嬢様の夢を叶え、未来をより明るいものにするお手伝いをしているの」
「……君は聡明だね。七年前から、変わらない」
ノエルはちいさく笑った後、ふいに真面目な顔でリィナの顔を覗き込む。
「……リィナ。君は僕のこと、好き?」
「え?」
それまでの話題をぶった切っての、いきなりのノエルの大爆弾発言。
さしものリィナも目を瞬かせ、ノエルの長くないセリフを脳内で反芻する。
(好きって……ええっと、つまり、そういう意味よね……?)
じわじわと頬に熱が上がる。テレーゼにも前に指摘されたが、リィナは赤面しやすい体質なのだ。
「そ……それはもちろん、お友だちとしては……」
「違うよ。僕が男、君が女性として好きかってこと」
やはり誤魔化しはきかなかった。
「ちなみに僕は、君のことが大好きだよ」
「なっ……!」
ノエルはさらにリィナに先制攻撃を放ってくる。彼の青の目は大まじめで、からかうような色は一切ない。
「七年前に、一目惚れしたんだ。それから、君にふさわしい男になるべく、今日まで頑張ってきたんだ。……まさかこんな所で再会できるとは思っていなかったけど。僕ももう大人になったし、君にそろそろ結婚を申し込みたいと思っているんだ」
「けっ……!」
(な、何言ってるのこの人!)
ボン! とリィナの顔が火を噴く。それどころか、大爆発を起こす。
「な、何言ってるのよ! 私たち、七年前に一度会ったっきりじゃない!」
「うん、でも僕はその頃からリィナしか思っていないんだ」
「いや、それはその、嬉しいけれど……」
「ああ、でもまだだめだね。せめて大公の『指輪の儀式』が終わるまでは待たないと、僕も君も楽な身分になれない」
「いや、まだ受けるとは……」
「うん、だから考えておいて」
言うだけ言い、ノエルは立ち上がる。そして、絶賛混乱中のリィナの右手を取ってそっと、唇を落とした。
「誰よりも愛しているよ、リィナ。君を迎えられるだけの準備も整っている。……いい返事、待っているから」
「ノエル……」
「お休み、リィナ。それと……僕以外の男にそんな色っぽい姿、見せないでね。そうしないと僕、この国中の男という男を殺して回るかもしれないから」
最後に物騒な注意を述べた後、ノエルはウインクして立ち上がる。
彼が風のように去っていった後には、あわあわと混乱から立ち直れそうにないリィナだけが残された。
なんだこの胡散臭い男。